nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】監督:岩間玄「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」@シネ・リーブル梅田

よいドキュメンタリー映画だった。

森山大道という写真界の生きるレジェンド。その歴史をサッと掴みつつ、現役として活動する「いま」を記録した、貴重なドキュメンタリーである。入り間口が広く、森山大道のことを全く知らない層にも開かれていた。

 

80歳を超えてなお現役写真家として街頭でスナップを撮り、欧米を虜にし、写真集を世に送り出す森山大道の姿は、大きくて深い。その姿は「写真」の故郷のような存在だと感じた。

 

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2018年、80歳の写真家・森山大道を記録したドキュメンタリー映画である。本作は森山の歴史と現在を概括しつつ、同時に、デビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)の再構築・復刊を経て「パリ・フォト」へ出品するまでの約半年間を記録している。

 

daido-documentary2020.com

 

 

◆万人に開かれた「森山大道

本作に驚かされたのは何よりもサービス精神の旺盛さ、「森山大道」の敷居を限りなく下げて、入口を万人に開放していたことだった。

フォトグラファーや写真愛好家といった従来のコアな支持層を狙うのではなく、まず老若男女問わず、森山大道を知らない層にも一歩踏み込んで入ってきてもらうための配慮が随所にあった。それは開幕直後の菅田将暉による前口上に象徴される。

 


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菅田将暉は2017年に、寺山修司の同名の長編小説を原作とする映画あゝ、荒野で主役を演じ、そのイメージカットを森山が撮影したことが直接の縁となっている。原作の舞台は1960年代の新宿であり、同時代の新宿と言えば森山大道をおいて他にいない、ということもあるが、そもそも森山の出発点となる仕事が寺山修司からの撮影依頼であった。そこで撮り溜められた芝居小屋や大衆演劇の写真が山岸章二に認められ、「カメラ毎日」誌で『にっぽん劇場』として掲載された。土着的な見世物小屋めいた演者らの奇怪な姿を写した写真は、映画の中で繰り返し登場し、強いインパクトを与えている。

 

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菅田将暉のイントロダクションは若い世代へのサービス精神のみならず、森山大道の写真キャリアの原点に寺山修司=60~70年代アングラ、前衛、演劇との結び付きがあったことを示していた。この、寺山の詩と森山の写真とのコラボレーション作品がファースト写真集『にっぽん劇場写真帖』である。

 

 

◆構成=テレビ番組のエッセンス

展開は実にスピーディーで無駄がなかった。それ以上切れば伝わらなくなるギリギリの尺でシーンや撮り方を素早く切り替えてゆき、同時にBGMやサウンドもリズミカルに使い分けていて、かなり音楽にもこだわっていた。大量に引用される写真群と相まって、写真のスライドショーで見ているようなスピード感があった。

 

過去は過去として、即座に「いま」の場面へ切り替える。菅田将暉の前口上から、場面は2018年「パリフォト」のブースへ。人だかりができている、西欧人らが写真集を買い求めている、腕を伸ばしてスマホを向けている、その奥には森山がいるらしい――なかなか本人は出てこない。グローバルに熱狂的な支持を受けて活躍する、高齢の日本人写真家、一体何者だ?? と期待感を煽る。

更に、印象的なセリフなどの説明的な字幕も惜しげなく投入する。特に本作は写真集を復刻してパリフォトへ持っていく約半年の格闘が構成の大きな柱となっていて、「パリフォトまであと〇〇日」とカウントダウンが刻まれてゆく。写真集は間に合うのか?これもまた分かりやすい。

 

この意外さには、「よく出来たTV番組のようだ」と思った。視聴者の意識を引き付け続ける構成と技術を盛り込んでいるところは、まさにテレビの長所そのものが活かされていた。写真界の巨匠のドキュメンタリー、しかも森山大道となれば、本人と関係者らのインタビューやモノローグを中心に組み、長めの尺でまったりと、日々の素朴な言葉と行動を追うものと想像していたが、全く違った。

 

それもそのはず、監督・撮影・編集を務める岩間玄は、映画ではなくテレビ界の人間(日本テレビ社員)で、これまでにもドキュメンタリーだけでなく多彩なTV番組を作ってきた経験とスキルを有する実力者だったのだ。後にプロフィールを見て大いに納得した。

重要なのは、岩間玄は1996年に美術番組「美の世界」で『写真家・森山大道1996 路上の犬は何を見たか?』を制作している点だ。作中でも少し引用されていたが、恐らくこの時に映したもの・映せなかったものを踏まえつつ、御年80歳を迎えたレジェンド=これが事実上最後の記録映像となる、というところで本作のコンセプトが練られていると見えた。

 

何とかしてこの「美の世界」のフルバージョンを見てみたいが… その機会はあるだろうか。。。

 

 

◆ダブル主役:写真家と写真集

本作の最大の特徴が、写真家と写真集の2者というダブル主演となっていることだ。つまり、森山大道という人物像・写真家像と対等な存在として、写真集という存在が主役の扱いをされていた。

「写真家のドキュメンタリー」映像は国内外ともに色々あるが、何本か見た限りではいずれも写真家が単一の主役で、たとえヴィヴィアン・マイヤーのような物故作家であっても、関係者らの言葉と遺された作品、手記、資料などによって当人の人物像をシングルラインで語ってゆくものだ。

 

本作では開始早々から「写真集」の誕生を追っている。

北海道の森が映り、樹を切り倒すシーンが流れる。写真集を作るための紙を作る、そのための樹を切り出そうとしている。この入り方は斬新で衝撃だった。「まさか、この映画は森山大道と写真集とを等価なものとして、同時進行で追っていくのか?」。その通りだった。その後も木材は製紙工場に運び込まれて溶かされ、パルプは「紙」になり、紙は印刷物になり、試し刷りは造本家と編集者と印刷家の目と手によって「写真集」となってゆく。その工程が、森山大道についてのシーンとスパイラルで編まれてゆく。

  

「写真」はそれ自体では発生・存在・存続し得ない。写真はイメージでありメディアであり記録であり記憶であり行為でありetc.…である、が、いずれの定義を選ぶにせよ、「写真」には物理としてのボディが不可欠となる。
「写真家」が写真を撮る身体・選ぶ身体――発生のボディだとすれば、「写真集」は写真を運び・語り・保つ身体――存在・存続のボディである。その2つのボディを得て初めて「写真」は時間と空間を超えて動けるようになり、この社会に存在の場を持つようになる。それはいかに「レジェンド」であっても例外ではなく、写真家単独では、写真は過去へと押し流されて見えなくなるだろう。本作の構成は、この写真の2つのボディについて強く気付かせるものだった。

 

 

◆「過去」が「いつも新しい」ことの意味

ここで作られている写真集は、一般的な写真集とは意味が少し(かなり)違う。1968年に第1作目として作られた『にっぽん劇場写真帖』の再構成版であり、決定版である。夥しい量の写真集を現在進行形で世に送り出している森山にとっても、またその他多くの写真関係者やファンにとっても特別なものだ。

造本家・町口覚と編集者・神林豊は、パリフォトに写真集を持っていくことを目標に、復刻―再構築を開始する。その約180日のカウントダウン、格闘の日々が本作の大半を占める。原本の写真一枚一枚の撮影場所と年代、エピソード等を点検し、森山本人の証言――50年以上昔の記憶を引き出しながら、書き出してゆく。そして同時期に掲載された雑誌などを総動員して点検する。みるみるうちに膨大な量の資料が積み上げられる。

 

本作の後半では、前半のサービス精神溢れる展開から、写真集の大詰め・追い込みの緊張感、真剣勝負の記録へと移行する。いよいよ写真集のテスト版が出来たところで、「どうも違う、」と町口と神林が困惑する。幻の、過去の原作を「復刻」しようとした印刷会社に対し、今の時代における新たな解釈によって「再構築」しようとする町口・神林の考えが噛み合っていないらしい。

作中では最小限のカットでスピーディーに流れていくが、実際の現場ではそのギャップを埋めるのは簡単ではなかったのではないだろうか。この、「過去」が「新しく」生まれ変わるための工程は見ものだった。

印刷工場でインクの黒の出方を厳しく確認する2人。時間がなく張り詰めた空気の中で指示を出す町口。このあたりのスリリングさはたまらなかった。このあたりは職人の領域なので分かりやすい可視化は困難だろうが、写真集制作の部分だけをどっぷり特集したドキュメンタリー映像があってもいいとさえ思った。

 

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印刷を手掛けた「東京印書館」社の記事。印刷方法について簡潔にまとめられている。

 

こうした、周囲の人間による「新しさ」への意識は分かりやすい。一方で面白いのは、森山大道のスタンスである。

「煮るなり焼くなり、好きにしてください」「いいんじゃない」、これがほぼ全てではないだろうか。写真集制作に対しても、この映画の制作に対しても向けられた返答だが、自身の撮影行為に対しても向けられている。恐ろしく広く肯定的な態度であって、作中でも森山は「こだわり」を見せない。つまり唯一の正解を求めようとしていない。来るべきものを受け容れていく。

無論、岩間監督をはじめとして周囲で動いている人々が、確かな力量と信念を持っているから任せておけるのに他ならないのだが、例え学生らが自主制作で記録映画を撮りたいと申し出ていたとしても、あれこれ注文をつけず全面的に任せていたのではないかとも思う。

 

森山は何度も同じ場所、同じものを撮っている。

新宿の路上、猥雑な歓楽街を特に好む。その中でずっと撮り続けてきた。撮ることを生理、欲望と言い表す。新宿に戻ってくるのは生理的・体質的なものが大きいのではないかと語る。自然と選ぶ被写体、場所も似通い、繰り返されているが、森山はそれを肯定する。

過去作品の調査を進める中で、同じように見えるカットでも、実は微妙に背景や角度が違うものが現れる。調べてみると別の日に撮られたものだと判明することがしばしばあった。「同じものばかり撮ってるよね」と森山も笑う。ここに森山の「新しさ」への態度が見える。

 

街自体が常に変化し続けていることに加え、スナップであるから絶えず異なる動きが写り込むため、同じショットは原理的に再現されない――常に新しい、ということもある。しかし本質はむしろ森山の内面にある。行為自体はトレースであっても、それを実行する際に起こっている情動は「いま」のものであり、被写体が同じでもそれはかつてと同じものではないという。

トレースと呼ぶと反復自体が目的のようなニュアンスを持ってしまうが、撮影行為を「生理」と捉え、私達の体における生理的な活動を想像すると分かりやすい。食べる、動く、排泄する、眠るといった日々の行為は、何十年と変わることのない反復そのものだ。しかしそこに反復の意図や郷愁、記憶性はない。生理的欲求と行為によってひたすら新しい「いま」が更新され続けているに過ぎない。だが写真となると像が生み出され、必然的に「記録」として時系列の差異が現出してくる。

「過去」と「いま」、森山における写真行為――徘徊、撮影、写真集制作、展示などは全て、この両義性を常に孕んでいたのではなかっただろうか。そして「過去」の質量の一方的増大に対し、「いま」を肯定しながら引き受けていくことで「新しさ」を生み出していく。眼前に来る変化、あるいは不変化をひたすら受け入れ、繰り返す姿勢は、前へと攻める前衛芸術ではなく「受け」の前衛芸術であるように思われる。そこでは生み出された作品自体はその瞬間から過ぎ去る「過去」であり充たされた「生理」だから、表現の核心はトレースを繰り返す森山大道自身にあることになる。「オリジナル」性は作品自体にではなく、森山大道という心身の「いま」にこそあるという倒置。それがタイトルの前段「過去はいつも新しく」の意味ではないかと思った。

 

 

◆本作で語られたこと、語られなかったこと

本作のチラシ裏面には「写真家の現在(森山大道のいま)」と大きな字で見出しが付いている。

本作が徹頭徹尾貫いたのは、「いま」へフォーカスして語ることだ。2018年の『にっぽん劇場写真帖』刊行とパリフォト参加に照準を絞り込み、過去の振り返りは最小限に留めている。

 

森山のスナップ撮影の姿は、最終盤でようやく本格的に映し出される。

颯爽と、静かに、さりげなく、なおかつ堂々と、街中で・人波で繰り出す姿。コンデジを片手でホールドし、シャッターボタンに指先をかけたまま、歩き回る姿。そのスナップ姿こそ写真愛好家や大道ファンは待ち望んでいただろう。だが都市の片隅で犬のようにスナップで徘徊する、分かりやすく典型的な「森山大道」イメージ映像に終始してしまうことを本作は避けている。なおかつ、重厚かつ重要すぎる過去を語ることにも引き摺られないよう注意を払った構成となっていて、全方位にバランスが効いている。

 ――パリフォトでの夢のように熱を帯びた一時をもクライマックスとせずに、その前後の日常において繰り返される街頭スナップのあてどなき反復性を「森山大道」の「いま」として提示していた。

 

「語られなかった森山大道の部分はまさに過去のことで、ごく軽く、抽象的な言葉で流されている。生粋の写真ファンや写真家にとっては物足りない部分も多かったかもしれない。その点は、個人的には約20年前のドキュメンタリー映画『≒(ニアイコール)森山大道(ビー・ビー・ビー(株)、2002)と補完関係にあるように思われた。

『 ≒ 』は、写真家・森山大道について、本人の言葉と著名な写真界の関係者からの証言とで、実に生々しく迫ってゆく、まさに誰もが想像する形のドキュメンタリーだった。美化がなく、淡々と事実を述べてゆく。「PROVOKE」『写真よさようなら』時代に何を行ったのか、結果どうなってしまったのか。何もできなくなってしまった森山は、『光と影』の連載を契機に、再び写真を手にし、回復を見せ始め、そしてラストでは、試しに手に取ったデジカメを非常に面白がり、家の中や自分の眼を撮って喜んでいた。なかなかに衝撃的だったのでDVDを入手したが、荒木経惟や西井一夫、笠原美智子らが次々に登場するので資料的価値が高く、実に面白い。

 

だが確かに、自分自身の「森山大道」イメージは2000年前後あたりで止まっていた。すなわち60年代以降の活躍と功績と停滞という写真史的な物語のうちにあり、「いま」森山がどうしているか、どう息をしているのかは知らなかった。多くの人も似たような状況ではないだろうか。このイメージを「いま」へ更新することが本作で図られていたと言えるだろう。

 

 

◆「未来」が「いつも懐かしい」理由

本作は森山大道」へのイントロダクションでもある。

この映画は重要なことに沢山触れているが、いずれも深入りしないため、それぞれのトピックの意味を理解するには作品集や関連書籍に触れる必要がある。

 

写真史上のことはさておき、やはり写真集『にっぽん劇場写真帖』は対にして読みたいところだ。どうやって作ったかが分かると写真集の見え方も変わる。巻末の、神林豊と町口覚が苦労して作成した各カットのプロファイル、そして撮影時のエピソード等は、この映画を見るまで、誰かスタッフが別の資料を見ながら機械的にまとめて書いたのだと思っていた。意外なところでドラマがあるものだ。

映画のパンフレットも非常によくできている(ほとんど写真で、パンフというよりフォトブックだ)が、印刷が全く違うため同じ写真も別物となっている。ここまで描画が違うのは他の作家なら許されないだろう。ここに前述のような森山の本質がある。すなわち、他の一般的な作家は「オリジナル」が作品側に存在するのに対し、森山大道の場合は本人の生理的行為の現在性が「オリジナル」であって、作品の方はオリジナルの後に来るものであるため、可変的であり即興性に富むことが「いいんじゃない」と歓迎されるのである。

 

また、半自伝的エッセイ『犬の記憶』『犬の記憶 終章』(いずれも河出書房新社、2001)はぜひ読み返したい。これは映画と写真集で語られたことを、森山自身の言葉で、更に克明かつ丁寧に明かしている。

この2冊を読むと、作中で頻繁に名前の登場する中平卓馬や、「PROVOKE」「写真よさようなら」のことも、それ以降に森山の身に起きたことも、寺山修司ジャック・ケルアック『路上』についても、そしてセフォール・ニエプス『ル・グラの窓からの眺め』についても理解が及ぶだろう。

 

森山の寝室には、一枚の大伸ばしの写真が掲げられている。薄暗い白黒の抽象的な、何だかよくわからない、斜め下を向いた三角形の何か。これが、1826~27年、ニセフォール・ニエプスが制作した世界最初の写真画像『ル・グラの窓からの眺め』である。アスファルトが感光材となることを突き止めたニエプスが、自宅の2階の窓からレンズをはめた暗箱を向け、光を取り込み、8時間近くかけて露光・定着して得られた像だ。

 

映画の中で森山はニエプスへの敬意を語っている。

『犬の記憶』でもわりと唐突に独白が始まる。引用すると、目の記憶を辿った一番奥には『ル・グラの窓からの眺め』の像が現れるという。その化石のような風景は、ニエプスの記憶でも、森山の記憶でもなく、いわば世界についての記憶であり、写真についての記憶――世界最初の「光の記憶」なのではないかと綴っている。

ニエプスの写真術は「ヘリオグラフィ」、太陽の絵と呼ばれている。当時の写真はあらゆる面において未発達ゆえに日光写真そのもので、写真家の介入の余地がなく、外界の光で薬剤を感光させて像を写すだけのシンプルなものだった。

 

”僕にとっては、それを光の神話といいかえてもいい”、改めて読み返してみて、森山大道という写真家が何に向かって無限にシャッターを切っていたのか/切り続けているのか、次第にじわじわと理解が追いつき始める。

キッチュで猥雑で雑多で移ろい続ける都市の表層を追い求め続けるスナップ、その原動力たる欲望とは、それらを記録したり剥離させたり所有したり散乱させたいという都市的・メディア的な欲望なのだと思っていた。それもあるだろう。だがしかしその生理の奥、眼の奥には常に、ニエプスという「光の神話」へ向けられた眼差しがあったのか。それがどういうことなのかを初めて具体的に想像した。 

 

森山がニエプスへオマージュを捧げた作品として、『サン・ルゥへの手紙』(河出書房、1990)『実験室からの眺め』(岩波書店、2013) がある。どちらも残念ながら持ち合わせていないが、作家・書評家の大竹昭子が「紀伊國屋書店」サイトに両書の評を寄稿しており、大変参考になる。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

かつて森山は、写真表現を先鋭化した果てに、「写真」を解体し尽くし、身動きが取れなくなり、評価もされなかった、そして写真を撮れなくなり、長い年数の沈黙に陥った。しかし撮れない日々ゆえに、それまで以上に「写真」のことをどこまでも考え続けたという。写真とは何かを考え抜いた末に、ニエプスという原点、光の神話をその身で掴むに至ったのだろう。

伝統や写真史から完全に身を離したところでシャッターを切っているものとばかり思っていたが、大いにイメージを修正する必要があることが分かった。森山大道という「いま」がシャッターを切るとき、それは光の神話、写真の原点に向けて、遠い眼差しを送っている。本作のタイトル後段『未来はつねに懐かしい』とは、そのような意味であると理解した。

 

 

◆写真的故郷としての存在感

すごい映画だった。分かったような気でいたが、森山大道のことを1ミリも知らなかったのだということが分かった。ありがたい話だ。

だが結局、分かっているようで何も分かっていなかったという反省は、つまるところ平時は「なんとなく分かっている」ことであり、もっと言えば「自分が写真について、やることなすこと考えることは、どこか(常に)森山大道と繋がってしまう」という実感に他ならない。今現在、写真・特にスナップをやっている多くの人が、同じような感触があるのではないか。全てのスナップは森山大道により果たされた後であり、スナップを語れば森山大道に行き着き、なおかつ今現在もスナップを更新し続けている。「詰み」にも等しいような感覚がある。だがそれは強大な、打倒すべき父権とは異なる。つかず離れずの距離感にある。

 

映画の終盤、パリフォトの熱狂をよそに、森山は涼しい顔で煙草を吸いながら、求めに応じて写真集にサインをしてやっていた。その姿がなぜか、こんなことを言うのは不謹慎だが、遺影の予感、先取りされた最期のように見えたのだ。

森山大道は当たり前のようにそこに居たけれど、もうしばらくしたら、居なくなってしまうんだ”と実感した。それは親愛なる祖父がいなくなる時に抱いた、懐郷の念に似ていた。異様に切なかった。その時、森山大道という存在は、「写真」における祖父母宅のような、付かず離れずの故郷なのだと思った。

 

尤も、作中での別れの念は、その直後に高密度で繰り出される街頭スナップの映像により更新され、「いま」の旺盛な生命力へと取って変わられた。現役の作家にノスタルジーはそぐわない。頼もしかった。

 

 

◆上映について(7/3~「シネ・ヌーヴォX」追加)

大阪梅田・スカイビルの「シネ・リーブル梅田」での上映期間は、本来4/30公開だったところ、緊急事態宣言に重なって長らくお蔵入りとなっていた。

もうこれはダメかもしれない、と半ば諦めていたが、宣言の再延長時に映画館の休業要件が緩和されたことで、何とか6/4から2週間ほど、平日のみでの上映(土日祝日は休業要請というなかなか無茶な制限が掛けられていた)が実現された。わあい。

 

慌ただしく始まり、そしてあっという間に終わってしまった。

人のいない平日夜の館内は貸し切りのようだった。この映画のサービス精神を思うと、かなり悲しい。

 

・・・と思ったら、なんと大阪・九条の「シネ・ヌーヴォX」で7/3(土)から上映されることが決定した。

シネ・ヌーヴォ」は規模が小さいため休業要請の基準には当たらず、土日祝日も営業が可能なうえ、6/20(日)をもって緊急事態宣言は解除して「まん延防止等重点措置」へ移行することが決定している。今度はより多くの人が観られるだろう。

 

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「シネ・リーブル梅田」の掲示物。スナップ的でいいですね。

 

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物販コーナー。やばいぞ。シャツがやばい。

黒地と白地で3つぐらいデザインがある。くああ。悩む。猫と車とでだいぶ悩んだが、私の名義は仮にも猫(hypernekoと申しますから)なので、黒地の猫にしました。

写真集はシリーズで買ってあるので大丈夫です。全然ちゃんと読んでなかったが、この映画をきっかけに改めて読み返した(謎の汗がでる)。わああ。

 

 

本当によくできた映画だし、パンフレットやTシャツなどグッズも豊富だった、つまり気合がすごいので、これはいずれDVDで販売もされる気がする。ぜひお願いします。

とは言いつつ、やはりもう一度映画館で観ようかなとも思っている。帰路、脳髄を熱に浮かされながら、電柱や植木鉢やマンホールに半分以上無意識でコンデジを向ける一時にこそ、この映画は生きてくるような気がしている。それは至福の喜びです。

 

 

( ´ ¬ ` ) 完。