写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+】「印象の遠近」ヤマガミユキヒロ @Gallery PARC(ギャラリーパルク)

【写真展/KG+】「印象の遠近」ヤマガミユキヒロ @Gallery PARC(ギャラリーパルク)

遠近の消失した風景を、写真の繋ぎ合わせによって獲得した作品。

【会期】2019.4/12~4/28

 

会場はビルの3階分(2階~4階)に亘り、階を上がるごとに作者が「風景」を描くに当たって遠近法を脱し、平面性を突き詰めてゆくことを目撃する。

作者は鴨川沿いに立ち並ぶ京町家の列を、遠近の消失した平面で捉え、描き出したいという思いがあったという。しかし技術的なハードルの高さなどから、まず通常の一点透視図法により都市の風景を描き起こしていったと聞く。それが最初の2階の展示である。

本作は、写真を元に書き起こしたドローイングを映像として投影するもので、写真、絵、動画映像の領域が重なり合った手法である。写真と見まがう精緻な都市景が巨大なスクリーンに映し出され、その中には実際の歩行者の映像が合わされている。

これらの作品は、現実と言えるだろうか。確かに見た目の具体性は写真と遜色がない。参照元は、都市のどこかを写した写真(上の写真は新宿駅東口のはとバス乗場付近)である。それを精緻にトレースしているので、現実の複製と言えそうでもある。

しかし、一度作家の手による書き起こしを経ることで、作者個人の脳や筋肉の作業結果としてのアウトプットと化し、現実の複製とは大きく性質を異にする光景となっている。理屈の上でも、実際に見ていても、現実の風景とは違和感がある。言わば架空、どこにもない場所だ。その中を、現実の複製としての歩行者が歩いていく。背の丈ほどもあるスクリーンゆえ、鑑賞者は「風景」に入ってゆけるような感覚に陥るが、写真や映像といった現実の複製とはまた異なる次元の世界(あくまでも架空)のためか、中へ入ることが出来ないのだ。

  

次の3階では、本題である京町家の行列を平面で捉えるための習作として、縦長の写真が無数に張り合わされたコラージュめいた作品がある。この時点では解説がないので、細切れになった写真の連続は、時間の移り変わりをアクティブに表した作品だと思うだろう。作品右端から左へ、三条大橋に向かって、夜が更けてゆく。 

 

最後の4階へ上がってゆくと、先ほどの鴨川の京町家の像が、長い壁面いっぱいに投影されているのを目撃する。写真のコラージュ、実際の動画映像、そして作者によるドローイングの線描と順に切り替わってゆく。それらが伝えているのは平面性の連続体だ。新しい風景が室内に浮かび上がる。

 

ここで作品解説があり、3階の写真コラージュは平面性を追求した試行の結果であることが判明する。ある地点から対岸の風景をカメラで撮影する、すると写真にはどうしても、ピントが合焦している部分以外がぼやけたり、歪みが生じたり、遠近感が生じることが避けられないという。完全な平面を通常のカメラ(写真)で得ることは不可能なのだそうだ。

その対策として、作者は写真のうち最もピントが合っている画面中心のラインだけを残し、その周囲をばっさり切り落とす。そうして数十枚の写真の短冊が得られる。三脚を移動させながら写真と動画の撮影を行い、1コマ3分ほど要しながら少しずつ移動してゆくので、76カットの撮影には約5時間を要する。当然、作品として繋げた時には結果論として、朝から晩までの時間の経過が表われる。

 

ここに獲得された平面性は、端から端まで遠近が消失している。これは肉眼でも写真としても存在しない光景である。そのためタイトルが「印象」なのだ。上掲の写真では画角が足りず伝わらないが、会場の長い壁面いっぱいに続く京町家の絵は、まさに絵巻物、日本絵画のスーパーフラットの伝統に言及している。異なる時系列を一枚の平面に展開する手法もその通りだ。そこに、動画としての揺れ、写真が取り込む種々の光が、「印象」(派)の様相を帯びる。

 

本作が「写真」作品と呼べるかどうかの議論は脇に置かれる。作者のやりたかったことを知れば知るほど、メディア絵画論だということで気持ちの上で決着が付くからだ。写真は手法や考察の主力要素として登場するに留まる。

 

しかしなぜ作者がここまでの手間暇をかけて、京町家の平面性を忠実に紙面にドローイングで再構築したかったのか、その情熱、動機や欲望の源泉について知りたく思った。恐らく、理由などなく、尋常でなくその平面性と連続性に惹かれたのだろう。その理由が知りたいという、矛盾した思いに襲われた。

 

 

( ´ - ` ) 完。