nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.11/12~R5.2/5「藤岡亜弥 New Stories ニュー・ストーリーズ」@奈良市写真美術館

2017年・第41回伊奈信男賞、2018年林忠彦賞&木村伊兵衛を受賞した代表作「川はゆく」に新作を加えて再編集した「傷ついた風景の向こうに」のほか、「かわいいだけじゃダメかしら」「ニエプス巡礼」「ホームアローンの計4テーマが紹介された。

【会期】R4.11/12~R5.2/5

(会場写真は美術館から提供いただきました。ありがとうございました。)

「スナップ写真は美術・アート界、海外では評価されない」、この言説をどれだけ聞かされてきただろうか。確かに美術館やアートフェアで扱われているのはスナップ写真以外のジャンルが多い。だが私自身が原点として多感な時期に触れてきたものと言えば90~ゼロ年代初頭のスナップ写真だ。それは日常言語のようなものでもある。未だに「写真を撮りなさい」と言われるとスナップ以外は撮れない

そういうわけで本展示で美術館の中がスナップ写真で溢れているのを見ると「やったあ」感があった。よかったです。これですよこれ。身近なスナップが「表現」となることの喜びと興奮。藤岡亜弥のスナップ写真は一見何気ない・あるがままの日常景や私性から成るように見える。だが本当にそうなのか、本展示で改めて向き合う中で、どうもそうではない、何気ない日常や私性とは似て非なるものであるということが分かってきた。

 

会場の大半を占める主力作品が「かわいいだけじゃダメかしら」と「傷ついた風景の向こうに」の2シリーズで、藤岡作品のスナップの特徴と要点が詰まっている。

 

展示前半は学生時代から子供を撮り続けた「かわいいだけじゃダメかしら」(1991-2013)シリーズが展開される。様々な場所で撮ったスナップ写真のうち、子供が写っている写真をセレクトしたものだ。百々俊二・前館長とのギャラリートークから、構成としては2007~2011年のNY滞在(最初の1年間は文化庁の奨学生として留学)以降の写真が主であることが分かった。撮っては焼いてプリントを溜めてきたものの、これまで発表の機会がなかったという。

撮影場所は多岐に亘る。NY、ヨーロッパ、アジア(台湾?)などで、ストリート、商業施設や店内、家の中など、あらゆる場面でシャッターが切られている。写された子供も、ベビーカーに乗せられた幼児から、自分でちょろちょろ動き回れる年齢、大人びた雰囲気を湛えたティーンなど幅広い。最も多いのは何を考えているのか何をやりだすかが予測できない小さな子供だ。

 

ここで撮り方に幅があることが特徴的で、キャンディッドフォトとして気付かれずに後ろ姿や横顔、遠目から撮られたショットもあれば、作者と目が合っていたり一定の対峙があるような非キャンディッドな写真も多い。

双方に共通しているのは、日常の一コマを掠め取る写真に見えて、それらの像は現実の日常系から遊離していることだ。「日常」の意味をもう少し具体化すると、作者/我々の身の回りで繰り返し流れている定常・恒常的な、内容や質の変わらない時空間である。例えば毎日の通勤通学などで、家と目的地を往復する際に見る光景、場所、時間帯、出合う人の種類などは、一定の質に収斂される。ありのままで何気ない日常のスナップ写真というのはこの反復の内側を主題化して写し取るもので、見過ごされてきた時間・空間のディテールに再注目したり、異なる角度から切り込んだり、普段歩かない道に足を延ばすなどして再発見を行うといった表現と言えよう。

だが藤岡作品に登場する子供らはその定常性や反復を破る存在だ。我がままの、自由の王国を発生させて、定まった日常性、直線的な時間・空間の流れを強く歪める。「日常」が水道管の中を流れる水のように、没交渉的に一方向へ流れ去ってゆくものとするなら、藤岡作品の「子供」らは瞬間的に作者と謎の交感:コミュニケーション未満の意思交錯を来し、「ありのままの・何気ない日常」に演技的な変質を来す。そこには無名の王・女王が瞬間的に降臨するのだ。

藤岡作品、ことに「かわいいだけじゃダメかしら」における、愛らしいポップさとどこか不思議なスナップ写真はこのような王国を築いて日常性の直線を歪ませている。子供好きの人の視点でもない。トークでも子供については「ずっと気になっている」とは言うものの「子供が好き」とは言っていないことに注目すべきだろう。大人・親目線で上から愛でたり保護するのではない。王権の発生が重要なのだ。

 

このスナップの構造が生かされたのが、広島を撮った「川はゆく」、もとい本展示で紹介された「傷ついた風景の向こうに」だ。写真集「川はゆく」に新作を加えつつ、原爆ドームが写り込んだカットに絞って再セレクトされたものだ。

「川はゆく」「傷ついた風景の向こうに」では、かつて原爆投下の爆心地となった広島市街地における日常景がスナップされている。ただしそれは大文字の歴史を背負った特殊な場所:国家的歴史のアイデンティティーとして、非日常のセレモニーが毎夏繰り返されるような特別な地において流れる日常である。あくまで大文字の歴史自体を取沙汰するのではないが、その内側で1年間を通じて日常を撮るということは、原爆投下日や終戦日のセレモニーを頂点として国家の歴史的文脈が繰り返し日常景を波打たせるということだ。

本作における日常/非日常の揺れの起点であり吸収点であるのが原爆ドームである。この不思議さはいくら見ても考えても明快な答えはないし、私自身が広島から遠く離れて住んでいる部外者なのでいい加減なことを言えたものではないが、特別なことが何も起きていない平時において原爆ドームが写り込むことは、それだけで非日常めいた意味を放っている。逆にセレモニーで街に人が溢れ、報道陣が入ったり、制服姿の修学旅行生がいる場面では、原爆ドームはその非日常の騒ぎを定例的な平時のものとして、吸収して受け止めている。

日常景の一部でありながらその直線的な時間の流れをマクロ的に曲げて非日常の場をもたらしているが、短期間のミクロの非日常が生じた場においてはそれを大きな歴史性へ吸収して取り込む、この二律背反の機能・存在が、「傷ついた風景の向こうに」で撮られている事柄のように感じる。それは「かわいいだけじゃダメかしら」で子供らが日常の直線的な同質性に歪みを生じさせる王権を発動していたのと、近いメカニズムがある。

ただし原爆ドームは歴史的・政治的な意味の塊であるため、子供らとは意味の次元が違う。画面の背後、中心となる被写体の外側に原爆ドームを置くことで、まずは直接的な意味を手放させつつ、画面全体=広島での日常/非日常の意味を揺らす存在として機能させているようだ。

日常と非日常とが揺れるのは、追悼セレモニーや報道が歴史を途切れさせないための公的な「儀式」であり、原爆ドームはその演出の場の核である、と同時に日々の変わらぬ生活景の一部としてそこにあり続ける存在でもあるためだ。子供を中心とした瞬間的な演劇めいた場と部分的に、半分は似ていて、半分は全く異なる。

 

そうしたことが対比的に感じられ、これまで漠然と「良い」としていた「川はゆく」の中身について、少し理解が進んだので、良かった。

 

 

残りの2作品についても少し触れておこう。

「ニエプス巡礼」(1993)、作者が20歳の時に初めて行った海外旅行(卒業旅行)で、フランスに行ったものの何をすればいいか分からなかったので、とりあえず写真学生らしくニエプス博物館に向かったという道中のスナップ写真7枚から成る。パリから電車で4時間もかかる田舎町にあり、迷いながらもようやく辿り着いたらしい。写真では、館の庭に置かれた鳥の模型、アヒルにエサやりをしている場面、飼い猫を肩に乗せた男性など、おだやかな時間が流れている。そしてどれも上手い。

ホームアローン」(1996)は、家のソファとぬいぐるみだけが写された6枚の写真。飼い犬を一人きりに留守にした間にめちゃくちゃをしたのか、ソファの上も床の上も木片のような屑が多数撒き散らされ、ぬいぐるみは無残にソファの上に投げ出されている。小さな嵐の後だ。遊んでやったのだろうか。子供を撮るスナップと同様、小さな存在が秘めた予測不能な力に注目しているようだ。

 

本展示でもたいがい沢山のスナップ写真を観ることができたが、それでも作者が撮り溜めてきた量からするとごくごく一部に過ぎないであろうことが逆に想像できた。もっと見たい。国立国際美術館で催された鷹野隆大の企画展で日常スナップ写真を観た時と同じ感情が湧く。コンセプチュアルな写真、ドキュメンタリー写真などの構造上「完成」を持った写真と異なり、スナップ写真には完結が永遠に来ない。よいスナップ写真は見る側に欲望をもたらすようだ。もっと見たい。

 

( ´ - ` ) 完。