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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】art trip vol.3 in number, new world /四海の数_2F・久門剛史、津田道子、中村裕太 @芦屋市立美術博物館

【ART】art trip vol.3 in number, new world /四海の数_2F・久門剛史、津田道子、中村裕太 @芦屋市立美術博物館

芦屋で「具体美術」と現代の作家の交錯に出逢う。次は2階へ。時間とか空間の話題が多い企画です。  

 

 

1Fは今井祝雄の時間と自己についての特集です。

www.hyperneko.com

 

さて2階はどうでしょうか。

 

下記、番号は前号から引き続き。 

 

<2F・第1展示室>

2.菅井汲、白髪一雄、村上三郎 × 津田道子 

不思議な空間だった。黒いフレームが多数、宙に浮いている。壁面には3名の前衛芸術家の絵画が並ぶが、フレーム群と直接関わってくるのは菅井汲の数学的な、図形めいた絵画だ。それらは宙に浮いた額と非常に相性がよく、共鳴している。

空間は真空状態で、作家の主張や主義、「表現」の訴えが薄い。作品の入っていない額だけが浮いているのは、料理屋に行ったら透明な皿だけ出てきたような謎かけがある。ここでの主体は「空間」そのもので、フレームによって単一の部屋としての空間から複数の平面へとスライスされ、連続や切断、重なり、反復に満ちている。

中身を持たない無のフレームは、ある一つの空間から一部を切り取って、絵画や写真に似た、仮想の平面を生み出すが、それが複数枚になると、空間は一気に複雑になり、仮想だらけになる。建築上は何も変更が加わっていないにも関わらず、空間が枝分かれしながらズレて動き続けるような体感を得る。

あるフレーム内を見ている眼をふっと上や横に動かした時に、その枠と枠の外側にある壁面や絵画や、第2、第3のフレームとが視覚内で連続して干渉し合う。どこがフレーミングされているか、何層の入れ子構造になるのか、入れ子から解放された部分がどうなるのか、絵画や写真なら揺るがないフレーム内が、四次元の立方体のように次々に移り変わる。

 

歩き回ってフレームに近付いたり覗き込んだり観察していると、色々と不思議なことが起こる。空気を透して向こう側がそのまま見えるフレームもあれば、透過されず別の像を映し続けているフレームもある。リアルタイムで別の角度から見た映像を流しているものもある。展示室に配置されたビデオカメラやプロジェクターによって、鑑賞者が見ているフレーム内の光景は、同じこの部屋の内部しか指示していないにも関わらず、総立体体感型キュビスムのように入り組んでいる。

 

これらのフレーム、ビデオカメラやプロジェクター等の装置全体が津田道子の作品《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう》(2016/2019)だ。展示室がすっかり多層構造と化してしまう上に、中にはタイトルの通り、時間そのものが操作されているフレームもある。1日前のこの場所で撮られた映像を投影されているものもあるのだ。これは他の観客が歩き回っている時に気付いた。会場内に居ないはずの人物が映り込んだのである。

 

会場は会場の像によって乱反射し、鑑賞者自身が複数、同時に、会場内のフレーム内のどこかに現われ、それは自分からは確認できない位置にあったり、予期せぬ横顔や後ろ姿だったりする。それは他の観客も同じで、思いもよらぬ所を歩いている人物の顔や高等部がこちらの目の前のフレーム内へ割り込んだりする。「第1展示室」という単数形だった空間と時間が、所属先はそのままに複数形になっている。同じホームページ内で自サイトへのリンクを張り巡らせている状態に近いが、Webと違って展示室は立体空間であるから、話は遥かに複雑だ。

 

自分の映像が、自分から離れたフレーム、手の届かないところで現れたり見切れたりし、自分には見えていない角度から捉えられた自分自身を遠目に見つつ、それが第2第3のフレームの介在によって切断され、あるいは表示レイヤーの裏側へ潜り込むとき、空間の複数化だけでなく、観客は「私」の唯一性、単一性もまた手放していることを実感するだろう。フレームの重なり合いはしばしば表示レイヤーの前後関係によって「私」を隠し、どこかへ連れ去ってしまう。仮想的ミニマルの神隠しに合いつつ、「私」の複数形に戸惑いながら、菅井汲の抽象表現が施すフレーミングの妙についても何か体で感じることが出来るだろう。

 

 

 面白かったのが、津田直子が独自に分析した、白髪一雄《捷行》(1989)や村上三郎《作品》におけるドローイングの「動きのスコア」だ。

 ( ´ -`) 絵の前で凝視してましたが寄せては返す波のうねりのようなパワーしか感じることが出来ず、動きの順序なんて思いも付かなかったわけです。白髪一雄はぶら下がって宙に浮きながら足を動かして絵の具をかき混ぜるように「描く」作家。足が「少しとぶ」って気付くのすごい。おもしろい。

 

 

3.長谷川三郎 × 中村裕

パーテーションで2室に分けられた奥側、壁面に巨大な、子供のような素朴な字で綴られた文章が掲げられている。

中村裕《かまぼこを抽象する》(2019)は、戦前の日本で前衛表現のパイオニアとして活躍していた作家・長谷川三郎を追い、再考するもので、特に長谷川が版木にかまぼこ板を使用していたという研究に着目している。

タイトルは長谷川が雑誌「芸術新潮」に寄稿した『桂離宮を抽象する』(1951年9月)から引用されているのだろう。壁面の巨大な文章の掲示も、その時掲載された長谷川の原稿である。文章の内容は、何気ない日常、朝起きて顔を洗って、ノミを子供から借りて、線を引いたり円を描いたりしているという話だ。文字の一つ一つは、長谷川の手書き原稿から筆跡を分析して作られたもので、薄い粘土から作られており、暖かみのある丸い字体が特徴的だ。

長谷川作の書「眼横鼻直」(1956頃)の由来のとおり(中国での修行から帰国した道元に皆がどうだったかを聞くと、眼は顔の横に、鼻は顔に対してまっすぐに付いている、といった、至極当たり前のことしか言わなかったという逸話)、作者は「前衛」を模索しながらもその生活、創作の姿勢としては、常日頃から当たり前のことを大事に生きていた。

そういった、先行作家の前衛的な抽象表現の成果を踏まえつつ、作家の言葉や姿勢をまた別の手法で抽象化し、造形作品とした=新たな命を得たことに、中村の取組みの面白さがあると感じた。

 

〈2F・第2展示室〉

4.田中敦子 × 久門剛史

入口の分厚いカーテンを押しのけて入ると、部屋は暗闇だった、が、引っ切り無しに音が鳴り響き、それとともに白く壁が明滅する。強風と雷鳴がビリビリ唸り続けているのだ。1階のホールにまで時折激しく雷鳴のような音が響いていたのは、この部屋から放たれていたのだった。

入口付近の台には電球が幾つも集まって、花のように組み合わさったオブジェがあり、やや長い部屋の奥の壁面には強く白い光の明滅と雷鳴が続いている。その明滅を叩き付けられている絵画は、田中敦子の描いた電気と有機のエネルギーが高密度に渦巻く《作品》(1963) だ。

向かって右手側の壁面は、突き当りの明滅の力が高ぶってくると、連動して真っ白に光を帯びる。この空間自体が自然の猛威と人工的なエネルギーの両方を抽象化して包含するような場となっており、久門剛史の作品《Artist》(2019)は、鳴り響くサウンド、とぐろを巻いている電気ケーブル、控えめにぼそぼそと光る電球の群れ、そして劇的でパワフルな照明など、この場を作り出す全ての装置のことだ。

 

風が暴力を秘めながらぶるぶると大気を震わせて、こちらへ迫ってくるようなサウンドと明滅は、登山で悪天候、雷雲の接近に見舞われた時の切り立った危機、恐怖を思い出させた。人間はしょせんは動物、法外なエネルギーの前には手も足も出ずただ怯え、うろたえるだけだ。しかし芸術作品は違う。危機的な事態の中でも動じない。田中敦子の電気的な回路の絵画は、理不尽な白と黒の明滅の中で、そのエネルギーを無限に受け流すように存在感を示している。動じない。球体と回路のうねりと原色に満ちたドローイングは肉体的だ。デジタルのデの字もなく、0でも1でもない。人間の内の何処かに備わった不条理なパワーなのかもしれない。自然を模したデジタルの科学と、肉体的な原初の科学とが対峙する。

その様子を離れて見ているのが、オブジェの電球たちだ。このオレンジの灯は囁くように小さい。会場の空間が絶えず闇と光と轟音に曝されている中、肩を寄せ合って岩陰に隠れている人間達を思わせた。だが、無数の電球の集合とぐるぐるうねる配線という組み合わせは、まさに田中敦子がカンバスに描いたイメージそのものだ。半世紀前の具体美術に、現代の作家が応答する。電球に象徴される近代を、現代の技術が照らし、その光の中で原初的な力が際立つ。面白い場だった。

 

 

全てではないですがざっとこのような。企画としてはもうシリーズ3回目、

みなさん空間の構成力とか企画の骨子がヤバいですね。

 

阪神南、関西には前衛の血が流れてるんやっっ! 常識を突破するんやっっ!! と、地元市町村などでは新人教育に前衛をぶち込んだらいいのになあと思いましたね。うそです。

 

( ´ - ` ) 完。