nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2020 (アソシエイティッドプログラム)_オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」@ギャラリー素形

KYOTOGRAPHIE 2019年のメイン展示及びKG+セレクトなど、「表」の主力プログラムが会場演出、体験型展示に舵を切っている中、「裏」の横綱級が存在する。オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」、美しいプリントと深いテーマ性によって、写真が美術品であることを体現していると言ってよいだろう。

 

【会期】2019.4/13~5/12

 

作者:オサム・ジェームス・中川はその名の通り、日本とアメリカという二つの国に自身の起源を持ち、そしてどちらにも所属しきらないマイノリティとしての感覚を持ち合わせてきた。それゆえなのか、作品のテーマやステートメント、構造は明瞭かつ論理的であるにも関わらず、写真が醸す世界観は和洋のどちらとも付かない、不可思議なビジョンをもたらす。 

本展示はKYOTOGRAPHIEの「アソシエイティッドプログラム」として位置付けられ、「メインプログラム」とは別枠扱いとなっている(パスポートも対象外)。

見逃されがちであるが、過去のKGにあった「写真そのものの良さと重み」でダイレクトに攻めてくる。写真ファンにとっては見逃してはならない企画だ。

 

◆「Eclipse:蝕」

巨大な廃墟のモニュメントが写されている。アメリカのドライブインシアター(映画館を屋外に解放した施設で、観客は車に乗ったまま、巨大スクリーンに投影される映画を鑑賞する)である。今では衰退した業態だが、1950~60年代に流行のピークを迎え、一時は4,000件を突破したという。

作者は1992~97年にかけて、この娯楽装置を「偽りの神話やアメリカンドリームの歴史を擁護するためのからくり」と喝破し、「ドライブ・イン・シアターシリーズ」として作品化した。

だが2017年1月に幕開けたトランプ政権は悪夢のように先祖返りし、偉大なアメリカの幻影を再び振りかざした。過去が繰り返される事態を受けて、作者はかつてのネガを見返し、新たに中西部の野外劇場の撮影に着手した。

 

結果、写真の中では、映画の投影されないスクリーンが空ろな墓標のようにそびえ立っている。大統領のスローガン(放言)とは裏腹に、アメリカという国はもう国民へ幻想を見せる力を失ってしまったように見える。

一方で、大きな平面が空と地面を背に浮かび上がる姿は、まさに政権の標榜するコンクリートの「壁」を象徴する存在となって、否定しがたいスケールを以って浮かび上がる。かつてのアメリカではまだ共有されていたであろう成功と反映の「夢」が、とうとう分断という現実に取って代わられてしまったことを示唆しているのだろうか。

作者の危機意識と作品に込められたテーマ性は重く、暗い。しかしプリントは美しい。モノクロ写真だが、白・黒の世界ではなく、グレーの濃淡だけで緻密に描画されている。この風合いは不思議な艶めかしさがあり、技法については不明だが、若干ソラリゼーションを加えたような光を内包している。

 

役目を終えた廃墟はプロ・アマ問わず、格好の被写体として愛され、しばしばノスタルジックに、ドラマチックな写真に仕立て上げられる。だが作者の眼には、これらの幻想の装置はまだ終わったものではない。アメリカが次の段階――分断の時代に入っていることを物語る証人なのだ。

独特なのが、作品はグレーに徹していることだ。撮り方もプリントも、失われた青春や盛りを懐古する側には立たず、さりとて社会的風景として批判する側なのかというと、それだけではない。善悪の判断を付けられない所から作品は提示されている。それらは夢のある社会ではない。だが、作品として美しい。この大いなる矛盾に、鑑賞者の眼は引き付けられ、緊張感を覚えて向き合うことになるだろう。

 

 

◆「ドライブイン・シアターシリーズ」(1992-1997)

Eclipse:蝕」の元となった過去の作品が3点展示されていた。こちらはカラーで、屋外スクリーンには映像が宿されている。その風景は色褪せて廃墟と化しており、スクリーンの映像はアメリカンドリームどころか、KKKやキャンピングトレーラー生活者、車の窓ふきをする労働者と、かなり社会批判の効いた作品である。

作者の今に繋がるキャリアを知ることが出来るだけでなく、アメリカが90年代には既に、何か大きな失調に見舞われていたことが伝わってくる。

 

 

◆「廻:Kai」

Eclipse:蝕」の社会的テーマと対になる作品で、家族との繋がり、家族を構成している個々人の繋がりを写し出している。

『21年前、父親が癌を患い、初めて家族の死と向き合わなければならなかった頃、妻の妊娠がわかり、はじめて家族の生と向き合うことになりました。』

家族との繋がりは、生と死の巡り合い。世代を超えた輪廻という形で見い出されている。誰かが死に、誰かが新たな生を受け、自分が育ち・育てられてきたように、また新たな育て・育ちがある。そうして終わりと始まりが繰り返され、作者自身もその環の中の一人である。

 

「家族」を言葉で語るとき、どうしても一般論に落ち着き、単語は役所的な意味を帯びる。その最小単位の社会が内に秘めた物語は、個人にとって最も重くて深いが、言葉ではなかなか手繰り寄せられない。

なぜ私たちは今ここに生きているのかをうまく説明できないように、なぜ家族という存在がそこにいるのかは根本的には説明がつかない。言葉はどこまでも後追いの理屈であって、親や子がそこにいること、自分と繋がっていることを説明できない。それは縁であり運命としか言いようがない。別れもまた同じく運命で、そこには理由はない。

 

毎日を365日続けてゆく日常の中では、運命は見失われている。輪廻を意識する暇もなく、気付いた時には様々なことが終わっている。私自身を振り返っても5年、10年、15年、あっという間に過ぎ去っていて、身近な誰かがぽろぽろと居なくなっていた。

作者はおそらく永い時間をかけてこの「環」を見つめ、写真によって可視化したのだと思う。私生活にカメラを向けながら、これらは私写真ではない。輪廻の円環を再構築するような、理知的な写真である。同時に、1枚1枚は光に溢れ、愛に満ちている。独特な文体だと感じた。愛という観念もまた、言葉ではうまく説明が出来ない。だが、写真には、それが溢れている。

 

Eclipse:蝕」と「廻:Kai」、どちらも単純な正解や感動を許さない、理知的な作品であった。そして描画と展示の美しさにより、美術作品としての威厳を持って並んでいる。写真作品と対峙する緊張感と喜びは、場の体感を楽しむことに主眼が置かれていた今年のKYOTOGRAPHIEではあまり見られなかったものだ。腹に重みを以って溜まる「写真」であった。

 

 ( ´ - ` ) 完。