nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.4/23~5/15 波多野祐貴「隠れてはない 見えていないだけ」@PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA

2019年頃から「台湾」の街角で風景や人物を撮り、その色と煌めきを影・闇の深さのコントラストによって印象的な作品としてきた作者。このたび、一転してかなり地道な、従来作からすれば地味とすら言える写真をあえて提示した。

 

本展示には「歴史」への気付き・認識の態度が込められている。

R4.4/23~5/15

 

 

いきなりだが、作者の経歴や本展示の要点などの「答え」について、名古屋のアート等展示情報を扱うサイト「OutermostNAGOYA」にて簡潔にまとめられている。

www.outermosterm.com

読むとよくわかるので、お読みくださいませ。

 

 

( ´ - ` ) 

 

よかったですね。

 

これで終わると良い話で終わるんですが、これまでの作品を観てきて、作者から話を聞き取ってきた者として、本展示がどういう位置付けにあるかを考えたいと思う。

 

 

 

■「台湾」への歴史認識と、撮影行為と

これまでの作品の路線を期待するとかなり毛色が異なり、戸惑うかもしれない。

展示会場には、何の変哲もない、明暗や色彩のドラマのない風景のスナップが並ぶ。あけすけに言うならば、かなり地味になった。

 

写っているのは商店街らしき街頭の内側・裏側や店先、大きな公園で体操をしたり寛ぐ人々、記念写真を撮る観光客、などだ。煌びやかなものはない。

 

作者が今回の展示で示したのは、それまで作品の舞台としてきた「台湾」に対する作者自身の歴史認識である。これまで自身の作品制作のための写真を撮る傍ら、何となくシャッターを切ってきたカットを改めて見てみると、無意識のうちに「歴史」が写り込んでいたという趣旨だ。

 

「自分は、台湾における日本統治時代という負の歴史を、看過してはいなかったか」、「自身の撮影行為の暴力性は、かつての日本の支配の暴力性と相似形を描くものではないか」という問いである。私の正義感から誇張して書いているのではなく、実際に本人がそう言っていたので、昨日今日のことではなく、ずっとそのことを考えながらやってきたのだと思われる。

一見さんはともかくとして、これまでの作品を喜んで見ていた鑑賞者側は、認識の急転回に迫られるだろう。かくいう私がそうだった。

 

今回の作品の意味を理解するには、一度、作者の活動を振り返ってみる必要がある。

 

 

■これまでの作品展開――『Call』の台湾

これまで作者のシャッターを促してきたのは、日本人である作者と、台湾という土地・そして台湾人に内在していた「日本」的なるものとの遭遇、親密さであろう。

 

直近の過去作品を振り返ると、「gallery 176」メンバー(2020.2月~2021.7月)として同ギャラリーにて発表した一連の展示:『Call』(2020)、『Unvail』(2020)、『Undercurrent』(2021)が、今展示への対照軸となる。いずれも影・闇の深さに、色と光の鮮やかさがドラマチックなコントラストを織り成し、何気ない光景や人物との一瞬の擦れ違いを、永遠とも思える永き邂逅へと引き伸ばすものだった。耽美やエモーショナルさといった、既存の感動の枠をなぞるものとはまた質が異なる。 

 

『Call』「台湾」を全面的に扱った、まさしく近年の作者を象徴する作品である。以前から写真の学校に通う(2012~2014年、写真表現大学)などして作品を作ってはいたが、台湾が主題となったのはこの作品からだ。ここから「2019年度ヤングポートフォリオ」での作品収蔵や「第22回写真1_WALL」で「審査員奨励賞」(姫野希美選)受賞など、一気に評価・認知が高まった。

 

次の『Unveil』では展示形態がよりインスタレーション化し、闇の中に光と色の像が浮かび上がり、揺らぐ。純粋に美しい。台湾もあれば日本もあり、「写真」の指し示す内容というより像と光の組み合わせが造形的な具象性を持ちながら、情報として具体性を失うところを突いている。台湾の街角に彷徨う体験を、視覚体験で再現させるような構成だ。

 

『Undercurrent』では、1年以上続いた新型コロナ禍での移動制限・自粛の中、地元を歩いて秘められた異世界の輝きを見い出す試みだった。台湾で見出したものと似たような「美」を身近な生活環境に見つけ出す姿は、逆を言えば、『Call』がエキゾチズム、オリエンタリズムではないことを実証しようとしたとも言える。

 

一方で、2020年9月の「PITCH GRANT」(プレゼン優秀者に助成金を与える企画)・最終公開審査では既に『Call』への問い掛けとして、日本人(作者)が台湾に感じる親しみと双子の関係にある、日本統治時代を生きた老台湾人が日本に感じた親しみ・懐かしさに関心を抱き、それを掘り下げて作品制作をしていきたいと語っている。つまり本展示に繋がる動機は『Call』と同時並行で進んでいたことが分かる。

 

また、同じ『Call』でも、1年後の2021年3月に東京の「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」で展開した際には、壁面全体に写真を直貼りするスタイルから一般的な額装・個別展示に移行していた。「ヴィジュアルの美を見せる」ことから「写真の中に映り込んだものに注目する」へと意識が移行してゆきつつ、美を語ること・撮ることについての内省が深まっていったものと思われる。

 

 

■台湾の歴史:日本統治時代

台湾の歴史については専門家でもないので詳しくは触れない。wikipediaで基本的な経緯が纏まっているので、ざっと見てもらえればと思う。

ja.wikipedia.org

1895年から1945年までの50年間、つまり日清戦争後に清朝から割譲を受けてから、太平洋戦争で日本が敗戦するまでの間、台湾は日本の統治下に置かれていた。

台湾統治時代の初期・後期に生じた抗日運動の制圧などは、日本による暴力的な支配のハイライトと言えるだろう。だが一方で、公衆衛生の向上、阿片撲滅、工業化、教育の充実なども推し進めていた。植民地支配であることには違いないと思うが、単に武力制圧して服従を強いたとは言えない形で、硬軟織り交ぜて統治を行っていたようだ。

この時代に近代化・日本化された都市の名残が現在の「風景」に繋がっていて、波多野の今回の展示のテーマに上がっている。

 

そして「皇民化運動(政策)」により、日中戦争(1937~1945年)に向けて台湾を資源供給源として動員すべく、日本語教育、神社参拝の強制など 台湾人を日本人化した。当時の日本語教育によって、現在でも高齢の台湾人は日本語で流暢に会話できるという。実際に作者がそれで会話している。

日本が台湾人の言語や民族的アイデンティティーを支配して帝国色に染めた、と言えばシンプルだが、当時の台湾(人)がどこまで単一のアイデンティティーで統一されていたかは不明だ。

民族的な歴史についてはこちらのサイトが分かりやすい。

www.y-history.net

元は非漢民族が住んでいたが、17世紀にオランダ→中国・明朝→清朝へと支配者が移るなかで漢民族が移住してきた。現在は漢民族が98%を占め、残りは現住民族として16部族が公認されている。

作者は台北の市街地で撮影を行っていたため、作中で出会ったり言葉を交わした「台湾人」は多数派の漢民族と考えてよいだろう。

 

私が実は台湾を訪れた経験がないため、話がやや横道に逸れたが、前3作ではこうした歴史的背景は度外視し、ヴィジュアル表現に特化していたが、同時並行的に問題意識は流れていて、今回それを展示で表明した形となる。

 

 

■展示作品と戦時中の記憶について

提示された写真は、ドキュメンタリーとランドスケープの双方の性質も併せ持ったスナップで、実に素朴だ。会場のキャプションを読むと、どの写真が歴史的な謂れを持つかが判る。全20点のうち半数近くに日本統治時代と関連する場所である旨が書かれている。「街中で不自然に広い場所などは、後で調べたら大体そう」だったという。

 

上掲の写真で言うと、上3枚は地元民の生活の場である路地裏や飲食店。下2枚は台北市内の公園や植物園で、こちらがかつて軍隊の訓練場や空港だったり台湾総督府の共同墓地だったりする。現地をふらっと訪れても分からないだろうし、写真で見ていても分からない。だが一度それと認識すると、徐々に場所性に注意するようになる。

 

私は今回の展示について話をする上で、大文字の歴史に謂れのある場所を扱う写真家について下調べを行ったが、どの作家もうまく当てはまらなかった。めちゃくちゃ代表的なところでヒロシマ」に関わる現代の写真家――藤岡亜弥、笹岡啓子、三田村陽などを少し検証してみたが、これが、想像以上にうまくいかなかった。自国民・地元民が地元の歴史性を炙り出したり、これまでの写真史での語られ方を検証・更新するといった営みとは、本作は位相が違った。波多野は、あくまで旅行者である。藤岡や笹岡と事情が違いすぎる。

 

自身と直接ゆかりのない国や場所での「歴史」を写真で検証・可視化するといえば、米田知子を欠かすことはできない。『暗なきところで逢えれば』や『Kimusa』はまさに直球で戦争や内戦、軍事といった歴史と土地を扱っている。

だがやはり、波多野とは順序が真逆なため、直接の引用はできなかった。同様に下道基行も合わない。

波多野は「歴史」をヴィジュアル化するために撮影してきたわけではなく、今まで撮ってきた自分の写真に「歴史」を「発見」し、再認識をした。それを『見えていないだけ』(見えていなかっただけ、とも言える)として表した。順序が逆なのである。

言うならば、作品の作成途中とも言える段階だ。もし新型コロナ禍がなければ、この2年間で現地に飛び、歴史認識に基づく再撮影や現地民との対話が行われていたことだろう。(実際、作者は「早く撮りに行きたいんですよ」と繰り返していた。そうですよね。全部コロナが悪い。コロナのせいです。)

 

長い目で見れば、特に世界中の新型コロナ感染状況が波打っていて収まらない中では、こうした中間発表的な展示は重要だと私は思った。元々、波多野作品は広義のスナップであり、明確な始まりと終わりを持たない。旅行者として訪問し、偶然の遭遇から日常景を拾い上げる以上、明確なクライマックスや物語もない。作者自身が都度、どこで何をどう見せるかを決定しなければならない。

前作までの闇と煌めき・刹那と永遠のヴィジュアライズから一転して、動かしようのない「歴史」と場所に目を向けたという、大きな振れ幅をライフワークに加える旨を公言した――これは2020年「PITCH GRANT」でのプレゼンテーションに対する進捗報告なのだと私は捉えた。

写真のフレーム内での影と光の揺らぎに留まらず、撮影対象とそれらへの認識におけるスタンスの振れ幅を、より大きな「揺らぎ」として、二つの視座から作品が展開されていけば、作品の構造の奥行きは格段に増すだろう。

 

■「正しさ」について

だが一方で、正しい歴史認識、正しい加害性認識に目覚めるあまり、自己の世界観や視座を「改善」、キャンセルしてしまうことがないようにと願っている。眼前の路地や、見ず知らずの現地人が照り返す輝きよりも、時に(しばしば)「正しさ」は強い光を放つ。「正しさ」は、万能包丁のように正しくないものを判別して切り分けたり、淘汰する力をも持つ。

 

タイトルの「見えていないだけ」とは、自己の視界上の見える・見えないは認識によって左右されることを意味する。逆に、「写真」には意識外のことも光学的に写し込まれているという宿命も含意している。作者はそこに「歴史」的な風景の写り込みを発見したわけだが、更にまた歴史や国家とまるで無関係なものも写り込むはずだ。

 

現地の老台湾人が語った「日本に感じた懐かしさ」は、2国間における相互通行の道を開き、一元的な「正しさ」を揺るがすことができるだろう。

海を隔てて離れた2点間で、そこに住まう人たちが実は同じルーツの精神を持っていることを、歴史的な加害・被害や正しさとは別の位相から写真で語ったのが岩根愛だと思う。旧来の「正しさ」と異なる視座と文法から「異国」を、ひいては自国/私達について語るが出来れば幸いである。

――などという無体なことまで、また、いち作者に背負わせてしまいそうになる。そんな、表現を巡るカルマのウロボロスの影を自分自身に見た思いがした。本作の影響だろうか? どうかな。。

 

 

■■暴力性への認識、その内面化について

蛇足的に少し続けたい。

暴力性への認識を内在せざるを得ない、暴力性の主体であることを常に点検してしまう、内面化された批判的情動について、個人的に興味がある。私自身も他人事ではない。いや、今や誰にとっても我が事として共通のテーマなのではないだろうか。

 

「観光客として台湾を訪れた自分が、その美しさを写真に撮ることの意味は?」

「写真撮影そのものが収奪的な暴力行為ではないのか?」

「それは政権や国家の暴力性と相似形ではないのか?」

 

――こうした問いは今となっては写真作家にとっては割と普通というか、多くのアーティスト、表現従事者にとってはお馴染みのものだろう。

 

写真における暴力性は分かりやすい。

撮り手が被写体から一方的に・恣意的に被写体を所有したり収奪する、自己の表現へ還元して使用する、見たい姿・あるべき姿に押し込める、etc…。これまでの写真史の系譜と、人々の感性の変化との間にズレが生じ、無視できないほど大きくなったわけだ。テレビ番組も同じだろう。作り手と受け手の価値観・感性のギャップが開き続けている。

 

「写真」の意味を世間一般の感覚に広げてみても、色々とある。

近年;体感的にはゼロ年代以降、写真行為、カメラを向けることそのものが、街中、一般人にとっては暴力的な行為となっていった。Web・SNS利用、画像掲載が進展するにつれ、何気ないスナップ写真はWebへの無断掲載と肖像権、プライバシー権を巡る具体的な話へ発展したことが思い出される。

2010年代以降は更に、スマホの普及率が爆発的に高まった。Web・SNSへの写真・動画掲載の進展だけでなく、「カメラ」そのものの定義も変化した。スマホの撮影機能向上に伴って、「カメラ」は機能を奪われ出番を失っていった。代わりにスマホカメラという板状=フラットな「目」が、一般人の標準装備・感覚となり、カメラレンズの凸状に突き出た「眼」は、時代遅れな異物として悪目立ちしていく。凸眼の写真行為は、観光や記念というエクスキューズでもなければ、盗撮や犯罪の下見など生理的な迷惑行為、犯罪そのものの文脈に読み替えられてゆく。

 

表現(者)とは、対象を使って表現へ加工し、手柄・成果は表現者が得る、という仕組みがある以上、様々な面で表現世界外の一般人に優越する立ち位置として、相対的に権力性を帯びる。それゆえに、暴力性の確認が不可欠だという話になる。

TwitterなどSNSの普及が、隠れた収奪や搾取を告発・共有する場として広まり、それらへの危機意識や反発を醸成させたことは大きいだろう。収奪や搾取、無知に対する危機と批判意識は、常に可視化され、可視化の運動自体が前景化することもある(バズること自体の利益、満足感)。告発の視線は社会的に影響力の大きい者へ常に注がれる。マスコミ、学識者や議員、著名人、芸能人、インフルエンサー、等々。その中には表現界、表現者も含まれる。

美術・アートは人の耳目を集める。大規模な展示は人を動員する。それらは社会改良や弱者・少数者擁護、政権や資本の批判をしばしば行う。その裏返しというか、それゆえに「表現(者)」の宿命と存在意義は、地球環境保護、資本主義批判、国家・政権批判(日本で言うなら、戦前・戦中の「大日本帝国」的なるもの、戦後を支配している「米国」的なもの、それら二つの系譜を男性原理の家父長制のもとで継承した「昭和」的なるもの、、、など)にあるとすれば、それらを肯定したり無自覚になぞるような表現(者)は絶対にアウトとなる。評論・批評は表現におけるその点を常に確認しているように思う。

写真(界)も他人事ではない。業界としての棲み分けはあるにしても、80年代後半あたりからアートと写真の境界は曖昧化し、相互乗り入れ状態にある。作者=撮り手の暴力性や収奪の危険性には絶えず警戒の目が向けられている。裏ではそれぞれの界隈に固有の事情や裏側はあるのだろうが・・・。

 

波多野は恐らく、こうした状況を色々と引き受け、感性に内面化していたために、自作品を素通りできなかったのだと思われる。深読みでも寄り添った見方でもなく、打合せやトークなどで言葉を交わしてきた実感としてそう思う。

また、光と色彩の散乱を強めて抽象化を推し進める=地理・歴史性をより一層切り離す、というヴィジュアル彫刻家的な立ち位置も選ばなかった。『Call』の時点で、現地人と目や言葉を交わしており、台湾との私的な対人関係を結んでいた、つまり冷徹にオブジェ化する選択肢は断たれていたことも大きな要因だろう。

 

暴力性と歴史認識の内面化。これは私自身にも大いにある。ものを見てものを書く以上、何を善とし、何を悪とするかは、テンプレートのように時勢や空気で決まるところがある。そして世代によって、所属する組織・コミュニティや、利用するSNS等コミュニケーションのインフラ、手に取る書籍やメディアの種類と頻度によっても変わってくる。

 

私達は何処に居るのか――

別に答えはないが、私自身の今後の方向性を見定める意味でも、勢いで書いてみた。やはり、何だかんだで作者のスタンスには影響を受けたようだ。表現の業がぐるぐるとでかい環を描いている、その中を歩き続けている、気がする・・・。

 

 

新型コロナ禍が収まり、渡航・帰国が自由になって、新たなスタンスでの作品制作が進むと良いですね。がんばってください~。

 

 

( ´ - ` ) 完。