写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】吉増剛造×空間現代「背」 @外(京都市左京区)

【ART】吉増剛造×空間現代「背」 @外

地味に謎のワードが並んでしまった。「背」は展示のタイトルにしてコンセプト。「空間現代」とは3人組の音楽バンド。「外」とは彼らが運営するスタジオ、ライブハウスの名称だ。その空間が「詩」に染まる。

 

【会期】2020.1/18(土)~2/2(日)

 

うちの母方の祖父が詩をやっていて、生前は宅の本棚に現代詩だか何だかの書籍や同人誌が詰みあがっていて、しかも開くと確実にどれもクッソ面白くなく、文字と行間を読まされることの辛さ、自意識過剰なスナップ写真と同じぐらい読むのが辛い、そんな記憶しかなかったためか「詩」にはあまり食指が動かない人間に育ったというわけですね。おわり。しかし、

  

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「リボーンアート2019」あたりで吉増剛造に触れ始めて、回数を重ねるごとに、考えが大きく変わりました。まあ最果タヒとかの流れもあったですからね。なぜ「詩」が、リアリティを持つ時代なのか、これはまた考察が要る話ですね。既に考察済みだと思いますね。おわり。

 

 

( ´ - ` ) おわったらあかん。

 

京都市バスで錦林(きんりん)車庫前まで行きます。「哲学の道」や銀閣寺のある方面です。車庫前で降りる人は「ホホホ座」や「浄土複合」に用のあるコアな人々です。

 

こんちは。

「外」さんは13時開店です。ホホホ座に寄って時間調整、ECDの妻・植本一子が書いた「働けECD」を古本で入手しまう。やったね。

 

 13時を回りました。いきましょう。

「背」。

 

これ自体が生き物の肩から背骨にかけての標本みたいに見えた。

入ってすぐを右に曲がると、細くて長い通路へと入ります。

 

歩くことが詩を読むことと合致する回廊になっている。独特な、キレのあるカタカナの字体で、発話するように壁に書き付けられたそれは、一語一語がばらばらになる手前の間隔を保っていて、しかし名詞や接続詞のかたまりとして瞬時には処理できない。カタカナのせいだろうか。そして廊下の狭さもあって、壁の高さいっぱいに書かれた文字全体を俯瞰して読むことはできない。

日和山石巻、菊池旅館、といったワードが見いだせたので、リボーンアート2019での石巻滞在時の体験の振り返り、あるいはその時に生まれた詩だろうか。

 

更に、米粒のような字でびっしり字の書き付けられたカラフルな紙、というか、コラージュ絵画のような「詩」が、これらの文字の合間に掲示されている。

うぬうすごいぞ。これでA3ぐらいだったか、さほど大きいわけではないが、とにかく紙面に鬼のように書き込まれた文字、文字の書かれた紙とその下に更に貼られた罫線つきの紙、それらを巻き込む絵の具の渦に、紙に寄った皺と、非常に多層的で、どこまでも中を探索できるため、いつまでも観ていられる。1枚1枚の奥行きが凄まじく、目が離せない。

細かなカタカナ文章は恐らく何かの論考だと思うが、とにかくカタカナは読んでいて意味を解しづらく、文法的な単位で捉えづらいのと、絵の具の飛び散りが事故のように自己を塞いでいるので、直線的に読むことが出来ない。読めない論考、文字と色と衝動の連なりが響きが心地よくさえある。ゴッホには突っ込む余裕がなかった。

 

こちらも同様。読めない文章。破れた紙面、下敷きになり遮られる言葉。「カンキャク」「ハイユウ」といったキーワードから、舞台や演劇について論考しているようにも思われるが、如何せんまともに読むことが出来ないので彷徨うことになる。その余韻とも先走りとも付かない力に見舞われるばかりだ。何かの動画で見たときには、詩人は吉本隆明の文章を毎日紙に書き写すという日課をやっていると語っていた。「ろらん・ばると」との書き込みがあったのは、そうした哲学との接近があるためだろうか。

 

廊下の突き当りにはカウンターがあり、鑑賞料(500円)を支払って更にその奥、ライブステージへの扉を開いて、中に入る。

暗がりの中は音と光と影が動き続ける空間だった。フロア中央に立つ大きなガラス面が照明を受けて、壁面に複数の映像が重なり、影が落ち、スピーカーから音楽と声が流れ、それらは重なり、混ざり合い、流れ続ける。廊下に展開されていた、カタカナ文字の超絶な連なりとはうって変わって、ここに文字はないようだ。密度も感じさせない。重なりの空間。掴み所のない色と影が揺れ動き、暗くてよく分からないが壁にも何かが、文字か?模様か?図?が、描かれているのか、それともガラス面に当てられた光がその模様を影として壁に落とした像だろうか。映像が切り替わると壁は時折白さを取り戻す。そこに、吉増剛造の姿や手が入り込んだり消えたりする。どれが文字なのか、どれが言葉なのかは問題ではなく、吉増の朗読の声が重なる。

吉増剛造の言葉が響く。「トラックぅ~~ ひとつぅ~~ 入らんと~~す~~~」「すこ~~~し~~~ ため~らぁ~い~~~」「いm"~~~~ mいぃ"~~~~~」 「(タンタンタンタン)」何ということだ。全く意味は分からないが、分からないことが心地よい。そうか。これが「詩」なのか。何も見えていないし、何が語られているのかも解さないが、良かった。

 

 

写真で撮ると強調がかなり効いているが、体感的にはかなり上品な感じがした。ぎちぎちに詰まったカタカナの詩のように、もっと音量が大きく、映像と音声がめちゃくちゃに文字やドローイングで埋め尽くされていても全然よかったと思う。

 

 

( ´ - ` ) 完。