nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.2/1~2/12_ オカダキサラ「トーキョーテンペンチーズ」@キヤノンギャラリー大阪

同行した写真仲間が「うめめとはまた異なる観点でのコミカルなスナップ」と評していて、いやもうほんとそうですと頷いた。軽妙と距離感と記録性、それがオカダキサラの強みであり、なかでも写真が都市風景であること、その記録性の高さ梅佳代との最大の違いであった。だがそれだけだろうか? 総じてコンプライアンスに配慮した写真でもあるように感じる。

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【会期】R4.2/1~2/12

 

 

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「テンペンチーズ」とは「tendencies」や「temperature」あたりから来ているのだろうか、舞台は新型コロナ禍の始まった時期だし、都市の温度や人間の体温もあるし・・・と想像したが、後でよく考えたら「天変地異s(複数形)」だ。やられた。語尾の「チーズ」は記念写真の掛け声を思わせる。

複数形なのは、緊急事態宣言やまん延防止が回を重ねている通り、この状況が今に至るまで何度も繰り返されていることとリンクするだろうし、直接の言及はないが、作者の写真が本格的に始まった第4回「1_WALL」ファイナリスト入選の2011年、東日本大震災をともに数え上げているのかもしれない。それでも続いていく東京の日常風景だ。

 

風景、と強調しているのは、いわゆる人物をモチーフにした行為性の強いスナップ写真と違い、被写体・光景に対して一定の距離があり、真っすぐ正中線で向き合って撮っているカットが多いためだ。

誰に対して? 人物のほとんどはカメラを向けられていることに気付いておらず、見事に不意を突かれている。正面性は、都市の風景に対して――東京駅や東京タワーに象徴される、この上なくど真ん中の「東京」に対して発揮されている。剣道のような、正々堂々とした向き合い方だ。思わぬコミカルな瞬間を捉えながらも、撮影行為に取りかかることを正々堂々と明かしているところが「チーズ」にふさわしい。

 

それが記念写真や観光写真でもなく、フォトジェニックさに留まらない意味を帯びてくるのは、言うまでもなく風景すら一変させた新型コロナ禍の記録であるからだ。本作はやはり、社会的な状況に対する風景写真である。

 

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撮影の舞台は2020年の新型コロナ禍突入前後の東京だから、マスクをしていない人、観光などで浮かれている人も写っている。それが、密が疎らになり、無防備がマスクになり、間が大きく空いている。人のモーションの妙味に力点がありつつも、画が平面的だ。

この距離感は「人」も含めた全体を「風景」として捉えていると考えられる。そう写らざるを得なかったのかも知れない。

会場に置かれた写真集では、それ以前の東京のスナップを豊富に見ることが出来たが、そこではランドスケープではなく、人々が織り成す偶然の瞬間=スナップの瞬間芸があった。主役は東京を舞台とした、無名の人々のモーションである。しかも1画面内に偶然Aと偶然Bとが併存している、複数形の珍妙・即興スナップだった。

本作でもコミカルな珍妙さのテンションが活かされているが、やはり世界規模で迫りくる異常事態の方に作者のセンサーが向いている気がする。いや、異常事態から逃れることが出来なかったと言うべきだろうか。写真には一部分しか写っていないが、東京ならいつもは観光客や通勤者など膨大な人間が溢れていたところ、一気に無人状態になって、どこを見ても空白のような光景になってしまったのだろう。

 

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2020年春先・コロナ禍初期の外出自粛は徹底していた記憶がある。今よりも「緊急事態宣言」は重かったし、コロナウイルス自体が色んな意味で真の脅威だった。当時と思わしき光景において、浮き上がるのは2つ。一つは自粛下生活で身体を動かしたり子供を遊ばせる生活者の姿。もう一つは警察官や警備員、清掃員などのエッセンシャルワーカーの姿だ。

特に前者、小さい子供のいる家庭は当時、学校や保育所には行かせられず、外で遊ばせることも憚られ、相当苦労したと聞いている。(私自身はこのとおりソーシャルデラシネクソ野郎で自由きままに生きていたのだが、職場には子育て世代が多いため、手を焼いたという話をよく聞いた。) 公園の遊具で子供が遊ぶ姿はまさにその状況に当てはまる。また、外出機会を失った中高年が体調管理のために、地元を歩いたり走る光景もよく見られた。外で陽を浴びたり運動をする人の姿は、実感の伴う記録風景である。

 

そんな状況下でも総じて写真が「軽い」のは、社会的意義からではなく、あくまで作者の日常生活の一環として「写真」があるためだと解する

本展示についての作者トークPHaT PHOTO)がYouTubeに上がっていて、そこでも生活の一部として写真があることが語られている。

 


www.youtube.com

 

 

また、日常の偶然の光景を週1ペースで連載しているサイトがあった。投稿日と撮影日は無関係のようだ。改めて、些細なものに対する観察眼があり、そこに個人の感傷や死生観を投影していないのが特徴的だと思った。人物のモーションを通じて、「都市」の表情・風景を見ているのだった。

kenelephant.co.jp

 

はやく東京が、他人に無関心で、浮かれていて、アホほど人が多くて、うんざりするぐらい過密な都市に、戻りますように。

 

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旧作の写真集『TOKYO はなぞのぶらりずむ』いいですよ。めっちゃうまい。瞬間を捉える力、有象無象の人々の動きを複数形で画面内に構成して切り取る力がすごい。

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撮り方に新規性や前衛、実験はない。技法や文法や思考など、あらゆる面で手堅く撮られた、ごくありふれた写真である。ただ(それゆえに)、被写体への観察眼と距離感に優れ、総じて撮られる側・撮る場所に対して、コンプライアンスの守り方が現代的なのだ。コンポラ写真ならぬ、コンプラ写真なのかか。

 

何かと迷惑行為や不審として排除されがちな写真(行為)(※フォトジェニックに特化した宣伝・広告的な写真は除く)が、なんとか今の社会や都市で、うまく共存共栄していけたらと切に願っている私ですが、本作の距離感とコミカルさ、そして正面性は、その解法の一つを示唆している気がします。剣道の心ですかね。礼。

 

 

( ´ - ` ) 完。