前作で、従兄弟と祖母の深いつながりと唐突な死別について表した作者だが、語り尽くしたに見えた死と喪失について時間をかけて問いを重ね、新たな視点と解釈から作品を進展させ、写真集を新たに編み直した。それは多視点を織り込んだ、新しい写真集であった。
【会期】R4.11/5~27
◆前作の概要と今作
前作「KYOTOGRAPHIE 2017」での展示「Falling Leaves」と、それをまとめた写真集『The Absence of Two』(青幻舎、2018)は、衝撃的だった。作者の従兄弟の大輝と祖母は、幼少期から互いに親子関係のごとく支え合ってきた。大輝が幼い頃は祖母は母親役を務め、祖母が年老いてくると大輝が暮らしの隅々まで支え、長年の仲睦まじい二人暮らしを作者は撮影していた。
しかし23歳の大輝は唐突に失踪、1年後に森の中で遺体が見つかり、自死であったことが判明する。その2年半後に祖母も亡くなる。
前作はそうした背景から、親子関係と言うほかない深い愛情を写しつつ、急な死別によって現世に取り残されてしまった作者の深い混乱と喪失が刻まれている。
写真集タイトルで「absence」=「不在」とある通り、観る者にも愛別離苦を深く突き付ける作品であった。
「ほぼ日刊イトイ新聞」で作者インタビューが読むことができ、詳細が分かる。
言うなれば前作では「生と死」を丸ごと語ったわけで、2人の関係性と予期せぬ顛末について、語り得ることは全て語られたかに見えていた。それゆえに4~5年ぶりの展示が再び「Two」=「祖母と大輝」と、同じテーマを扱っていたのに驚かされると同時に、前作の衝撃とやり込みからするとこれ以上新しいものが出るとは想像し難く、前作のマイナーチェンジ、インスタレーションの改良なのかなと予想していた。
結果、全くそうではなかった。
今作でテーマとされていたのは、前作の「続き」であった。つまり「喪失」の後にあったものだ。二人で一人とも言えるほど密な関係だった「大輝」に先立たれた祖母は2年半後に亡くなったが、その間の生活で祖母は「大輝が帰ってきた」と繰り返していたという。死者・亡き者とは、本当にいなくなって消えたのか。いや実は、先立たれて現世に取り残された側からは完全に消えるものではなく、何らかの形で存在感が残っているのではないか。作者はそうした可能性に向き合い、祖母の目に実は映っていたのであろう、亡き「大輝」の存在感について表していた。
◆展示:1階:先立たれて独りになった祖母
展示構成として、1階では今作の写真集の内容:「大輝」に先立たれて独りになって以降の祖母の暮らしが主役である。また、試作版から完成版に至るまでの写真集の変遷が提示されていた。写真集こそ作品の主体であり、展示の核でありボディであるという構造はこれまでのRPS(Reminders Photography Stronghold)発信の展示・作品でも一貫している。
「昨日 大輝が帰ってきたとよ」
祖母の一言から展示は始まる。写真とテキストが併置され、むしろテキストの方がボリュームが多い。今作の出発点・着眼点・そしてテーマが、祖母の何気ない「声」にあった。吉田亮人は言うまでもなく写真家であり、写真のヴィジュアル力が武器なのだが、実は「読ませる」作家であり随筆など文章力にも秀でている。特に、近しい者の「声」をエモーショナルに響かせる力がある。
前作の写真集『The Absence of Two』でも、巻末の文章でしっかり祖母と「大輝」の関係性を読ませるものだったが、今作も言葉=声こそ重要なファクターである。「声」を写真と一体的にビジュアル化して立ち上がらせることが今作の要点であり、写真集では特に「声」に力点を置いていた。
フロア中央の白い幕から向こう側には、壁付けのボックス内に写真が収められている。
角度を変えて見ることで写真が2枚重ねになっていることに気付く。上が今作:「大輝」に先立たれた祖母の独り暮らしの姿、下側は前作:「大輝と祖母」の二人三脚の暮らしの姿で、薄っすらと写真が透けて二重の像となっている。上の写真の方が濃いが、時系列的な正しさ、現実の優劣というわけではなく、濃淡はあれどどちらも祖母にとっては連続した事実であることを表しているように感じられた。それは観客にとっても同様である。前作と今作は重奏する。
今作にはドキュメンタリー的要素もあるが、時系列的な事実の上書き更新、事実の同定を行うものではない。むしろ、ある出来事から生じた「事実」は、実は個々人にとって全く異なるという、多視点の要素を盛り込んだことが今作の特徴である。それが近しい者の生・死という、圧倒的に揺るぎのない事実であっても、ここでは現に、「大輝が帰ってきた」と言っている以上、祖母にとっては「(亡き)大輝」は生きていて、帰ってきているのだと認めるしかない。SFでもないごく身近なところに並行世界があったのだ。
◆2階:過去の2人と前作「The Absence of Two」
2階では過去写真:文字通り「過去」の家族アルバム写真と、前作で用いられた写真とが床や壁に大・小で散りばめられ、机には写真集「The Absence of Two」の自家版、青幻舎版の2冊が置かれていた。作者はエモーションに響く言葉を短文・長文で綴ることも出来るし、大がかりなインスタレーションもこなせる(「KYOTOGRAPHIE 2017」展示が顕著)マルチプレイヤーなのだと実感する。
2階の階段から廊下にかけて掛けられていた大伸ばしのモノクロ写真は、まさに「KYOTOGRAPHIE 2017」で衝撃をもたらした、「大輝」が遺体で発見された「森」であろう。新作、森。そこから「祖母と大輝」の過去の姿へと立ち返ってゆく、時の流れを遡る構成である。死別の境界線を心理描写的な写真によって一定程度無化してそれを行っている。
前作写真集「The Absence of Two」、最初に手作りされた私家版と後に制作・出版された青幻舎版が並び、同じ内容・テーマの写真集でも大きな違いがあることを確認でき、有意義で面白かった。
まず青幻舎版では、「祖母と大輝」の関係、暮らしぶり、互いの献身や困難について、巻末に長いテキストが掲載されており、どれだけ二人の絆が深かったのか、どれほど深く生活を共有していたのかが分かった。二人は決して仲睦まじいだけではなく、入院でモルヒネ投与されたのを期に在宅後の祖母が全介護状態となった上、薬を出せと大輝に迫る日々の状況など、単純な献身や支え合いでは説明の付けられない関係であったことを知った。私が覚えていないだけかもしれないが、従前の展示やトークなどでは、ここまで詳細に言及されていなかった気がする。
もう一つは、純粋に写真集としての面白さについてである。コンテンツの何を以って「面白い」とするかは世間でも常に議論されるところであるが、こと「写真」に関しては、初期衝動、勢い、予期できない何かの強度が「良さ」を決めるところがある。私家版写真集はまさにそれで、時系列的な構成で2人の暮らしを追った写真が続いていくが、「大輝」の失踪と自死、死別――真相が何も分からないまま森に消えて終わってしまった、その断絶に読み手も直面させられるところが、強い初期衝動としてインパクトを残す。これはたまらない。オチは重々分かっているのにみぞおちをノーガードで殴られるような衝撃が来る。
一般流通している青幻舎版では、そうしたストーリーがある程度もう知られていることを踏まえた上で逆から構成されていて、作りは上手いがかなりの安定感があるので意外性はない。ただ先述の通り、エモーショナルとドキュメンタリーとが同居したテキストによってしっかり引き込まれ、高齢者家族や介護の実態という観点でリアリティが強く、我が事として想像させられる。私家版とは別の角度から「来る」。
◆2階から下りてきて、再び1階へ
こうして2階で前作「祖母と大輝」の二人三脚の姿を振り返ってから1階に下りてきて、今作と展示空間を見渡すと、前作から今作で何がどう変わったのか――祖母の暮らしから去ってしまったはずの「大輝」の存在感について、改めて顧みることになる。喪失感や悲嘆ではなく、なぜか朧気ながらも「そこにいる」存在感が「ある」という、不思議なものだった。
祖母の目や耳には、死別したはずの「大輝」が立ち現れていた。物理的なことの是非はともかく、作者はその、祖母にとっての「事実」に向き合った。改めて作者のテキストを読むと意図が伝わる。文章は文章だけでは成立しないものだ。
その時の祖母が繰り返し知覚し、逢っていたであろう存在感を、フロア中央の白い幕は投影している。確かな輪郭と色彩を持たず、脳裏の奥の掴み所のない記憶の印象のような像が映っている。だがその不確かさこそ、独り残された後期高齢者の心身の状況や、私達が故人を想う時の、記憶の中で手繰り寄せては空振る感じなどを表していた。
実はこの幕、車道に面した壁が大きくガラス張りとなっているため、日中には光が射し込んで投影された像がほとんど見えない。私が鑑賞に来た16時過ぎの時点では日差しにかき消され、ほぼ真っ白の幕に過ぎなかった。しかし1時間経って帰り際には外が暗くなり、写真のように色濃く投影された像が浮かび上がっていた。
亡くなったはずの人が、こちらの世界にやってくる。
それだけではない。この幕を回り込むことで、鑑賞者は「向こう側」から見ることが可能である。つまり亡くなった人の側に立つ――祖母と「大輝」、現世に生きる者と亡くなった者との視座を切り替えて、双方向からヴィジョンを見ることができるのだ。
ベタな話で恐縮だが、咄嗟に新海誠監督の映画『君の名は』の「逢魔が時」、夜の手前の夕暮れに現世と異世界の境界が曖昧になって、向こう側の存在と遭遇する場面を想起してしまった。無論、本作が扱うのは魔物や魔界ではないが、本来居ないはず・出逢わないはずの存在が夕闇の到来によって色濃く立ち現れてくる様は、映画の名場面と強く重なった。結果、境界を意識させられた。生と死の境には、我々の理性や制度といったものが線として機能している。だが親子関係以上に深い間柄だった者については、生と死がどうある「べき」かという、理性や制度による事実の線引きも大いに揺らぎ、混濁し、「こちら」と「あちら」は区別がつかなくなることもありうるのだと実感した。
「写真家」から見つめる単一の視点から、被写体側の主観へ、更には被写体が見ていた対象の側にまでもぐるっと大回転させてそれらを織り込んでいるというのは、多視点併存の作品、視座の立面化した平面表現として非常に面白く感じた。
◆写真集の変遷
RPS(Reminders Photography Stronghold)の展示では毎度お馴染み、写真集制作のプロセスの提示である。写真をやっている人だけでなく、出版・編集やデザイン、文筆などに関わっている人など、幅広い層にとって面白いものだろう。本展示でもプロトタイプが完成案へと向かってゆく過程は興味深いものだった。
今年4月、作者が後藤由美代表に連絡をとって製作がスタートしたが、半年そこいらで修正・変更が重ねられ、何冊も作られていった。芯となる構成は共通しているが、見せ方が時期によって全く異なるのだ。
テキスト × 祖母の暮らしの写真で、「大輝」に先立たれたはずが、「大輝」の声や姿を幻知(幻を見たり聴いたり)してしまうところ描き出している。また、前作の写真を薄く配して過去との対比/重なりを表現している。そして、1Fフロア中央の幕に投影していた「祖母からの視点」をモノクロ写真の見開きで表現している。また全体的に、最初期には「写真」を主体として見せる発想で構成されており、焼きが濃いといった特徴がある。
こうした基本的な構成をほぼ継承しながら再編集が続けられていった。以下の写真は最終版である。
個々の写真を言葉としてよりも、写真・文字・余白などのページ構成全体を有機的な言語と見なし、サイズや濃淡や配置を変更していることが分かった。紙面を編集する視点からは当然の話かもしれないが、写真家が自分の写真集を作る時に、写真を小さくしたりページの隅に置いたり濃度を淡くしたりと、多くの点で「写真」の主張を抑える方向で調整を掛けるのは、理屈で分かっていてもなかなか難しいことである。写真のプリント具合を、トーンを、描画を、細部を見せようとするのが写真家のサガであろうが、それを抑えて冊子全体から語るようコントロールしたことに驚かされた。
その分、祖母が発した「声」、祖母に聴こえて見えていた「大輝」の存在感、生・死の境界線を跨いだところの視覚や像の揺らぎが表現されている。特に祖母にまつわる「声」については写真集のリソースを全振りする勢いで、客観的な作者の視座から祖母の主観世界へ、そして更に主格の不確かな世界へと、テキストと写真の配置・濃淡を駆使しながら視座を切り替えていく。本来は・理性では聞こえないはずの声、見えないはずの姿へと迫っていく視座転換がこの写真集の見どころである。
このように死と死別、孤独を真正面から扱いながら、多視点を取り込んだことで負のニュアンスではなく「生」が混在したビジョンとなっており、またそれがたとえ幻に過ぎなかったとしても、それはそれで幻を事実として肯定するという姿勢ゆえに、全体としてポジティヴな作品となっていた。それは前作で受けた喪失の衝撃と、真逆のものであった。
作家があるテーマを語り尽くしたかに見えても視点の転換によってまた新しいの領域に踏み込めるということ、写真集にはまだ様々な方法で新たな文体を体現できるということが分かり、非常に面白かった。
( ´ - ` ) 完。