写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真集】春木麻衣子「_etc.」、草野庸子「Across the Sea」

【写真集】春木麻衣子「_etc.」、草野庸子「Across the sea」

クリスマスはいかがお過ごしでしたか。私は熟考とクリックを重ねていました。中毒や。Webの写真集販売でおなじみの「写々者」(shashasha)さんがクリスマスで10%オフだったのです。あかん。これはあかん。

悪魔のささやき。これはあかん。

 

<★link>写々者さん

https://www.shashasha.co/jp

 

 

/(^o^)\ あかん。

 

元々わりとお手軽価格な写真集が多いのですが、そこから10%オフとか、関西人にはハートに響くところがあってですね。関西人ですから。ですよね。それでまあその、色々買ったわけです。ええ。せっかくなので積ん読にならぬよう短観をメモします。なお写真は粗く写メで撮ったのでご容赦めす。

 

◆春木麻衣子「_etc.」(赤々舎、2017)

視覚にくるヴィジュアル。視覚のシステム、視覚の情報処理の仕組みを攻めてくるところが気になって購入。見えるべきところが黒によって見えない。見ているのは写真か、黒か。黒は像を遮り、分節し、あるいは複数のイメージを接合する。

 

写真集は3つのパートから成り、最初は室内で床に置かれた小さな4足獣、小鹿の置物?剥製?が登場する。これ何者かはっきりとしない。アイレベルは上からほぼ垂直見下ろし、肝心な部分は「黒」で覆われている。写真の一部が黒で覆われているのではなく、複数枚の写真の配置を黒で繋いでいる、その黒の占める割合がとても高い。黒を見ることは写真同士の動きの繋がりを見ることに繋がる。映画のコマのつなぎ目を見ている感覚だ。

小鹿は画面外へ、光に変わって消えてゆく。動きがフレーミングを超えて、写真というメディアの枠の外へと飛び出して(漏れ出して)ゆく。

ここまででは意味は分からなかったが、後の2つのパートを読んだ後で振り返ると、シュレーディンガーの猫のようなイメージになっていることに気付く。あるページを見た時には、小鹿はそこにいる、いるように思われる。だが別のページでは小鹿はいたりいなかったりする。抜け出ようとしている。そしてまた別のページでは、小鹿はいない。そして次のページでは、小鹿はまたそこにいる。時間というものと観測(=存在)にまつわる話題がなされているのだと感じた。

 

第2パートはモノクロ写真と宇宙の組み合わせ。ヨーロッパらしき街中、建物、彫像の写真と、宇宙空間に浮かぶ惑星とガスの像が「黒」によって並置される。

過去からの時間が今を貫いて存在するがゆえに、時間の静止を強く感じさせる世界観は、奈良原一高『静止した時間』で表された西欧の光景を連想させられる。

だが奈良原と大きく異なるのは、本作がフレーミングの必然性を侵食し、写真という制度に対して応用的な態度をとっていることだ。奈良原は1枚の写真の中で多重のイメージ操作を行い、個々に独立した写真として提示した。本作では、風景も宇宙空間も黒で分断され、同時に接続され、ページをめくるごとに映像のシークエンスとなって動いてゆく。ここでは「1枚」の写真、という数え方が出来ない。

また、奈良原の世界と違って、宗教観も薄い。時間についての話をしていると思うが、神の話題というより、今ここに流れる時間と、「今ここ」を包む宇宙の時間とは実際は同値でありながら別次元のものであることに注目し、2つの時の流れを1枚のページ、複数の写真群で表している。プールにサッカーボールと月を同時に浮かべるような。

 

最終パートでは表紙にあるような、歩行者が黒く太いラインで断ち切られた写真が続く。背景は白く飛び、極めてよく晴れた日中にプラスに振ったように、壁や路面には情報がほとんどない。通行人の顔や胴体は黒でカットされ、歩く足の動きだけが捉えられている。

個人情報や私性を過度に隠した写真群なのかと思った。だが見ていると全く別のものだった。黒のラインの両側で足回りの装いが異なる。1枚のカットで、左右は別人であることに気付いた。歩くという動きとしては連続しているが、登場人物は別人だ。ここでも「黒」は、1枚の写真、イメージを分断すると同時に、異なる時間同士を繋ぎ合わせている。デュアン・マイケルズが連続した写真を複数枚で見せて示した「時間」の話題の先にあるものを、本作では1枚のイメージ内で言及しているように感じた。「〇時〇分〇秒」という「時間」は、総論としては皆に広く共有された世界であり、同時に、個々人にとって別個に分化した世界である。そのようなことを可視化した、科学的な作品ではないだろうか。

 

「時間」という概念を、写真群とその間の黒によって表した、非常に面白い写真集でした。しかもこの「黒」は、基本的には編集上の産物であって、1枚1枚の写真を撮り、プリントする段階では表れてこないレイヤーです。 編集によって写真を見せることの可能性が追求されていて、いいなあと思いました。小学生みたいな感想ですいません。

 

 

◆草野庸子「Across the Sea」(roshin books、2018)

『IMA』とかでお名前は知っていたので購入。光が押し出されたビジュアルから、何となくコンセプチュアル色が強いのかなと思っていたが全然逆でした。snap。スナップです。日常? でもロンドン渡英時に、異国に触れて撮ったスナップだから、それは日常と呼ぶのかどうか。スナップ ≒ 日常、みたいな語り方ってあんまりよくないですよね。やっちゃうんですけどね。

 

80枚を超えるスナップ写真群は光の満ち欠けに溢れている。現地へと到着し、暮らしが徐々に馴染んでいき、 作者の眼が異国の内部へと潜行していく過程が面白い。到着から定着までの間に目にし、切られたシャッターについて、同じような流れを市橋織江『TOWN』でも体験した。空、交通機関や夜の町の灯、翌朝の空気などだ。だが作家の体が馴染んでからの目の付け所は、作家ごとに異なる世界を描く。

本作をスナップと呼びながら、時を切り取る感じがしない。時が滲む。いつから眼前にあったのか分からない光景が続く。作者の眼は、外界の光が染み入って時を滲ませる媒体として機能している。そして異国の土地を地上20~30㎝ぐらいの高さで泳ぐ淡水魚のように写し取る。それを最も感じたのは若い群衆のカットだ。公園での寛ぎと戯れ、集会かライブなのか分からないが、同世代ぐらいの若者らが集まる場の中に混ざって、作者は異国を語る主体、日本人とか写真家としてのアイデンティティーからも逃れて、異国を泳ぐ淡水魚のような眼となる。

 

 

( ´ - ` ) などなど。