写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】小谷泰子「青の断片から青い闇へ」@ギャラリー島田(神戸)

「青」に貫かれた作家の、四半世紀に及ぶ活動を凝縮して鑑賞しました。写真の域を超えた作品を観るのは、夜の海を泳ぐような体験でした。

 

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【会期】2020.9/12(土)~9/23(水)

 

 

 

◆前回の展示、本会場について

小谷泰子氏は1990年代半ば~2000年頃にかけて活躍したアーティストだが、その後、約20年間にも及ぶ沈黙に入った。2019年あたりから精力的に再起動を始めており、奇しくも同じ写真系スクール(大阪国際メディア図書館・写真表現大学)で知り合ったこともあって、展示や写真集発刊などの動きをウォッチしてきた次第だ。

 

www.hyperneko.com

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端的に言うと、小谷作品は自身の裸体をセルフポートレイトによって写真の内に投げ入れ、その像にアナログ作業やデジタル合成で操作を加えて「青」を宿らせている。だが作者は自己表現のためというより、深淵な「青」の中へと至るために自己の体、存在の多くを明け渡しており、しかも多重露光による複数形であるため、生きながら魂たちが冥界へと赴くような姿は、セルフポートレイト、あるいは「あるがままの私」/「演出された私」、という二分法によっても語れない作品となっている。

 

 

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本展示は2020年3月に開催予定だったが、新型コロナ禍により延期となっていた。今回、めでたく開催と相成った。

 

会場の「ギャラリー島田」は三宮から異人館へ向かう北野ハンター坂の途中にある。「RIRAN’S GATE」(リランズゲート)という安藤忠雄が設計したビルの1階・地下1階がそれだ。

さすがは安藤建築、展示空間を大きな丸や四角のコンクリート柱が貫いていたり、バラバラに分離したような壁面の構成が独特で、わずかな歩数で見え方がかなり変わる空間になっている。また、1階部分のギャラリー2室は別店舗の作りになっていて、それぞれが独立した扉と壁を持ち、間に通路が通っている。

 

本展示では、タイトルにあるように最新作『青い闇』(2017~2018)を展開するとともに、過去の代表作品『青の断片』『Fragments in blue』、1998)、『青い拡散』(1997年のものをリメイク)、『Pendulation in blue』(1996)も多数展開している。過去と現在の作品とが繋がって環となり、活動のブランクを感じさせない場となっていたのだが、そんな離れ業を可能としているのは、個々の作品を貫く世界観――「青」の力の揺るぎなさゆえだろう。

 

2つの会場の展示を見てみよう。

 

 

◆会場「trois」

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建物向かって左手の展示室「trois」は、白い壁面がベースで、柱はあるものの壁は途切れておらず、通常の落ち着いたギャラリー空間という印象。こちらでは過去作品が展開されている。

 

ギャラリー内では手前と柱に『Pendulation~』が掲げられている。これらは化石の絵画、時間そのものがヒビ割れたように、人体の像の手前にテクスチャーが浮かび上がっている。元々フィルムの作品だが、今の技術では当時と同じプリント仕上がりには出来ないらしく、テクスチャーの硬質感が強く出ているという。

驚かされるのは直近の『青い闇』との、軸の一貫性だ。時代の差とか古さをまるで感じない。もちろん手法も機材も作者の心境も全ては違うはずだが、しかし20数年の月日を度外視する勢いで、青のトーンが一貫している。他の色やモチーフに分岐していくことがないのもそうだが、何より写真に写り込む作者の姿には老いや衰えを感じないし、たとえ感じたとしてもその像は作者本人へと帰することがない。イメージは冥界への片道切符なのである。

 

それは本作の正体が、実は「写真」ではないからなのかもしれない。真に「写真」的であれば、被写体や周辺・背景についての記録性、すなわち時のリアリティが残酷なまでに伴う(=撮影の瞬間に、永遠に囚われの身となる)はずだが、ここでは無名の青白い体が列を成しているのみで、それが誰の体なのか、誰がそこにいるのかは不問となっている。作家自身の肉体を使って(写して)いるのに、作者はそこにはいない。写真の技術を用いて生み出されながら、写真の国の国籍を得なかった存在なのか。

 

 

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「trois」外側の壁面、2つの部屋の間にはしる通路に面した展示スペースには『青の断片』の大きなプリントが4点並んでいる。ほぼ等身大で、まさにビルの1F部分が青い世界に浸されている。惜しむらくは、この網入りガラスの網目と太い窓枠に遮られたりガラスの反射を受けて、この青にダイブすることができなかった。通常のサイズの絵画なら鑑賞に問題はないと思うが、巨大で繊細な作品だと勿体ない。

 

ちなみにフィルム時代の「青」い、テクスチャーが際立った作品の作り方は、現在のデジタル加工とは全く異なり、また、青のフィルターを透して撮影しているわけでもなく、もっと手仕事が多い。

まず、4×5の大判カメラに白黒フィルムを入れて、多重露光によりセルフ撮影する。そのネガの上から、光を透せるぐらい薄い和紙のようなテクスチャーを圧着させ、塗料を染み込ませる。その状態でもう一度4×5のカラーネガフィルムに密着させて焼き付け(転写)し、カラーの方をタイプCプリントの外注に出すことで、このような独特な作風が仕上がるという。映画の上映用フィルムを作るような工程である。

 

 

なお、上記の技法に関する書き起こしについては、写真家:カッツ氏(勝又公仁彦 氏)による作家インタビュー動画(R2.9/28公開)内にて、作者本人より披歴されていたことから、改めて参考にしつつ、追記したものである。

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 室内の奥の壁では、旧作『青い拡散』のリメイク版が展示されている。

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元の作品は1997年、阪神・淡路大震災からの復興アート活動の一環として開催された六甲アイランド WATER FRONT OPEN AIR PLAY ― 潮風・アート ― 」展に出品された。当時は六甲アイランド・マリンパークのベンチに貼り込んで提示されたが、今回のリメイクではプリントの上から新たに青のドローイングを施し、それを更に複写してプリント出力したものだ。元の画像では人の肌が写っているらしいが、ドローイングと完全に混ざり合い、新・旧のヴィジュアルは判別できない。

 

過去と現在が混然一体となった作品世界である。思えば阪神・淡路大震災から既に25年が過ぎていた。

 

ヴィジュアルから想起させられたのは鈴木理策『Water Mirror』であるが、本作は水でも光でもなく、その青い揺らめきは光学的には知覚できない。現物として外界にあるものではなく、内的な体験として深々と瞬くものだ。

青。透明な湖で、湖面から深淵なる水の中を撮った写真のように見える。底が無く、形もなく、色や光という概念が融解してしまった場所・・・。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』のように、浮かび上がる模様はゆっくりと、女性が池の中に上体を起こしながら揺蕩っているように見える。人間なのか伝説なのか、目の錯覚なのか。ここは観る側の内にあるものを顕す洞窟なのか、夜の海の中なのか。

 

 

◆会場「deux」

隣の部屋は建築の表情がかなり変わって、太い円柱が存在感を示し、壁面が分断されて入り組んでいる。こちらでは直近の作品『青い闇』が展開されている。

 

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一目ではっきりと「日本画だ」「幽玄だ」と、言葉で思った。作品を見たときの感覚が明確な単語に変換されるのは、混迷しがちな私にとってはかなり珍しい。

縦長の水墨画日本画のような同作品は、これまで2回:和室と、全面が白い壁のギャラリー空間で観たのだが、今回がずばぬけて強く「和」を感じた。一見無機質で冷たい安藤忠雄の建築空間は、無国籍・無属性ゆえに、そこに入るものの来歴や本性を独り立ちさせる力があるのかも知れない。

 

しかし作品の中身はそう簡単には言語化できない。見た目のフォーマットに反して、世界観を理屈で固めることは難しい。

過去記事で書いたとおり、『青い闇』で闇の中に揺らいでいる白い肉体は、本来的には作者のものであるが、既に作者の手を離れた、誰の物でもない体、誰にも属さない「命」となって、闇の中を漂っている。その裸像は、実体としての物理的な肉や社会性を全て引き剥がされた「生」の「冥」の部分であり(逆にそれゆえに月のように些細な外部の「光」を鮮やかに照り返すもの--光そのものともなる)、作者個人であることに囚われる存在でもなくなっている。作者の自己表現や、セルフポートレイトの範疇を遥かに超えた存在。集合的な、私達の奥底で通じる共通の「冥」だ。

旧作では、その「冥」、青い裸体像は列を成し、記憶を封入した遺体たちの葬列のようであり、記憶のダンスを湛えた彫刻として立ち並んでいた印象がある。一方で『青い闇』では、青い裸体像の群れは、より強い光を宿しながら、像は個々に動き出し、群れではなく、テクスチャーやフォーマットの縛りから抜け出して振る舞っている。

すなわち前者は、阪神・淡路大震災に端を発する、一種の総合的・社会的な「喪」の領域にあった。それが25年を経た後者では、圧倒的に「個人」の「生」(と同時に「冥」の状態)へとシフトしたということだろうか。個々の裸像が内側から光を帯びているのは、個人がスマホの液晶画面を光らせながら手にする時代であることと無縁でもないかもしれない。

 

命の「冥」に行き先はなく、動きを伴ったとしても何処にも辿り着かず、青い闇の底を彷徨う。暗いのだが全く陰鬱ではなく、ネガティヴな印象を受けない。透き通った裸像はただただ、その場を無限に落ち、歩き、漂う。生者の世界でもなく、作者の個人的な心象光景ですらない。公にも通じる、しかし静かに閉ざされた場だ。陽の光も射さず、時間の流れすらない。本作は現代の私達の直面している生き辛い「生」の暗喩なのか。それとも、私達の具体的で多様な「生」、生き方の奥底に地下水脈として流れる崇高さや実存的な美、強さを讃えるメッセージなのか。

 

否。それらは結果論であり、鑑賞者がそれぞれに想い、希望を託しながら見出すべきことだろう。やはり言葉で一方向から断言することは出来ない。夜の海の中をどう照らせば正解と言えるだろうか? ここからは受け手がそれぞれに作品に触れて、潜ってゆくことでしか見えない場である。

死の国にも見えるし、生きているからこその純粋な生命力に溢れた聖地にも見える、日本画であるとも、写真であるとも、現実社会の消耗戦の薄皮一枚めくった所に広がる平行世界とも・・・ 結論のない堂々巡りが止まないところに、本作の意義が光っている。

 

山登りは頂上にタッチすればゴールだが、夜の海に潜る行為には確かな終わりはない。もう、一億総右肩上がりの受かれた世の中にはならない以上、何度でも不確かな潜行を闇に向かって繰り返すことになるだろう。自分だけにしか見えない「光」に出会うようにして。

 

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( ´ - ` )  完。