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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+】川野恭子「山を探す」@GALLERY 35

【写真展/KG+2019】川野恭子「山を探す」@GALLERY 35

 山を登るという行為を、真正面から写真によって実践する作品。

【会期】2019.5/4~5/12

 

本作は、今年3月に京都造形芸術大学・通信コースの卒業展で写真集の形で発表され、私はそれを鑑賞した。今回は、KG+枠の個展としてギャラリーで展開され、同時に写真集も一般向けに販売となり、更に学校で指導に当たった美術家/写真家の勝又公仁彦氏とのクロストークが催された。

残念ながらトークには参加できなかったが、展示を振り返りたい。

 

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テーマタイトルの通り、作品は山を語っている。

壁面全体に、面のような幅を持たせながら、登山が進んでゆく。

前回も書いたが、山を巡る中では作者の主体性は手放され、匿名と化している。「私」の目線から撮られているはずの山行なのだが、一般的な山の写真――登山愛好家のログや、自然の美を称揚するネイチャーフォト、あるいは作家の心象風景ともまるでニュアンスが異なる。

 

匿名性が高い理由のひとつが、作者がどの山を登っているか、山の固有名詞が伏せられている点だ。登山経験があるなら、作品を見ているうちに違和感を覚えるだろう。これらは一つの山ではなく、異なる山々の写真が複合されているのではないかと。

神殿のように立ち並ぶ、立ち枯れの白い幹の木々、緑の豊富なカール状の広がり、岩石の大量に詰まった谷、ガスの中に立つ人の大きさぐらいあるケルン。どれも「山」だが、単体の山にしてはあまりに地形が多彩すぎる。つまりこの世界観は、「山」という集合体、不可算の一般名詞について語っていることが分かる。

 

理由のもう一つは、作者の一人称が歩を進めるにつれて薄れてゆき、「山」と同化してゆく点だ。そこには個人的な山との格闘の思い入れや、自己実現の喜びなどは排されている。あくまで眼だけが淡々と山中を移動していくように、「山」で出会った光景が写し出される。

しかしランダムに撮っているのではない。作者は登りながら、「山」という存在を最も感じる瞬間に向けて、シャッターを切る。山を風景としての型にはめて撮ることはしない。風景と体験の狭間でシャッターが切られていく。「私」と「山」との境目が薄れ、ないまぜのものとして在るようになる。

もし山道をさくさくに歩き続け、ルートを攻略できたなら、それはスポーツやレジャーと同義になり、シャッターを切る必然性は伴わないだろう。景色が抜群に良かっただけなら、空と山の形を「型」のようにして撮れば満足だろう。だが本作では山を歩きながら、形なき「山」を感じた瞬間が語られている。

 

作者は何にシャッターを切っているのだろうか。

作者は山に触れたことで、それまでの「ゆるかわ写真」(ふんわり、やさしく、綺麗な”女子”っぽい写真)のキャリアから作風を一変させたという。何か道中に、心に引っ掛かりを生むものがあるのだ。

 

作品を見ていくと、作者が感応したポイントは大きく2つに分けられる。一つは、自然の領分の真っ只中において、ささやかに確保された人間の場所、山と人との関係性だ。正しいルートを示すための赤リボン、結界を示す注連縄と紙垂、地形と同化しながら頂上まで続く山道、方位を探し求める行為、人の集いの場・人の世を象徴するケルン。

もう一つは、山自体が生き物のように、静かに脈動している様子だ。太陽の光が木々や空や稜線に触れる様、霧により太陽光が拡散しつつ留まっている様、枯れ木が時空を超えて立っている姿、鹿がこちらを振り向く様、岩が重量を湛えながらそこに留まっている様。

 

人の領分は山の中では限りなく小さい。

おそらく遠い昔から、人は山の中に呑まれそうになりながらも、道を作り、仏道など信仰の場として結界を張り、営みの場を確保し、関係を取り結んできたことが分かる。現代を生きる作者もまた、過去の人々がそうであったように、山を歩くうちに、山と何らかの関係を結んでいく。「山」自体の存在感を、五感で受け止め、混ざりながら認めてゆく。言わば、山岳信仰というものへ繋がってゆくのだろう。 

地に足をつけて、安定した平地で定住、農耕により生きるヒトにとって、高く深くそびえる山は危険な場所であり、畏敬の対象であったろう。実際に高山では、気圧や風、気温、酸素濃度など、世界そのものが平地とは全く異なる。言わば、死の世界に近づく。霧も闇も深い。霊峰として名高い富士山を想像すれば分かる通り、山の気まぐれで人は歓喜を得、たやすく死ぬ。まさに山は霊界、神の領域である。

 

山登りとは何なのかと言うと、スポーツや自己実現の側面もありつつ、共通しているのは、平時の自己を一旦失わせる・死なせる行為に他ならない。本来は行く必要がないのだ。登山ほど親不孝なものはないと言われる。山小屋経営者や登山ガイドならいざ知らず、一般人が山に入る必然性はない。では何のために行くのか。一般的な登山の目的は「頂上に辿り着くこと、再び帰ってくること」というもので、あまりに象徴的すぎる。なぜそれをするのか。異界に入り、自己を一度死なせ、生まれ変わるためであろう。

 

前回に見た写真集という形では、作者の一人称の視点が、登山行為を経る中で「山」へと溶け込んでゆき、自然界の動植物ら、果ては地形や風や岩石などと、どこか対等な存在へと変容していく過程が濃く伝わった。1枚ずつ頁をめくっていくという、写真集ならではの鑑賞行為がそうさせたのだと感じる。

「山」の普遍的な姿とは、山という漠とした巨大な生命に「私」が参入すること、その体験自体なのだろう。モノクロームの写真が挿入されるのも、時代に関わらず普遍的な「山」の体験を意味するためだ。それが山岳信仰と呼ばれているものの発露なのかもしれない。

つまり、本作の肝は行為である。人は山を歩き、登るという行為を通じて生まれ変わりを体験する。《山を探す》の構造は、登山行為を真正面から踏襲し、写真に置き換えている。野口里佳が、星を見る眼で登山を撮っていたのとは全く異なる、歩く・登る・同化する行為である。よって鑑賞する側も、行為として読むことで「山」へと到達できるようになると思われた。

 

 

今回の展示では、「山」の写真がフラットに、群として示された。山の表情はよく見渡すことができ、またギャラリーののびやかなアットホーム感も味わうことができた。その一方で、作者の視座や「山」の姿が徐々に・確かに変容してゆく流れ、過程を感じることが難しかった。また、ウッドフレームが明るくて太いため、額装の主張が強い(=流れが切られて写真が"個"となる)感もあった。

恐らく意識的な見せ方だったと思うが、鑑賞者には、作者がそうしたのと同じように、時間と労力を費やしてもらい、一歩一歩登るように1枚1枚を見てもらうと、「山」という世界観が伝わるのではないだろうか。

( ゚q ゚ ) 私が登山経験者だからゆえの感想なので、一般論ではないのですが、いやあ、山は良い。いいもんです山。ええ。しんどいですけど。ええ。 あかん山、

 

山に行きたい。あうあう。 

完。