「あ³(あの3乗)展」。奈良女子大学、アーティスト3組(藤岡亜弥、SHIMURAbros、Ahn Jun)、そして入江泰吉記念奈良市写真美術館が新たなプロジェクトで、新たな展示空間を切り拓く。「あ」はアーティストの「あ」? アート? アイデンティティー?
「あ³展」(環境依存文字だが、あ3乗)、当然のように堂々と展示情報が上がっていたのでシリーズものだったかと思ったが、今回初めての企画だった。赤と青を帯びた淡い紫をベースにしたデザインは一見、写真の展示かどうかも判らない。謎である。
国立大学である奈良女子大学が、文化庁の「大学における文化芸術推進事業」アートコミュニケーション人材育成プログラムにより、藤岡亜弥、SHIMURAbrosの2組をアーティスト・イン・レジデンスに招聘。奈良に滞在して作品制作を行った。
また、本プログラム受講生である奈良女子大の生徒は、5回の講座と3回のワークショップ、そして作家の滞在中の制作と展示を支援することでアート表現やマネジメントスキルを多角的に学び、次世代のアート・コミュニケーターとして育成される仕組みとなっている。
そのワークショップで、画像生成AIによる作品制作(『Creating Worlds with Words:プロンプトによる制作』)を担当したアーティスト:Ahn Jun(アン・ジュン)も特別展示という枠で参加している。以上3名が本展示の参加アーティストだ。
◇全体の構成
入江泰吉記念奈良市写真美術館、その名の通り写真家・入江泰吉の作品を保管しつつ、写真文化の普及などのために運営されており、当然ながら通例の企画展は「写真家の写真」をいかに展示し見せるかに主眼が置かれている。また、入江泰吉作品の常設展と、都度都度の企画展をセットとし、一連の順路で見せることが常であった。
今回は過去に例を見ないほど大胆なアレンジが加えられていた。
まず、入江泰吉の展示と「あ3展」を完全に分離し、導線と入口を分けていた。
フロア順路を大きくアレンジできるように作られてはいないので、入江泰吉展示コーナーから企画展の大きなルームへの通路を切って観客を一旦外に出し、逆に普段なら企画展の出口にあたる資料室側の扉を「あ3展」の入口としていた。入口を強引に2つ設けているとは、行って初めて理解できたことだった。
展示の構成としては、企画展用の大部屋を2分割して藤岡亜弥とSHIMURAbrosが用い、その手前横にある小部屋:入江泰吉の機材など資料室をAhn Junが用いるという、理に適った配分となっていた。
いつもなら絶対にありえない展示構成。入江泰吉カメラとAI生成画像写真とが相対する。これが令和だ。
新規的だったもう一点は、特にSHIMURAbrosの作品だが、写真以外の作品を空間インスタレーションとして展開したことだ。
当館のこれまでの展示全てを見たわけではないが、ほぼ全て写真展で、展示の工夫はあれど壁面で平面的に展示するスタンスに変わりはなく、床も用いて立体的に作品を林立させる、彫刻的な展開はされたことがなかった。
それが一転して、まるで現代アートの展示のような光景が広がっていたものだから、この美術館でそれをやったのかっ! と、田舎の素朴な八百屋がペイペイと交通系ICカード支払いを導入したかのような周回遅れの驚きがあった。普通に失礼やな。すんません。でもマジでそんな感じ( ´ ¬ ` )
◆SHIMURAbros「見かけの虹」「映画なしの映画」シリーズ
SHIMURAbros、名前が読めなくて脳内で「アバロス村野敦子」と勝手に変換されたり混乱を来した(タイポグリセミアなど、人間の脳は誤字脱字を補って文脈全体を把握する性質がある)(いいわけ)が、おちついて読むと「シムラブロス」、姉ユカと弟ケンタロウのアートユニットなのだった。
これが驚愕の、入江泰吉記念奈良市写真美術館の歴史を揺るがす現代アート的インスタレーション展開で、準備体操すっ飛ばしてプールに飛び込む小学生のごとく説明文を斜め読みして会場に入った私は、焦った。「まさか奈良美でAnouk Kruithofタイプがやってくるとは…」「これは黒船を見てフリーズした奉行所のおっさんの心境ぞ…」 同行の写真仲間も全く同様。うわあ。
直接的に立体化・物質化された「現代写真」の包囲網の真っただ中に立たされたのだと思ったのだ。こうなると90年代~ゼロ年代に多感だった私達は無力だ。どこまでが写真でどこからが空間デザインなのか? 空間とは? 写真とは? ベンヤミンでは追い付かない、フルッサーを唱えなくてはならない。あかんて。
がしかし、実はSHIMURAbrosの作品は確かに立体造形・彫刻的かつオブジェクトや情報の配置による空間作品ではあるが、扱う主題は写真ではなく、領域としては「映画」であり映像メディア全般に跨るような技術や文法を問いかける作品なのだった。安堵した。
「難題が降ってきたと思ったら隣の課の所管業務だった」てなわけで、こうなると気が楽である。一気に鷹揚に鑑賞し始める。「ほう、この削り出し過ぎた銅板印刷みたいなのは映画のワンシーンですね」「いや動きのシークエンスを一つに象形化していて…」等々。云々。
と言いつつも引用元となる個別のタイトルは不明、「映画なしの映画」シリーズという作品名もヒントにならない(むしろ匿名化を図っている)。明らかに人物の動きらしきものが銅の浮き彫りになっている。紹介文では「映像史に残る場面を立体化した」とあるので、必ず元を辿れる名作であるはずだ。
映画の何らかのシーンについて、3Dプリンタで銅を削り出して彫刻化した作品、と理解はしたものの、そのことがもたらす意味については理解できていない。「写真」ありきで生活しているので、「映画」言語は持ち合わせていないのだ。映画が好きということと映画が何から出来て動いているかを知っていることとは全く別の次元にある。フランス人やドイツ人は一応英語も喋れるが、そのネイティブではないのと同様に。
とはいえ映画は1秒24コマのフィルム映像の連続再生から成立しており、1コマ1コマを当たればそれはまさに写真だ。ただ、物理的な条件が同じなだけで、撮られる/録られる目的、機材や手法、使われ方などあらゆる前提が異なる。
そもそも映画は動く映像であって、時間の尺から成る。
ファスト映画などという不名誉な言葉が流行ったが、「映画」全体を一望する、あるいは彫刻や写真のように一目で全体像を把握することは可能だろうか? よほど人々に繰り返し観られて浸透した作品なら、サムネイル的に象徴的場面1枚の表示でストーリーを想起させることは可能だろう。だがそれは直接に全体像を見せた/見たことにならず、受け手の主観や記憶でしかない。
本展示に置かれた銅の立体彫刻は、そうした尺ある映像ゆえの、全体像を持ち得ないという儚さに対し、動きや象徴性を帯びた刻印、彫刻と成らしめることが出来ないかと模索するもののように思えた。貨幣の鋳造のようにシーンは彫られ、再流通する。
向かい合う椅子の中央に置かれた銅の作品は、もはやどういうシーンの像か、人間か否かも分からない。大きくなるにつれて不明瞭になる。
写真仲間氏がこの銅板の下に、図書が挟まれていることに気付いた。そして背表紙に「万葉集」とあるのを発見した。銅板との関連は不明だが、意味深である。
この万葉集は続く奥の部屋、藤岡亜弥「神のまにまに」にそのまま連なるテーマ・世界観でもある。
尺と一方通行の流れを有する映画という映像物を象形化した銅彫刻の作品は、多数の秒・コマの情報や動きをまとめて封じたアーカイブとも言える。それが1冊の本と対置されることは、何やら「映画」の本質、映像メディアの本質に迫る話に思われた。この、書籍(しかも美術館の収蔵本)の書名を伏せて作品の一部に差し挟む手法は他でも繰り返されており、意味深だ。
本・印刷物という最も古い情報メディアと、動画映像を扱うメディアである映画との関係性をモノの配置で表現しているとも考えることができるかもしれない。映画の脚本や台本がまず文字から起こされていくように構造の基本は書である、と同時に昔の人は文字を見る・読むことで映像が喚起されたとよく言われる通り、イメージを生成させる効果で言えば書物や和歌 ≒ 映画とも捉えることができる。
また、光学ガラスを用いた作品「見かけの虹」シリーズも展開された。円形のガラスは虹色に複合的な色を帯びている。
透過しているのに色があり、角度によっては強く反射する。透明性と均一な屈折率を持つため、光の波長によって屈折率が変化するのが光学ガラスの特性だという。高い精度で光の屈折を扱うカメラレンズにも活用されている。
制作のきっかけとしては、奈良で見た曼陀羅の色が元になっているらしい。
光学ガラスから見える美しきレトロフューチャーめいた光景は、光学ガラスによって像を受け取り写真や映画を現わす「カメラ」が見ている視界なのかも知れない。もちろんカメラに意識はなく人間と同じ知覚はしていないので比喩や連想に近いところだが、各種映像メディアの視座を物理的に提示する作品群の一つとしてうまく機能していた。
3D映像作品ではスケールが反転し、展示の銅オブジェが人間よりも大きな建築物の一部となって登場する。映画のワンカットから切り出された画を独立した立体物にし、更にそれを映像の中へ再取り込みしたもので、映画言語の更なる拡張と独立化を図っている。
◆Ahn Jun(アン・ジュン)
学生によるAI絵画の展示かと思ったのだ。小部屋に入ってまずこの1枚が飛び込んでくるのだから、あっこれ奈良女子大の生徒さんなのかなとか。写真とイラストとAI画像生成とを繋ぐ若いアーティストであると。思ったんですよ。
ねえ。思うやん。
実際、作品はAI画像お馴染みの描写で、一度でもAIによる画像生成や写真補正を行ったことのある人なら非常に身近なものだろう。この若い女性の肖像が典型的だが、エモーショナルな色使いと煌めきの背景、風になびくような髪、はっきりした意思の強そうな大きな目、厚く小さな唇、小さな鼻で整えられた端正な面立ち、マイクロ小松奈々・・・まさにAI画像だ。
だが典型的なAI肖像は今回の展示ではこの1点のみで例外、小部屋の奥に並ぶ作品群は人間的な肖像であり、人物を取り巻く衣装や装飾、背景がAI画像的であった。テーマは「バーチャルなファッションショー」という通り、現実に準備しようとすればロケーションや衣装の作り込みに大変な手間と費用を要するだろう大胆な仕掛けをバリエーション豊かに取り揃えている。
見れば見るほど写真というより絵画であり、幻想そのものの光景がある。一見、陰影や遠近を伴った背景もあるが、絵画的にそう表現しているだけで、書割に近い。
辛うじて人物の部分だけは顔の造形に人間臭いクセを宿しており、AI画像生成が苦手なリアリティを有している。人間の部分は人間由来なのだと思った。
が、同じAIでも本当に顔写真を生成するタイプのものを使えば、「リアルなアニメやゲーム」の質感ではなく、こうした人間そのものの顔の造形が量産できると後に知った。鑑賞中は「実在の人間をモデルとして撮影した写真に、AI生成で背景や服を足した」と解釈したが、その見積りすら甘かったかも知れない。写真に見えているもの全てがプロンプト(=言葉)による画像生成結果なのだろう。
というのも、これを「リアルを写した写真」の前提で観ればそのように見えてならないが、とことん突き放して見れば人物・顔の部分も背景と同一の次元で埋もれた、疑似的な陰影と奥行きの内にあるとしか見えないからだ。超絶技巧の写実絵画と思えばその方が納得がいく。人物らの顔や首の肌、眉毛や睫毛、頭髪に全く歪さがなく完璧なメイクとライティングがキマっている、ように見えるのは撮影セッティングを完璧に施したためではなく、中間的な「絵」だからだろう。
これらを見る際に鑑賞者の内面では、人物写真と見るか絵と見るかの分岐があり、どちらかに「真実」を求めてならない。なぜその二択から逃げられないかというと単純に、私達がこれまで長い年月をかけてリアル・写真と創作の絵画という2つの別の領域を区別し、使い分けて生活してきたためだ。一方でAI画像生成はその両者を混ぜ込んで「画像データ」として学習し出力しているため、そもそも二択となる領域別ベン図が存在せず、「イメージ」という円が一つしか無い状態にあるとも言える。
AIからすればラチュードで出力していて本質的な区分、二択はない。プロンプトによって絵と写真の質の濃淡・強弱を決めているだけだろう。よって指示の強度によっては絵と写真の質が対等に釣り合った画像が出力され、それは私達にとっては判定不能な、もはや性向や信仰によって二択の選択を行わざるを得ない(AIからすれば選ぶ必要すらないというのに)ものとなるのだろう。
本作が越境し旅しているのは、リアル・写真と創作・絵という境界、分断を越えてファッション&ポートレイト・肖像画を行うことと言えよう。それは幻想的で、神話的で、望ましいイメージに満ちている。宮廷画家のようにプロンプトに仕え、大衆の感性に仕えるだろう。そして万人に同じ機能がもたらされる。もう一段手の込んだ作品であったら、どの作品がアン・ジュン作かが判別できない、といった展示になっていたかもしれない。
なお、作者アン・ジュンは、高層ビルの柵の向こう、切り立った縁ギリギリに座ったりして女性の後ろ姿、手足が写っている、あの、死ぎりぎりに競り立つ生のセルフポートレイト作品(写真集「Self-Portrait」赤々舎、2018)の写真家だったのだった。うそやん。鑑賞中は全く気付いておらず、今書いてて経歴をよく見たら、そうだった。うそやんまじか。
二分された境界に身を置いて、その狭間の真っ只中から写真を送り出すという意味では、生と死の断崖「Self-Portrait」もリアルと創造の混ざったAI画像作品も、実に共通したテーマである。ポップな色使いで目を引くところのセンスも然り。
とはいえ、さすがに今作とは結び付かなかった。AI画像というのは良くも悪くも「写真家」とは相性が良いとは言えないのかも知れない。
◆藤岡亜弥<神のまにまに><鏡>
ある意味、奈良市写真美術館という会場に最も相応しく、最も期待される作品/作家だろう。これぞ写真の展示。奈良の各地の風景スナップが大伸ばしで、壁面に並ぶ。純粋な写真、純粋な平面プリント。
「あ³展」は写真展ではなくアート人材育成プログラムの成果発表の一環なのだが、この会場に来るとやはり純粋な「写真」が欲しくなる。条件反射のようなものだろうか。
丁度1年前に「藤岡亜弥 New Stories ニュー・ストーリーズ」展が催されたことも記憶に新しい。実際、藤岡亜弥の名前があったから「あ³展」を観に来たわけです。
前回観たような、短期滞在で通過する旅先や、地元・広島を撮ったスナップに対し、アーティスト・イン・レジデンスで一定期間の滞在を経、何らかのテーマ性を持たせて形に仕上げるというプロジェクトからどのような写真が出てくるのか。
今作は3週間の滞在中に奈良を回って撮られたスナップだが、展示室中央の柱に和歌が書いてあるように、万葉集の句に呼応する形で各場面が切り取られている。立ち寄った寺社で和歌に出会ったことが、今回の制作に繋がったとステートメントにある。
3週間でスナップ撮り歩きして作品制作。
けっこうな荒行である。
ストリートスナップ、あるいは特定の歴史や出来事、エリアを絞ってテーマ化した撮影ならまだしも、特定の目的や対象を持たず、暮らしや移動の中での偶発的な出会いを撮り集めていく中で何かを見出すのがスナップ写真であり作者のスタイルだから、3週間という短さに驚かされた。写真をやっている人間はちょっと胸に手を当てて反省とともに想像して御覧なさい。あなた何年かけて何処で何枚のスナップをやり、そして何回作品として発表しましたか… 3週間は、鬼だ。
それに「奈良」と言うと、部外者にとってはまず観光や広告など典型のイメージが植え付けられている。長期滞在や移住においては、実生活を通じてそうした先行イメージが侵食、分解され置換されていき、個人独自の景色が獲得されていくようになるが、3週間は絶妙な期間だ。滞在地との独自の関係性の端緒となるものを掴んで、自分に引き込み始める頃合いではないだろうか。
その潜行の初期状態というか、大文字の「奈良」から作者が独自に解する「奈良」へとスイッチしたあたりの感じがよく表れている。撮られた場所・場面はどれも「奈良」を象徴する、見てそれと分かるシーンだ。同時に「奈良」そのものの正面からは少し外した、ずらしたところに眼を向けてシャッターが切られている。
ズレ、偏りや歪みを何によって招き入れるか――風景・機体と作者との間に差し挟まれる真のレンズとして何が効いているかが作家の本懐ということになるが、今作では前述のように「万葉集」の和歌が奈良と作者の間に差し挟まれ、和歌に詠われた情景と現実の目の前の光景とを結びつけている。
それは主観的な風景と、広く一般的に開かれた風景との中間的なものとして表されている。
スナップ写真とここでは呼んでいるが、実質的には風景写真である。作者の本来の写真は瞬間性や偶発性を形なく掬い取る、まさに無形のスナップなのだが、今作は水平線に基づく広い視座が確保され、眼前にある天地の全体像がバランスよく収められている。鹿の群れの来訪や雲や水面の表情、天平衣装の女子などのスナップ的偶発性が取り込まれてはいるが、基本形はやはり風景写真に近い。
万葉歌というレンズを透して見た光景とすると、これは納得がいく。奈良時代の奈良は、現在よりも建物が少なく空も地面も広かったであろうし、そもそも自然の風景、風物を詠んで心情を託していただろうから、自ずと視座は風景的になる。心情、主観を交えた風景が時代を超えて交錯する。
また、作者が「奈良を歩いていつも気になったことは、奈良の空が広い、ということ」「3週間の滞在のなかで何度も空の美しさに胸を震わせたことか」と記している通り、そもそも奈良は空が広いのだ。都市開発状況、奈良盆地の特徴などが、平たくて広い風景的な視界をもたらす。
実感を込めて思うのだが、京都・大阪・兵庫の市内と比べて奈良市内は地形としても、街や寺社仏閣の色としても濃淡がフラットで、全てが一様に繋がった沼のように広がっている。歴史の深い土地で、世界的に貴重な歴史あり、有名な建築物もあり、都市部あり新興住宅街ありと、場所ごとの特性はあるはずなのに、歩き回っていても地形だけでなく磁場というか存在感の起伏も感じとりづらく、全てがフラットな沼のように繋がって感じられるのだ。(※なお市内を超えて「奈良県」と言うと、この話は全く当てはまらず、魔界になります。今回は割愛。)
この状況で場所性を絡めた通常のスナップ写真を撮り、作品に昇華させるのは至難の業だ。長期滞在し生活を通じて撮るならば、作者の力量とスタイルであればそれすらこなしてしまうだろうが、今作の風景写真的な平らさは、奈良盆地と和歌の視座として正しいと実感した。
もう一作、「鏡」という作品も制作している。3週間で2種類も… 鬼です。
作者は奈良女子大学の施設に滞在したが、佐保会館や大学の講堂、記念館など歴史的建造物を見学する中で女性教育の歴史に触れ、それらを撮影した。取り組みのきっかけとなったのは佐保会館に飾られていた日本画家・小倉遊亀(おぐらゆき)の作品で、前身となる奈良女子高等師範学校の卒業生であった。
なお私も写真仲間も小倉遊亀のことを「かわいいデザイン的な、しかし筋肉質を秘めた絵を描く凄腕のオッサン」と思い込んでいたので、ここで女性だったことを初めて知って、ひっくりかえった。神様、教養をください(遅い)。
作者は小倉遊亀の自伝を読む中でそのキャラクターや、1900年代前半・近代日本の女性教育の在り様について知り、古い建築や調度品、資料、写真に歴史を重ね、撮影した。100年前の日本の大学で女性がどのような教育を受けたのか。それが現代の何に繋がっているのか。これもまた深いテーマであり、奈良という土地の奥深さを物語っている。
戦士かこれ。かっこよすぎるんだが(困惑
純粋なリアル風景・人物の撮影から生まれた、純粋な撮影写真。純粋な写真プリント。
今回の「あ³展」、こうして他ジャンルの展示、他分野の写真(画像)と「写真」作品とを連結させると、「写真」という言葉の前に「純粋な」「本来の」といった断りをわざわざ付して「人の手と眼を介して撮影行為を経た写真」と明言し区別しなければならない、そういう時代に来たことを改めて実感した。面白かった。
( ´ - ` )完。