写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】ゴトーマサミ「かけら」@BE= Lab & Gallery

【写真展】ゴトーマサミ「かけら」@BE= Lab & Gallery

 モノクロで日常の光景を捉えて繋ぎ、自由なイメージを泳ぐ。これも、スナップ写真。

【会期】2020.2/5(水)~2/16(日)

  

『近所や家の中、また仕事場である暗室、ときどき出掛ける植物園や水族館でのシーンをレンジファインダーカメラ(135)に標準レンズ(50㎜)で撮影した日常の記録写真です。』

「日常」に属していた様々なものたちは、スナップによって時系列から解放され、そしてモノクロームの闇のとろみの中で、再び粘菌のように無作為に繋がり合う。

 

スナップ写真に期待されてきた役割とは、時間と空間の文脈・秩序から「瞬間」を切断・剥離し、秒速の彫刻として提示する、前衛的な試みであっただろう。了解不能、予測不能であればあるほど、時空の切断面の鮮やかさや鋭さは人間を酔い、痺れさせた。何より切断の行為自体に強烈な興奮が伴う。昭和の日本、特に都市空間と生活者はその試行の格好の対象となった。だが時は流れて今、スナップ的前衛は大御所ら先人がやり尽くした後であり、またかつての「被写体」は無個性な群衆ではなく主体を持った個々人として認証されるべき存在となった。従来通りの、攻めの街頭スナップの手法が、写真史的にも社会通念上も古典化してしまった面があることは、否定できないところではないだろうか。

 

攻めのスナップに身を捧げて来た多くの写真家諸兄が怒り心頭に発することを承知しつつ上記のようなことを改めて申し上げるのは、富士フィルム社が2月5日に発表した新製品『FUJIFILM  X100V』プロモーション動画を巡る、世間の反応と騒動を避けて通れないためである。動画内で特集された、写真家・鈴木達朗による実際の街頭スナップ撮影の模様は、今の時代の実情には合わない行為として多くの負の反響を招き、早々に(当日中には)動画はyoutube上から削除された。

 

<★link>Yahoo!ニュース

 https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20200205-00161880/

 

本展示は、この騒動の中身やスナップ写真の是非を巡る議論と、何ら関係はない。

個人的には、街中で不特定多数の「何か」を「目的なく」撮影するという行為・目的自体が、非難、排斥、規制されるという事態はとにかく避けたいと願っている。全てのスナップが他者を収奪することによって為されるものではなく、スナップ写真行為の領域の幅は存外、広くて深いためだ。そのことを、何となくでも良いから知ってもらいたいと思っていたところ、偶然、本展示を鑑賞する機会を得て、「受け止めるスナップ」について考えた次第だ。

 

前衛表現として抜いた刀(眼)を、元の鞘に納める姿勢――切断された「瞬間」を、再び物語という水の流れへ戻してやるべき時期を迎えているとすれば、本作のような、人の顔を奪わないスナップ、切断後に「並べる」編集的スナップは、派手さはなくても、社会との折り合いをつける選択肢として「あり得る」のではないだろうか。

穏やかながら、ただ単に、エモくて優しいだけではない――見ようによっては、足元が溶けて墜ちてゆくような闇も孕んでいる。そんな日常景のスナップという姿勢と可能性が、街頭写真の在り方の一つとして、穏やかに受容されると幸いである。そのように思った次第です。

 

モノクロなのにノスタルジー感がないのが良いですね。あくまで「今」の形や輝きに着目した映像なのが心地良いです。 

 

( ´ - ` ) 完。