nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART&写真】2023.12/21~2024.3/10「2023年度 第4回コレクション展」(追悼:野村仁 1945-2023)@京都国立近代美術館

2023年10月3日、78歳で逝去した野村仁をしのぶ展示コーナーが「コレクション展」に設けられた。実験み溢れる初期作品が並び、京セラ美術館のコレクション展特集「Tardiologyへの道程」(2023.10/27-12/17)からバトンを受け継ぐ形となった。

 

 

京都市京セラ美術館での特集「Tardiologyへの道程」レポはこちら。

www.hyperneko.com

 

また、レポート化できていないが同じ京都国立近代美術館で4~7月に催された開館60周年記念展「Re: スタートライン 1963-1970/2023 現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係」においても最後のコーナー:1970年で野村仁が登場していた。その作品こそまさに今回の目玉である<Telephone Eyeshot/「HEARING」についての特別資料室>だったわけで、2023年の京都は野村仁特集年だったといえる。

 

 

◆野村仁_「HEARING」についての特別資料室

タイトルと冒頭の会場写真の通り、美術品の展示というより「資料室」にふさわしく、ケースにはレコードや本、カセットテープなど記録資料が並び、壁には記録的な写真が整然と並べられている。

今回の回顧展示のために「資料室」を名乗っていると思いきや、1976年発表当時の展示タイトルが「「HEARING」についての特別資料室」そのものだった(鑑賞後に知った)。ただ当時は観客がレコードや本などを手に取って再生・鑑賞することができたらしく、現在のように本当に歴史的資料としてケースの向こうに保管されているのとは意味が異なる。

 

さすがに音が出なければ《HEARING》、《Telephon Eyeshot》は何も分からないことになるので、ここはiPadから操作して任意の音声を再生できるようになっていた。

 

えー何々。えー、何々。

 

作者が公衆電話から、今まさに目に見えているものをひたすら読み上げていくという通話音声の記録である。写真はその時に見えていた視界に基づくカットだろう。

「公衆電話を使って、その位置から磁石の指し示す北の方角に見える全てをそのまま、075-761-4113へ報告する。その報告は075-761-4113の受話器を通して、録音される。」

不明瞭にくぐもった音声で、要領を得ない眼前の実況通話が、エーッ何々があります、えー、何々、とただひたすら具体的に、しかし茫洋としたまま続いていく。初見(初聴)ではまるで「街」や「空間」が電波・通信へと解体されていくような感触に襲われた。

 

公衆電話の実況音声は前回の展示「Re:スタートライン」でも流れていたが、その時は全体像が分からず実に不可思議な通話音声、記録と呼ぶにも断片的すぎる街の写真、謎が満ちていた。対して今回はコンパクトにその形態が音源とコンタクトシートで明示されているため、まさに資料となり、謎はなくなってしまった。

 

電話番号は当時の京都国立近代美術館であろう。妙心寺付近に下宿していた野村が、美術館までの間にある8つの電話ボックスから電話をかけてくる。美術館スタッフが電話を受け、事前に持ち込まれたテープレコーダーを受話器に当てて野村の声を録音する。また移動すると電話が掛かってくる。といった作業から生まれた作品だという。

このあたりの制作の話は「見る 野村仁:偶然と必然のフェノメナ」(2006、赤々舎)岩城見一「《Tardiology》と《HEARING》―初期作品についての試論―」に詳しい。

www.akaaka.com

 

公衆電話の作品以外にも様々な音声を記録したレコードがあり、「洗濯機の排水ホースとテレビアンテナを買いに行く。店員との会話と状況音。」だの「1㎥のダンボール箱8個を覆うビニールと、それを止めるテープを買う時の会話と状況音。」だの、《HEARING》制作に関する周辺の行為、状況まで作品となっている。

逆を言えば、どこまでが作品なのか/作品でないのかが判然としない。触れるもの全てが作品・アートだということだろうか?

だが少し見ただけでも、万物がアートだ、などと陳腐なことを野村は言っていない。漠然としているようで厳密な思索と試行を行っているのが野村仁である。一旦は録音なり撮影なりで記録されたもの(とそれに鑑賞者が関わり触れること)はいかに些末で何気ないものでも「作品」とされているが、そもそも記録されていないもの・再生されていないものは作品とは呼ばない。観測し記録し、メディアを再生することで浮かび上がる姿を確認して初めてそれは「作品」となる、と仕分けることはできそうだ。

 

思うに、観測・知覚とメディアへの記録性との関係、記録・再生によってまた異なる質のものとなって体験される現象――メディア体験による世界の形や動きの再発見が、野村仁作品に共通している。

それは科学の詩のようなもので、雑多な状況をありのままに受け容れているようでいて、それらは観測結果として蓄積されラベルが付された形になることで、主観的に目で見ている時には見えなかった形態や動きを現わす。

連続写真はE・マイブリッジのように速度や「動き」を分解したり解析しない。が、主観的に体感されている常の世界を記録メディアに落とし込んでから見た時の、零度の視座をもたらす。

水の中で息を吹き、気泡が口から洩れて膨らみ水面へ上がっていくところを連続撮影して、呼吸の動きや水中での気体の動きを解明しようというのではない。狙いは分析ではなく知覚の切り替えにある。連続写真によって切り出された側面の数だけ零度の側面から見える世界の質が強まり、その観測世界の質感がそれ自体として広がっていく。微分結果が連なるところにもう一つの世界が開かれる。メディアの観測結果が生じさせる、個人の感覚や鑑賞でもない、文学でも映画でもない、微分後だけの世界。

 

 

 

◇天体/「ハレー彗星の回帰」シリーズ

天体の動きは目では追えない。日ごとに位置が変わってゆき365日かけて一巡する太陽と地球の位置関係は写真など映像メディアに観測・記録され、一望されてみなければ見えてこない。微分スライスによって析出された動きのない点が、記録というメディアの形で多数集められ再集合するとき真の動態を明らかにする。

野村仁には天体、空にまつわる写真作品が数多くあるが、「ハレー彗星の回帰」シリーズは代表例として、野村仁の世界観と活動の意味をよく表している。

ハレー彗星の回帰」シリーズ「天路1986年」(1986-87)「天路1910年」(1986-89)「天路2062年」(1986-89)の3作品から成る。いずれも撮影・制作時期は1986年から89年までの間だが、これは1986年2月にハレー彗星が地球へ回帰(最接近)したことを受けて撮影したためだろう。

ハレー彗星は楕円軌道を描いて周回し、約76年の周期で地球に接近を繰り返すということで、有史以来数々の記録が残されてきた。1986年の前後±76年でいうとまさに「1910年」「2062年」が回帰年となり、作品タイトルが言わんとする意味は知れる。

撮影の諸条件、この過去と未来の年号を託したヴィジョン、光跡や星座の位置関係の違いが何を示すのかは解説を得られなかった。76年前と76年後に来る時の空の姿をシミュレーションし近似した日時の空を撮ったのだろうか。

1986年の接近当時は一生に一度のチャンスとばかり大騒ぎになっていただろうなと想像するが、40年近く経った今となってはそんな事件があったことも調べなければ出てこない。彗星とは幻のような存在だ。その軌跡を繋いだ線は何を語るだろうか。

 

 

 

◇ガラス彫刻シリーズ

ハレー彗星など空の写真と共に並ぶのが3基のガラス彫刻だ。《真空からの発生》(1989)《内部構造:弦1》(1990)トポロジーチェンジ》(1992)、といずれも宇宙や物理世界の構造に関わるイメージであることは明白だ。

写真や録音は外形から動きを観測し記録することに長けているが、見ているものの中身を透かすことはできないし、観測結果の更にずっと先・奥にある抽象化されたモデルをイメージするには、加工編集を経た描き直しが必要になるだろう。

宇宙の姿を外から見るためには、カメラが人体に付随している限りは不可能で、方程式の先端か内部にカメラを仕込まなければならないだろう。そんなわけで、理論の計算式などから導き出されたモデルを作って、それを提示するという、大変誠実なやり方が採られている。

野村仁を象徴する言葉を引用する。

「人は風景を前にして、全体を眺めたり、脈絡がないかのように視線をさまざまに動かす。それはあたかも素粒子ブラウン運動のようでさえある。人がそのように見るのであれば、私はその全てを、ありのまま記録し、人が見るということの性質を明らかにしたいと思った。」(「野村仁:偶然と必然のフェノメナ」_Photobook 1972-82 視覚のブラウン運動 

こうした動機と、カメラを幾ら回しても追い付かないという限界が、野村の眼を天体へと向かわせた。天の動きは全てを象徴し包含する。光、物質、時間、重力、命…。

 

野村仁は一体何に駆られ、何を表現しようとしたのか、知れば知るほど「宇宙」と言わざるを得なくなるのだった。

 

 

 

森村泰昌

コレクション展には写真として、森村泰昌も6点展示されていた。森村泰昌というだけなら、今やどの美術館に行ってもだいたい収蔵されているので特筆すべきことでもないが、「星男」シリーズ4点は他で観た記憶がない。

全身、特に顔面を変装によって何者かのイメージに化ける作品でお馴染みだが、「星男」シリーズは、後頭部を大きく星のマークで刈り上げた森村の後ろ姿が並ぶ。由来を知らないと毛沢東スターリンなど共産主義のシンボルを連想してしまうところだが、安心してくださいマルセル・デュシャンです。

 

サイト「ときの忘れもの」の記事マン・レイマルセル・デュシャン銀塩写真の魅力Ⅶ 20世紀の肖像」」で「星男」シリーズとマン・レイ撮影によるデュシャンの星型高等部との繋がりが解説されている。

blog.livedoor.jp

 

展示ラベルの購入元説明を見ると作品名とは別に「『これはデュシャンではない』、ですか。藤本由紀夫、森村泰昌」(MEM大阪、2005年)とあり、ここで元ネタがデュシャンだと分かる。判断が遅い。

MEMは現在、東京の恵比寿・NADiff a/p/a/r/tにあるが、なんと2003年~2010年9月までは大阪の北浜にあったという(更に遡れば1997年に大阪・天王寺で設立したと)。うそやん。戻ってきてや(  >_<)

mem-inc.jp

mem-inc.jp

 

思わぬところで関西ギャラリーの歴史に触れることとなった。

さらに写されたモチーフは共産主義者ではなくマルセル・デュシャンということで、デュシャンとは一体何なのかという宿題が残った。思えばチェス好き、逆さ便器でレディメイド、謎めいた「大ガラス」ぐらいしかデュシャンのことは知らない。典型のイメージはあるが人間的な中身としてのイメージは全くなく、記号のようだ。写真のように星刈りの頭をさらして金閣寺にひとり訪れるのを好んでいました、などと伝説が付記されそうになる。物語は記号に寄り添うのだ。

野村仁とデュシャンについては長い長い夏休みの宿題とします。なお夏とは命ある体温の時間のこととします。ひっ。

 

( ´ - ` )完。