元旦でウェエエエイ。
初日の出を摂取するつもりであったが、寒いし朝早いの意味わかんなくて「でかい建築でいいのでは」と、 そうだ安藤忠雄をしよう。淡路島にいっておのころするんや。
なぜ唐突に建築なのかというと、最初は「大阪・南港の高層ビルWTC・さきしまコスモタワーから初日の出を拝む」という計画があったのだ。あったんだよ。が、元旦特別料金を毎年ガンガン上げ続けており、ちょっと露骨すぎて酷すぎたのでイヤになって見送ったのだった。これ見てや。
<さきしまCT、各年1/1の特別料金>
2019年:1500円(中小人800円)
2020年:1800円(中小人1000円)
2021年:1800円(中小人1000円)
2022年:2000円(共通)
2023年:2500円(共通)
2024年:3000円(共通)
( ´ ¬`) おかしない?
子連れだったらしぬよね。おいロシアはやく戦争やめろ(唐突な飛躍)。
電気代・燃料費やら人権 いや人件費やらが新型コロナ禍以降に高騰したからと思うと分からなくもないのだが、たった5年で2倍になるとは、富裕層でもないとむりである。むりむり。5年で初日の出が2倍感動的になるわけでもない。タワマン的なノリであるか。ついに高層階富裕者層世界が大阪の空をも支配し、ハイクラス人民への露骨な目配せが広がってゆくのだ。ああっ天も地もジェントリフィケーション。ああ。
だが安藤忠雄は、我らが庶民の味方である。1人3千円なんて要求しません。基本無料だ!
というわけで安藤忠雄建築でお馴染みの「淡路夢舞台」、ここに行きます。
めちゃくちゃでかいのに無料(※駐車場料だけ1日600円)、かつ元旦も普通に開放されているというすごいスポットである。建築空間を巡るだけなら駐車場の営業時間「7:00~23:00」に従う。まあ初日の出が見れませんけれども、それはもうどうでも良くなってくるというか、どうでもいいです( ^₋^)。WTCの対抗馬として申し分ないというか、完璧な上位互換である。いや互換とは言わんだろ性質が違う。まあどうでもいいんですが、信仰心。いや。都市への批判。未来。ああっ。なんでわざわざ元旦に淡路まで、しかも行くんやというそもそも論に対する十分な解答となるであろう。なるんや。
さんざん南港をdisったあげく、海を越えて淡路島に行ってきたやで編。青空がきれいですね。
◆淡路夢舞台(安藤忠雄)_展望テラス、パソナ
初日の出にこだわらなくてよいというぬるさから、やや出発が遅れ(主な要因はおせち的なアレ)、8:40、夢舞台に到着。当然のように人はいない。しかし道中で通過した、観覧車で有名な「淡路SA」は満車だった。初日の出を見た庶民がそのまま滞留していたのではないか。局所的に人が集まり、それ以外は無人である。そらそうや。元旦やぞ。
地下駐車場に車を放り込めば1日600円で、建物自体は無料。温室「あわじグリーン館」だけ別途有料(大人750円、10:00~18:00)である。広すぎるので、今回は安藤忠雄ワールドのみを歩いて回ります。
駐車場からエレベーターで直結している「展望テラス」。水と空に開かれた形で、円形のコンクリート構造体をぐるぐるできて、古代と近未来が同時に体験できて、意味がわかりませんがそういう効果があります。いやあ立派な建築でおますな。何かの名称ある建物を歩いているという感じがいまいちしない。商業施設なのか住居なのか、商業でも店なのかオフィスなのか、はたまたオブジェなのか、それとも「建築」そのものなのか。機能的でありながら単一の機能で明確に分岐されきってはおらず、見惚れます。
あといつのまにパソナグループの根城に。パがいっぱい入っている。いつのまにこんなにパソナ物件に・・・
逆を言うと、飲食店がいつのまにかスカスカになっていた。
現在2店舗。滅びかけている。パソナが来たのは新型コロナ禍で外食産業をはじめとする接客業が軒並み大変なことになった時期でもある。地域救済策とも言える。
そもそもここで海鮮料理のフルコース、居酒屋の高尚版を食べるシチュエーションが思いつかないのだが、団体旅行客がバスで放り込まれるか、夢舞台に絡めたイベントなど催し事・仕事の打ち上げで夜に使うかぐらいではないか。夜に夢舞台に大勢で来る場面が想像できない。東京カメラ部団体様の夜間撮影かなあ。うーん。
ちなみに2006年の店舗状況をホームページから見てみたよ。まずまず賑わっていた模様。よくある観光地の感じ。淡路花博が2000年から5年に1度のペースで開催されていたことを思うと、一定の来客はあったのかな。うーん。
さらに。下は2012年2月。まだ店は多い。このあたりに時期に私は初めて夢舞台に来た気がする。
2019年2月。徐々に減っている。別にここで食べなくても淡路SAで楽しめるしなあ。
パソナが淡路島入りすると報じられた時は「島流しか」「新自由主義の領土に」などと話題になりましたね。その後どうなったかよくわかっていない。
2020年9月、パソナグループが淡路島への本社機能の一部移転を打ち出し、大きな話題となった。2021年時点で既に夢舞台の空きテナントを活用してオフィス化が成されていたようだ。以下の記事が分かりやすい。
本社業務1800人分のうち2024年5月までには1200人分を、夢舞台を含めて7カ所に移設する予定だ。
夢舞台についても、飲食店が撤退した後の空きテナント再活用はプランのごく一部で、メインの事業としては「淡路市夢舞台サスティナブル・パーク土地利用事業」、海沿いの約74,350㎡(淡路市分55,480㎡、兵庫県企業庁分18,870㎡)をパソナが買い取り、オフィスだけでなくコンドミニアムホテル、世界の車窓レストラン、自動運転・空飛ぶクルマ実証実験なども設置、2025年4月にオープン予定という。
想像以上に規模がでかい。そして「2025年 大阪・関西万博」に連動したプロジェクトであることも分かる。今回は忠雄建築を回るのみとしていて、海側の広大な公園、建設予定地を歩き回ることはなかったので、現在どうなっているかは不明である。確かに車で走っていた時に海側に「国営明石海峡公園」「海のテラス」などと、のっぺりと何かが広がっているのは判っていた。体力と時間が惜しかったのでそっちの散策までしていられなかったのである。ここは広いので、、(体力がない)
同じ理由で「兵庫県立淡路夢舞台公苑温室 あわじグリーン館」も飛ばします。植物園で撮影にいそしむと1時間は追加で費やすので、後のスケジュールがくるうんや。
温室も元旦から営業する。地味にすごいのではないか。これはホテル(グランドニッコー淡路)が隣接しており、宿泊客の流入が一定見込めるからだろうか。世間の「元旦」もずいぶんオープンで便利になったものだと実感。
◇ 百段苑~屋外劇場
山回廊と海回廊がホテルに向かって続いている。どこを歩いたらいいのかよく分かりません。電話ボックスみたいな光の箱があるのだが、あれは入れるのか、いや入れないと思う、光を取り込んで下へと通すためのものか、いやどこまでこの下に空間が広がっていたっけか、考えていると意識が迷子になり、たのしいです。幼少期に安藤忠雄体験を重ねておくべき。
ホテル「グランドニッコー淡路」が見えますね。マンションみたいな平たい建物がそれです。
2Fには「海の教会」があり、「光の教会」と同じくコンクリート壁を十字に切って自然光を屋内に入れる構造になっているらしい。通路を歩いていけば辿り着くけれども、時間がおしいのでホテルはカットします。
手前の水場階段は全部貝殻が敷き詰められている。よく見ると全て大きさや形が違う。リアル貝殻である。この「貝の浜」は総数100万枚に及ぶ。噴水は1000基。スケールが違う。だが至る所が経年で苔が生えている。本来は真っ白だったはず。ああっブラシで掃除したい。
「グランドニッコー淡路」の更に先には「国際会議場」という円形の建物が接続している。飾りではなく、R3年度の利用実績でいうと国際会議を20件、国内会議を330件、計350件開催している。なおコロナ禍前のH30年度は計385件。
目当ての階段に来ました。夢舞台に期待していたのは階段こと「百段苑」です。パソナ調査をしに来たのではない。元旦に階段を上ったり下ったりして構造体を彷徨うことがよろこびです。
階段が目立つが実は花壇になっている。階段の印象が強すぎるのは、斜面になっているから当然に下から見上げる構図になり、見えるのは段のギザギザであって花壇ではないためだ。これは上まで上った人間でないと実感しにくい。
なぜ花壇なのかというと、1995年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」を受けて、安藤忠雄が設計プランを変更、活断層を避けたほか、被災した人達への鎮魂の場としたのだという。
27年経った今では関西もすっかり綺麗に復興し、更に東日本大震災や熊本地震、多数の水害、コロナ禍、ウクライナ戦争など、詰め込み教育ばりにあまりに多くの出来事が起きたため、当時のダメージが忘れ去られているが、こんな大規模な鎮魂を必要とするぐらい被害は甚大であったのだ。すっかり忘れていた。
私も関西人ではあるが、兵庫県から離れていたので大いに揺れはしたが全く被災しておらず、記憶はあるが実感は薄いという、そういう謎の差異もある。
世界各地のキク科植物・約100種類も植えられているという。めちゃくちゃ凝っている。100種類いるから百段苑なのか。長崎オランダ村といい植生へのこだわりに容赦がない。やはり文化は過剰さに尽きる。選択と集中では「文化」は標本化するのだ。
どうやらイルミネーションもやっていた模様。これはお金が地味にかかりますよ。入園料とってないのに施設維持はたいへんや。県が出資する三セクなのでその気になればお税が入れられるが。まあ入れていいのでは(適当)。
コンクリはかなり黒ずんでいる。過去の写真と比べても、昔の記憶からしても、なんだか全体的に色合いが違う気がする。永遠に白く輝くわけにはいかないか。風化を受けて変化するのと、最初の白さを留め続けるのと、どちらが良いのだろうか。コンクリに関しては正解があるようで悩ましく、まだ良く分からない。
カープの選手つれて帰るの忘れた人だれ (´・_・`)
ホテルと国際会議場を見下ろす。見上げたときより小さい。そう、安藤忠雄マジックで、下から見上げたときと実際に歩いた時のスケール感は違っていて、見た目は遥かに遠くて大きく感じるが、実際は広大というより細かく通路や壁が入り組んでいる。体感としては目で見えていなかった部分の地形をプラスオンで歩き回る、つまり歩を進める度に新たな「探索」が生じ、意識が次の未知に晒され、負荷が追加される。それが独特かつボリュームある「建築」体験をもたらしているのだと思う。
満足しました。入れ替わりで、若い女子さんが3~4人来た。元旦から淡路島で忠雄するとかなかなかやるな。
写真左に写っている真四角のタワーがエレベーターで、それを使って下の通路に抜けます。階段でも行けるけど迷いそう。ここはダンジョンなんすよ。リアルで大きい、自分の体で歩く迷宮。
元はこの一帯、関西国際空港や神戸ポートアイランド建設のための土砂採掘場によって荒れ果てた地であったという。当初はゴルフ場にする計画もあったが、1988年に貝原兵庫県知事が安藤忠雄に設計を依頼、1993年頃から復興・再生を目指して植樹を行い、森と建築を育んできた。その結果が今の姿だ。剥き出しの工事現場そのものの地表を思い起こさせるものは今や、無い。
物思いにふけっていたら円形のコロセウムみたいな屋外舞台に出た。これは今回初めて知ったスポットである。歩いてみないとわからないもんです。歩かねばならない。
( ´ ¬`) ローマ。
剣と盾を手にして対決したくなる。いずれ淡路島が「スパルタなでしこ党」などに選挙で占拠された際には決闘場として活用が。
座席は石段だけがぐるっと中央を囲んでいる。美しいのだが秋冬の夜は寒いぞこれは。夏の日中は死ぬほど暑そう。イメージ的には「維新派」とかが演ってそうな気がする。実際に使われた時の写真を見たかったのだが、あまり検索で出てこなかった。ステージ中央は海に向かって視界が突き抜けており、舞台の背後や横に隠すものを立てられない(一応左右にはければ姿は隠せるがやや距離がある)ので、使うのがけっこう難しいの印象だ。
敷地の至る所が忠雄テイストなので、好きな人は好きだと思う。逆に明確に忠雄建築を嫌いな人って聞いたことがない。イズムやイデオロギーがなく、格闘や対話があり、歴史や環境との身体的な調和があるからだ。
劇場の向こうは公園エリアになり、ここからはやたら広そうなので深入りしません。鳴門大橋のあたりまで移動するんで時間が限られてゐます。彫刻があるけど作品プレートらしきものがもがれてて謎のまま。
漢字のなりたちみたいなオブジェ。
( ´ ¬`) 1時間ちょいの散策で満足しました。これは歩数を稼いだな。健康にいい。
まだAM10時前、余裕があり、建築スイッチが入ったので、もう1発安藤忠雄をします。
◆本福寺・水御堂(安藤忠雄)
「淡路夢舞台」から車で10分弱、国道から田畑の方へ入って少し坂道を上がると、普通のお寺と普通のお墓が見えてくる。墓参りをしようというのではない。駐車場からは真言宗のお寺しか見えない。
こんちは。正面階段、いかにも本堂のような建物、
を避けて右側のお墓との間にある小道をゆきます。
隠し通路みたいなことをして木々の間を通り抜けると、安藤忠雄としか言いようのない、白く滑らかなコンクリートの細長い壁が現れる。横に真一文字に走るコンクリートは清冽でさえある。なぜか寺や墓と違和感が全くない。死や霊、異界といった乱れたものを中和し、フラットに鎮めている安定感の面で、同質のものがあった。
そしてこの安藤忠雄建築こそが、本福寺の本堂である。じゃあ正面に立ってたあの「寺」本体っぽい建物は何だったですかよ。住居か寺務所だったのか、、? 建築の基礎授業を受けたい。
例によってコンクリートで見えているのは一部分で、大部分は地下に埋もれている。それだけなら他の忠雄物件と似たようなものだが、ここが特徴的なのは、上部が池になっていることだ。
蓮の池である。
今は苔だか藻だかでモヤモヤしているだけだが、季節になると睡蓮の花が咲くのであろう。ああっ掃除したいっっ。この苔だか藻だか掃除したいっっ。くあッ。
儀式だ。
池を割って地中へと下る細長い階段、現世とあの世を行き来するような見事な建築であります。こんなの建築って呼んで良いのか。「宗教」とも違う。時空間を縦断しその中をワープするように真っすぐ垂直に移動するのだ。建築とは人間に新たな行動様式と可能性を与える。
階段を下りて中に入ると受付があり、拝観料400円(大人)を払って、靴を脱ぎ、朱色の超太い支柱のような円筒の周囲を回る。
円筒の中は御堂であり、薬師如来像がおわします。御堂を見ずにここまでで引き返すのであれば無料で観られるが、短いけれども折角なので課金した方が、精神上も良いです。
中は線香の香りが立ち込め、軽いトリップ状態に。地下でありながら天上を感じさせるものであるな。モダニズム的な建築の中でありながら古来からのお寺の静けさも感じさせる。
ああ~~~ 回ると魂が浄化される。太陽と陰の円環、日が昇り沈みまた昇ることを繰り返すという建築になっている。
御堂の裏は巨大な門になっていて、更に回廊を挟んでコンクリート池側の壁面も門になっていて、天井まで高く伸びている。非常に高い。外側の門と池のコンクリート壁との間には最小限の隙間があり、大きな観音像などを上からクレーンで吊るして搬入したと思われる。決して広くない、むしろ狭い空間をギリギリまで切り詰めて、実用性と空間パフォーマンスとを最大限に確保し、スリリングなまでに引き出すのは安藤忠雄ならではだ。無駄な余裕を抱え込まず、されど理想だけでなく現実的な対応も計算している。こういうところに美しさの源泉があるように思う。
◆戦没学徒記念 若人の広場公園(丹下健三)
一気に途中の道程を飛ばし、16時半、淡路島の南端あたりにまで出てきた。このまま鳴門海峡大橋を渡ってしまいそうな衝動に駆られる。道中のスポットはまた別枠でレポしましょうね。
なぜこんなに南下したかというと、由良要塞を第2のメイン目的地としたのと、玉ねぎを買いたかったのと(未遂)、丹下健三建築モニュメント「戦没学徒記念 若人の広場公園」があることを知ったためだ。なぜ淡路島の南端にそんなものが…。
鳴門海峡が近付いてくる。夕暮れも近付いてきた。時間との勝負である。IC回路のような四角形が浮かんでいる。かつて「半導体は産業のコメ」と呼ばれたことを連鎖的に思い出す。反射的に80~90年代の日本を思い浮かべるのは何故だろうか。深層心理に刻み込まれた、サイバーパンク化した高度産業国家ニッポンの幻想・・・ニンジャ・・・。
「戦没学徒記念館」や「記念塔」という名の通り、ここは太平洋戦争で犠牲となった、軍需工場などに動員されていた男女学徒の鎮魂、そして歴史と記憶を後世に伝えるための施設である。資料館の先、丘の上には記念塔が高々と聳える。それらを設計したのが丹下健三だ。
上空から見た全体の姿はこちら。
う、美しい… なんだこの記念館と塔の一体感は。こんな姿形をしていたのか。一人称徒歩視点では、目の前に一つずつ現れる平面的な視界でしか建築は捉えられていなかった。鳥の眼であればこうも一体的な姿に見えるのか。ふええ。
下の駐車場から歩いていく時には、巨大で原始的な墓所のような建築物が現れ、これが心に染みるのだった。これも時空を超えるスケールを感じさせる。夕日のせいでもある。数千年前からこうしてきたような。
1913年生まれの丹下健三の建築家としてのキャリアは、ル・コルビュジエに傾倒し、その教え子である前川國男の建築事務所に入ったという原点から始まる。モダニズム建築の代表作は広島平和記念資料館、国立代々木屋内総合競技場、大阪万博・お祭り広場などだ。戦後日本において、西洋のモダニズム建築と日本の伝統的な和の様式とを一つに合わせる形で昇華させ、世界的に高いレベルの建築を生み出したとされる。更には時代の変化に対応し、例えば東京都庁・新庁舎ではその後の潮流となるポストモダン建築の趣向も汲んでみせた。
確かにこの石積みの建築物を見上げ、歩いていると、単に「モダニズム建築」と呼ぶことは難しい。1967年に設立されたが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、床板がめくれたままになっていたというWeb報告も目にした。長らく閉鎖されていたが2015年に再整備されオープンとなったという。その際に現代風のアレンジは加えられているかもしれない。
資料館を通り抜けて両脇を固められた通路に沿って歩いていくと、巨大な尖塔が現れる。円錐の解剖図のように前半分が切り落とされて、手前側は中の空洞が見えている。モチーフはペンの先だという。若い衆は戦争に行かせたり戦争でしなせたりせず勉強させたろうやという、天国で好きなだけ学びをやってくださいということだろうか。
塔の手前には「若人の広場」レリーフ、内側には燃え続ける灯がある。
工場、戦争への徴兵で14歳から22歳の男女学徒が約400万人動員され、20万人が亡くなったという。5%、1クラスで1~2人は死んだのだ。
だが塔のボディが描く曲線と、その上を走る鋼のような直線との交錯は柔らかくも硬質さを伴い、たいへん力強い。装飾はなされているが無駄が一切ない。機能性はないが抽象性と呼ぶような表現も必要最低限に抑えられていて、それが逆に壮大さを感じさせる。コンクリートの白灰色がそうさせるのかもしれない。目に見えているものが物質と空間・風景とのいずれにも跨ってゆき領域を一つに留めない。「建てる」「立つ」という行為だけが純化されてそこにあり、地と天とが混ざっていく。天候にも左右されるのだろうが、コンクリートは視界を、視点を吸収するような効果がある。何も反射しない。全てを受け止めて吸ってゆく。本福寺しかり、この慰霊塔しかり、その吸収力が無を呼び、鎮魂や祈りといった場に相応しいものとして馴染むのだろう。
背後の反り返りも美しい。ただの塔ではない。鯨のような崇高さを伴う。
ただし美しい話だけではない。前述の通り阪神・淡路大震災以降は荒れ果てて廃墟化していたとのことだが、それは当時運営していた財団が震災後に経営破綻し、放置されていたためだという。現在はこの施設は南あわじ市が都市公園として整備している。
また、竣工時にも因縁があった。当時の財団の政治的な関わりから、竣工式に自衛隊の艦船や航空機が動員されることを直前で知った丹下は、式典の欠席を強行。平和主義を重んじ戦争に反対していた丹下にとっては認められざることであり、この建築については自作品として公にしなかった。
長い間、建築者は伏せられてきたが、2002年の藤森照信の書籍「丹下健三」や、その後のメディア掲載などで徐々に知れ渡り、今では名物のようになっている。そのあたりの事情は以下リンクに詳しい。
◇館内、展示物
展示館は積まれた石が城壁のような姿を見せ、入口はまさに城だ。だが中に入るとコンクリートのアーチ状の天井がしつらえられ、戦時中の地下壕を思わせる。
展示されているのは生身の人間の生と死、短い人生の克明な灯である。パネルには学生らがいかに生き、そして最期の当日をいかに迎えたのかが綴られている。手紙や衣服、防災頭巾など身の回りの品物の写真が共に提示され、実在の存在としての肉付けがなされる。
最期は、悲惨である。川田文子さんは爆風で崩れた防空壕内で圧死した。諏訪知弘さんは工場でクレーンに挟まれて死んだ。中野千鶴子さんは戦闘機の爆弾の破片に胸部を貫かれて死んだ。皆、死んだのである。そして「帝国」や「日の丸」が死に価値や意義を与えていたことも感じ取れる。どこまでがフィクションで、装置で、つまり権力なのか。どこからが人間的な真実なのか。そんなことを考えさせられるのだった。
もう閉館のお時間です。ピィー。
なおこの館を観ているあたりでTwitter(X)を開いたことで、石川県・能登半島の地震の報を知り、「震度7」や「大津波警報」の文字が押し寄せるのを目にし、激しく動揺するのだった。なんていうか起きたことの事実それ自体よりも、その報に集まってくる周囲の声が、不安、混乱、動揺、警戒、恐怖、善意、悪意、デマ、それらへの突っ込み、それらを偽装した自動投稿、などが大きなうねりを作り出していて、そのうねりにこちらの心も揺さぶられたのだった。見なければよかった。
◇帰路(淡路SA)
最後に淡路サービスエリアに寄って玉ねぎを狙います。
玉ちゃんが今回の裏の本命ではあったのだが、道の駅に立ち寄る暇がなくて買えなかった。SAならあるだろうと甘い見積もりを抱いていたが、売り切れでした。おおん。元旦やぞ。なんでみんな外出しとるん。
仕方ないのでフードコートで玉ねぎ入りカレーうどんを食す。
うまいうまい。カレーがやや少なく見えたので、しゃばしゃばなのでは?と不安だったが、杞憂だった。絡めるとそれなりの量になった。玉ねぎの味はしっかりしていた。もう少し大きくてもいいよ(小さい)。
正面のテレビモニタには津波情報がずっと表示されている。発生直後すぎて現地の映像もなく、ただただ日本地図や文字情報が続いている。カレーうどん。津波。カレーうどん。津波。ああっ。困った。
ししゃもねこに癒されました。ふうー( ´ - ` )
ねこが全てを解決する。そうだろ?
( ´ - ` )完。