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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+2020】@五条坂京焼登り窯_【No.S4】新レイヤ『擬態と変容』、【No.39】荒川弘之『CONCEPTUAL FLAME』、【No.40】ダン・ベイリー『DISPOSABLES』

「KYOTOGRAPHIE 2020」サテライト展示・【KG+】レポ。

ちょっと変わったところで、清水寺へ続く道のふもとあたりの五条坂京焼登り窯」です。やきものを焼く窯があり、そこが【KG+】会場になっています。巨大な窯を取り巻く通路や部屋を用いた、なかなかワイルドな環境での写真展示です。

 

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(新レイヤ『擬態と変容』より)

 

 

  

www.hyperneko.com

 

 

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五条の窯は京阪「清水五条」駅の右側、イエローの【No.S4】【No.39】【No.40】の3つ。窯は巨大で奥深くに伸びており、部屋も複数あるのでいつもなら倍ぐらいの展示数があるのだが、会期をずらした影響だろうか。

 

窯は普段は一般公開されていないようなので、それ自体でも面白い場所かもしれません。今回は紹介カットで。。

 

 

【No.S4】新レイヤ『擬態と変容』

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窯の一番奥の部屋へ進むと、等身大人形の工場・倉庫を模した空間となる。 本作は「ラブドール」をテーマにしており、積まれた段ボールや作品を覆うビニールは出荷前の「商品」を思わせる。だがラブドールの写真ではない。人間がメイクと写真によってドールと化しているのだ。

 

いつからか詳細には知らないが、とにかくラブドールは進化し続けている。この10年ぐらいの間に造形や質感がかなり人間に近付いたと聞く。私はその分野を開拓したためしがないので何も分からないが、2017年には篠山紀信ラブドールを人間に模して撮影した写真集が出ていた。ラブドールを人間と見做して共に生活を送る一般人のこともTV等で話題になっていた。

 

本作の扱う「ラブドールへの擬態」というテーマ、および作品の方向性には二つの意味がある。一つは既製品・商品であるドールと「人間」との境界の消失について、もう一つは、自身を非現実・非日常かつ美的水準の高いドールへ変身させることで得られる「癒し」についてである。

この両方のテーマはどちらも「理想的かつ完璧に美化された女性」の身体を獲得しに向かう点で共通しており、「女性=商品、偶像」という図式のもたらす光と影のコントラストを強く物語る。

 

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まず前者の「ドールと人間との境界喪失」について、最も象徴的で力強く物語っていたのがこの作品で、強い倒錯・混同を孕んでいる。

ラブドール」というテーマだけを抱えて観て回っていた私は、まずこの裸像をラブドールだと思い込んで鑑賞した。しかしあまりに生々しすぎることで混乱し、このドールが「ドールに擬態した生身の女性」であることに気付くまで、やや時間を要した。その間わたしはまじまじと顔や胸や肌を見た。それは「作品」を見る眼ではなかった。

 

実際には、この裸像が本物の女性なのか、ソフトビニールやシリコンで作られたラブドールなのかは大きな問題ではないだろう。問題なのは、通り過ぎることを許さないほど強力に性の対象としてこの裸像が訴えかけてきたことだ。すなわち商品化された(消費の対象として完成された)性のフォーマットを備えていたことだ。

一役も二役も買っていたのがビニールによる梱包である。元来はオールヌードである本作の陰部を隠し、自己責任の下で開帳して鑑賞するという、展示における自己防衛の(「不快に思う方」の訴えを退ける)ための装置である。が、無表情に整った裸体を包むビニールはまさにヴァージンの証、クライアントのため「だけの」真新しい既製品、性の商品としてのニュアンスを極大まで増幅させる。

 

表現のヌード写真として見ることは可能か? 否である。主役であるはずの被写体が、主体性を、演技性すらも失い、全身を無表情で明け渡している。「誰かの所有物」になることに徹して横たわる裸体は、ヌード写真の系譜からも外れている。それどころか、この裸像の写真は撮影者の視点すら宿しておらず、その意味でカメラに撮られた「被写体」ですらない。モノである。モノとしてクライアントに与えられることに徹している。鑑賞者の視線により消費され食われる時まで「主体性」は宿らない(その時初めて「作品」となるのだろう)。

こうした裸像と消費の枠組みを与え続けてきたのはポルノ画像・動画産業、及びそのユーザーらの欲望である。作者はそのコードに無言で乗ってみせる。フェミニズムの見地からの批判や抗弁を行うためではなく、まだ誰のものでもないヴァージンのドールと化すことで、自己表現の自由領域を開拓・確保するために。確信犯的により強力に「見られる」ために。

 

ここに述べたようなことは作者はステートメント等で主張していない。私が鑑賞に当たって突き付けられた自己批評でもある。無表情・無垢のドールに徹し、主体性の喪失によってこちらの慣れ親しんだ一方的欲望・消費の視線を呼び込み、しかしヒト⇔ドールの境界喪失により、その視線は転回され、一部をこちらへと跳ね返すものとなった。

 

展示がこの作品の様式で揃えられていたら、恐ろしい力を発揮したのではないか。単なるポルノと見做されうる恐れも計り知れないが、一方でフェミニズムからの抗弁よりも、氷柱のように刺さる表現になっていたかもしれない。

 

 

本展示および作者のキャリアとして重点を置かれていたのは、第二の意味合いとしての「ドールへの変身による癒し」だ。

 

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最初に取り上げた全裸の像に比べれば、格段に人間的な表情と振る舞いが健康的なぐらいだが、どの写真でも登場人物らは、思い思いのドールへの変身を試みている。それぞれの作品には、ドールの置かれているシチュエーションなど演出上の様々な設定が見られる。人間でないモノとしてのドールへの変身、そして仮想の設定への没入は、今・ここにいる「自分」のあらゆる現実から旅立たせ、忘れさせる。解放感を得られる点ではテーマパークや旅に行くことにも通じる。非日常でのリフレッシュ、癒しの効果があるだろう。それが非・人間の人形であったり、死体であったとしても。

 

命を持たぬものへの変身とは、日常的に抱えていてよい願望なのだろうか? その問いと願いに全力で応じるのが作者のライフワークだ。

 

展示品の箇別の解説は作者のサイトに掲載されている。

leiyaarata.com

 

直接的に言えば、命なきものへの変身は、当人が長年抱えてきたコンプレックスや傷、過去の経歴そのものを強制的にリセットしてくれる。だって、死だから。単なる変身願望の成就とは異なり、生きている個人が自身の「生」を、一時停止させる。一瞬、モノと化した「私」は、私の直線的な人生から自由になれるだろう。何なら身体上の性差すら越境できる。

 

撮影・編集技術の高度化と簡素化により、「私」などという動かし難いものを画像イメージ上で改良・刷新することは、とてつもなく簡単に、当たり前になった。アプリを通して自分の顔の色ツヤ目鼻立ち、顎の細さを改良するのは日常茶飯事だし、どんな男性の顔でも違和感なく女性化するアプリが話題になったりする。

さらにはVTuberのように、動画上で好みのアイコンに合わせて声を当て、その声すら女性化させる技術も普及し、「バ美肉」にのめりこむ男性らも続出している。イメージにより現実を越境し、また現実へ立ち返ってくるための回路と手法は、「私」が何者かという問いと答えを多角化し、より尖った分野を開拓していく。 

多様化しているのは、生まれながらの性の問題と生き方だけではない。任意の変身、転換における選択肢の広がりや普及度もまた、際限なく拡張している最中にある。本作はその一端として「ドール」という非・人間、死への擬態を扱っている。今後もそのニーズは無くならないだろう。そのようなことを感じた。

 

 

【No.39】荒川弘之『CONCEPTUAL FLAME』

窯の入口から展開されていて、木組みの展示枠に吊り下げられている。作品は、炎だ。立ち上る炎の姿をモノクロームで捉えている。

 

 

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モノクロの明暗が力強い。ほとんどが黒で占められている。炎もまた強さのイメージがあるが、こうして見ると炎自体は、きわめて繊細でおぼろげな存在だと気付かされる。存在と呼んでいいものかどうか。赤や橙の色と形を伴いながら、物質ではなく、虹や霧のように触れることは出来ず、姿を変えながら揺らめく。器具に依らなければ発生させるのも維持するのも難しく、脆くも消えてしまう。

 

本作は炎の形状をクローズアップしている。何かが燃えている、ではなく、炎そのものの姿に迫ろうとしている。不定形の造形美を追うものだ。永遠に姿を定めない炎は、写真に凍結されることで「形」の永続性を獲得したが、その写真は本物の炎に劣らぬ繊細さを有し、存在の確からしさと神秘性はまさに置かれる環境によって大きく左右される。

観客の視覚と想像力を、炎の形態に集中させる必要があるように思われた。本会場はあまりに雑多で、周囲のノイズが大きすぎる。 

何もない壁面、例えばそれこそ建仁寺・両足院の薄暗く暗い空間や、大阪のキヤノンギャラリーの真っ暗な空間だったら、見え方は全く変わるだろう。その時、本作はもっと多くの示唆をもたらすのではないだろうか。

 

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余談ですが「登り窯」という名称どおり、斜面に窯を連続して設けてあって、まるで一つの大きな窯のように見える。実際、最下部で火を起こして、その熱を段々に伝えて、一斉に大量の製品を焼けるようにしてあるので、窯の集合体のようなものか。展示スペースへと転換するために木組みが施されているが、主張が激しい。この空間ほんとマジくそ難しいなあ。木組みを隠せるぐらい巨大な絵画とかなら合うのだろうか?

 

 

【No.40】Dan Bailey(ダン・ベイリー)『DISPOSABLES』

 「disaposables」、使い捨て用品。作者が愛用する使い捨てカメラのことを指す。日本の「はかなさ」の美的感覚に通じるものを見出してシャッターを切り、もう10年になるという。

 

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木目の大きな壁面に様々なサイズでスナップ写真が直接貼り付けられている。イギリス出身、英語教師として2002年から日本に滞在している作者が、夜のclubや東京の各所に繰り出しては無造作に捕らえたシーン、日常の記録である。

同名の写真集は、浮世絵の歌川広重『名所江戸百景』を参照し、同じ119枚で構成、ロケーションも踏襲しているという。使い捨てカメラの浅くてザラッとした描写や、撮影時の設定変更も撮影後のレタッチもできない撮り切りの刹那さは、浮世絵の平面性、陰影や奥行きの軽さとどこかで通じるのだろうか。

 

日常の記録、素直なカットが多くて楽しい写真だと思った。東京タワーや富士山、祭、招き猫、桜やイチョウといった日本的なモチーフが、夜のクラブでの熱を持ったカットと絡み合う。ポケモンピカチュウの背後と大仏の胡坐という、一見全く無関係なカットが上下で組み合わせた時に「丸み」で調和するのは新しい発見だった。日本の「カワイイ」感性にも観察眼が光る。

 

ただ、あまりに貼り付ける壁面の木目が強すぎる上に、写真が小さいため、スナップの空気感が殺されていた。また、ステートメントにあった「地域的、世代的、ジェンダー的なテーマを対比させることで 」の意図が全く読み取れなかった。ジェンダー。意図せざる瞬間を舞い込ませるスナップ写真の行為に、どこまで言葉や意味性を持たせるのかは難しい課題だ。

 

 

( ´ - ` ) 完。