nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.3/9~22「New Generation Photography 2023 写真専攻 大学・専門学校選抜作品展」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

こういう展示を待っていた。一度で何校もおいしい。

東京と京都・大阪の美術・写真系の大学・専門学校、計10校から、各校1人ずつの作者を選抜した、東西10校・10名のグループ展である。一気に多数の学校の作品が観られるのは有難い。

【会期】R5.3/9~22

 

毎年2~3月は学校の卒展・修了展が目白押しだが、会期が短いのと、毎週土日を展示ラウンドに回せるかというと無理である。結局は都合の付く日時 × アクセスの良い会場 × 実力の高さや学校のカラー・作風で、鑑賞先を絞り込まざるを得ない。ちょうど様々な大学・専門学校の出展作を概観できる機会が欲しかったところだ。

各校1名ずつの選抜なので、これでただちに各校の特徴やトレンドが掴めるわけではないが、どういう作風、テーマ、展示方法を教育され推奨されているか、どういう生徒が評価されているかが分かる。

 

また、展示の企画も単なる学校間の交流展や勝負の場ではなく、「メンバー間でミーティングを重ねてDM制作、写真展会場構成、トークイベントを企画してまいりました。」とあるとおり、東京と大阪の2会場で協力・協働しながら実施された企画である。

いただいた情報によると、本企画はニコン側が立ち上げたもので、2021年から学生を対象とした個別の展示を行わないことにした代わりに、今回のような合同の展示プロジェクトが発足したとのこと。各学校の生徒が参画しているのが大きな特徴だ。

 

では、出展作について、私が考える4つのジャンルに大まかに分けて紹介したい。厳密なものではなく重なる部分もあるので、あくまでも目安である。

 

 

(1)日常の断片、イメージの断片、光景の断片

日常景のスナップ、何気ない暮らしの中から切り出した断片的なイメージ群。使える技術や機材、資金、行動範囲に大きな制限のかかる学生はまず日常に向き合い、日常を素材とするしかないので、多くの作品がこのジャンルに当たるが、特にその傾向の強いものを挙げてみた。

 

◆安孫子綾乃《あおいとり》_東京工芸大学

横10枚 × 縦7枚=計70枚の写真を等間隔にぎっしり貼り出している。細長い縦長フォーマットと非常に断片的なカットはこれらがスマホで撮られたことを物語っている。構造・中心やストーリーの前後左右を持たず、どの写真も1枚では完結せず、しかし全体でも完結しない、これまでもこれからもただひたすら無限に続いていくであろう「日常」と「スマホ」行為がある。

だが「写真作品」として成立するよう撮られ、選ばれ、構成されていることが分かる。どのカットも脈絡がないようで、繋がるようで、またバラされ、また別の形で繋がり合おうとするような、未分化の即興性がある。この生命力を極端に強めると田中ヒロのスナップになるのだろう。

一般人のスマホ内のアルバムは意外と退屈である。実は人は無作為に写真を撮ることが出来ない。ペットを愛でたり、旅行先や外食の記録など、写真の役割が偏るのだ。そして無作為な写真を撮ることができない。あるべき構図、被写体に偏るのだ。本作では意図的にか本能的にか分からないが、記録性と「写真」の行為性、具象と抽象、匿名性と不特定性といった役割の撹乱を行っている。それが作品としての面白さになっている。どの左右や上下で繋げて観てもわけがわからなくて面白い。

また、作者自身を取り巻く実生活が垣間見えるのも面白い。その世代の仲間、リアルタイムに「今」でしか得られないシーンがある。これはHIROMIXに代表されるセルフ写真の現在形だろう。誰も同じものは撮れない。外部から撮ると別の形になってしまう。内側からしか撮れない写真だ。

 

Instagramではこうして全体を一望したり、上下左右のカットとの繋がりを考えることは出来ない。紙出力・リアル展示ならではの力だと思う。

 

 

◆高木理子《Touch》_武蔵野美術大学

さきの安孫子綾乃《あおいとり》と同じく、ステートメントのない、イメージのみの作品である。撮影・展開方法は真逆で、通常のカメラで撮った写真を大きく伸ばし、6枚構成としている。

「日常」や「断片」と呼ぶべきか悩ましく、右上段と右下段のカットは明らかに非日常、異国である(エアーズロック?)。だが作者の日常・生活と別の物語と見なすには、実直で地に足の着いた写真に思われた。この2枚がどこまでも現実味を持っている。

他の写真で、雲以外の3枚は多重露光になっていて他のイメージと部分的に重なっている。が、それらはかなり不確かな像のため何のどういうシーンかははっきりと分からない。ホテルやショップの前に泊まった車なのか、食事の光景なのか、二階建て車両の窓なのか、それら全て含めてオーストラリアでの体験記なのか、旅行か留学か、全く無関係なのか。

 

フードを被って大地に立ち、エアーズロック(らしき場所)に対峙している後ろ姿が、未来と向き合う格別な意思を感じさせた。

 

 

(2)編集されたイメージの世界、虚実とともに

リアルか非現実か。写真は様々なやり方で操作・編集が可能なため、現実や外界を記録的に写すだけでなく、虚実の境界のグレーゾーン、両者が未分化に混ざり合った状態、あるいは虚実が入れ替わったり両方が編み込まれていたり、様々なところを表現し、世界として切り開いて展開することができる。そこから、不可思議な夢や物語を紡ぐこともできれば、写真とは何から出来ているか?何が出来るのか?というメタな視点に繋げることも可能である。そうした模索を伴う作品について。

 

◆杉原千晴《嘆ずる轍》_日本写真芸術専門学校

現在と過去の報道写真などを掛け合わせたフォトコラージュ作品で、スマートにうまく混ぜ合わされていて実に違和感がない。だが題材にされているのは剣呑な場面、「令和で起きた事象と類似した過去の事象に関する記録写真」のコラージュである。

とにかく暗い、ディストピアだ。新型コロナ禍(マスク姿の医療者、全身防護服の不気味な職員とロックダウン下の中国)、安倍元首相の銃撃事件、ロシアによるウクライナ侵攻、などが取り上げられている。重ね合わせられているのは一次大戦・二次大戦、戦後の頃の、凄惨かつ印象的な写真だ。歴史は繰り返すのか。

だが、どのパーツが今のものか昔のものかを選別することにあまり意味はなかった。モノクロであることが時代の差をあまり感じさせなかったことに加え、悲劇・非常事態のシーンは時代・社会のエアポケットのように、時代の流れから切り離された特異な様相を呈していた。日常に流れる「時代」を物語るのは人々のファッション:髪型や衣服であったり、街の装い:広告や商業施設の看板、電飾などであるが、災害時や非常事態の際にはそれらが覆い隠されたり破壊され、非日常のモードに取って代わられる。不穏で、恐怖と緊張感のあるモード。

これは報道写真のモードであるとも言えよう。私達が日常の中で見たり体験する悲劇や非常事態は、どんなに過酷な状況であっても、どこか確たる姿の捉えどころがないまま通過されてゆくばかりだが、報道写真にはそれらを結晶化して押しとどめる、印象的な、象徴的な形があるのだ。本作はその再結晶と再結合を試みている。

 

 

 

◆大森優江《Heterotopia》_京都芸術大学

あくまで現実のシーンをストレートに撮ったものであるため、前項の「日常・断片」の分類にするかを迷ったが、ステートメント「リアルとアンリアルの境界」にがっつり言及していたため、こちらに分類した。

街中に無数にあるガラスや鏡面に、光が干渉して現れる世界が舞台である。誰もが好んで撮るありふれたモチーフを掘り下げて追求していて、反射光・反射景の中へと潜り込み、ガラス面の反射と透過で重なり合う視界を拡張し、その虚構的な光の世界の内部を表そうとしている。多くの人は反射の表面的な美しさだけを掬い取るのだが、作者は反射面の中へ、反射する光の中へと分け入ってゆく。

聞き慣れないタイトルヘテロトピア」とはミシェル・フーコーの造語で「(実在しないユートピアとは異なり)現実に存在しながらも、日常とは大きく離れたところへ我々を連れ去る場所」の意味である。現実の・こちら側の世界と、虚構・物語的な世界とのどちらにも割り振れない、その狭間の次元を見ているのが本作である。被写体だけでなく作品のサイズや距離感など、配置によっても現実感をうまく消失させている。

 

ヘテロトピア」の事例としては、日常の「場」に反した場所:結婚などの儀式の場、犯罪者や精神病者を巡る排除・隔離の場、あるいはエンターテイメントの場などが挙げられるだろう。そこに写真によって光学的に開かれた「はざま」の世界をそれに加えようとする試みは非常に面白い。

 

 

 

◆徐森鐸《永夜》_東京総合写真専門学校

目に見える光学的な、物理的な「時間」ともう一つ別の、目には見えない領域の空間があるとして、写真を用いて複写し、その領域を呼び出そうと試みている。作者は目に見えざる、こちら側に存在しない存在を「ボイド」(=void)と呼ぶ。

ステートメントに書かれた「自分の家では毎年、亡くなった家族を家に招いて食事をし、誰も座らない席が用意されていた」という風習によって解釈がしやすくなる。現実の物理的な、光学的に感知・管理できる「時間」とは別に、文化的・精神的な見えない時間があるということだ。エピソードの通り、死者、霊魂や精霊にまつわる伝承・しきたりなどは後者の世界に属するだろう。

写真は目に見えるものしか写せない、というテーゼはあるのだが、本作は写真の複写と光源の活用によってその領域の断絶を乗り越えて表現を試みている。手法は不明だが、写真自体に穴を開けて後ろから光を当てたところを複写する、といった工夫が施されているのではないか。実際の光景・被写体にはない丸い光源が演出的に写真へ点々と写り込んでいる様は、佐藤時啓の作品を連想させられる。見えざる形なき「ボイド」の気配は宿されただろうか。

 

 

展示も面白かったが、実はポートフォリオも見応えがあり、同じ作品ながら写真の使い方がまた異なっていたのが興味深かった。ちょっとした見せ方の違いで受ける印象や想起させられる世界観がまた変わってゆくのが、写真の醍醐味だと思う。

 

更に過去作を辿ると、イメージを操作するだけでなく様々な取り組みをしていたことが分かった。人工的な手の入った「自然」景を撮影したり、傷付いた木に保護のためのラップを巻くという行為を表現として撮ったり、イメージ操作を推し進めて「庭」という人為的な「自然」を過剰に増殖させたり、画像編集にも実に意欲的に取り組んでいた。卒業後もこの調子で様々な手法から展開を拡げて、まだ見ぬ何かを映像化していってほしいと思う。

 

 

 

(3)モノクロームの光から

デジタル写真が当たり前になり、高解像度で多彩な色彩表現、フィルター補正による風味やニュアンスの選択肢が無限に広がっても、あえてモノクロ写真を選択する作家がいる。カラーでは出せない世界観をどのように活かし、表現意図・テーマとして用いているのかに注目だ。

 

◆馬躍《Unreal Flower》_東京ビジュアルアーツ専門学校

「私は日常の欠片を収集して、夢の断片を生産しています」

続く「自分が何も感じられなくて」「まるで人間が何も知られないままに生きているように」という言葉と「生産」の繰り返しとの関係からすると、ここで言う「夢」とは想像・創造行為の際に働いている「無意識」の領域のことだろうか。眠っている間に見る「夢」とは性質を異にするようだが。それとも意識も記憶もできない「夢」の間に、確かにあったであろう表現の「生産」に向かって、逆算で写真を投じているのだろうか。

 

川の中に留まる(残された?)植物の塊、白い菊の花、闇夜に打ち上がった花火、冷蔵ケースの中で半身がずり落ちて尾が垂れている魚、住宅地をバックに立つ葉の落ちた3本の木。この5枚の写真について直接的に意味や繋がり、印象、物語を語ることは困難であり、まさに「無意識」から生み出されたイメージを企図している。だがそれぞれの写真の内部では被写体と背景が合致していて、シュールレアリスムのように相反したり無関係なものではない。これは現実と日常なのか? だが現実の記録や日常の記憶とするには、切り立った崖のように穏やかではない。異邦人の世界に紛れ込んでしまうのか。それは何処へ繋がっているのか。

 

 

◆高田慎太郎《ひかりの波が滲む》_大阪芸術大学

縦9枚 × 横9枚=計81枚の、ハーフカメラで撮られた白黒フィルム写真が並ぶ。長崎に住む作者の祖父が亡くなってから2週間後、休みを取って訪れた2日間の情景がフィルム1本分で撮られている。ハーフカメラはその名の通り1枚分のフィルムを縦に2分割し、縦位置で半分のサイズの写真を撮る仕組みのため、倍の枚数を撮影できる。 

作者は祖父の存命中にも長崎を訪れては祖父母や家を撮影していたが、様態が変わってから死去するまでの間は一度も訪れなかった、そのことを「弱った祖父の姿を見るのが怖かったのかもしれない。実際に祖父が亡くなっても自分の気持ちは分からなかった。」と綴っている。

気持ち、死別、祖父のこと自体、様々なことが分からないという感情、感情の分からなさに対し、写真を通じて向き合っていきたいと語っている通り、本作では不透明な像、何も写っていないカットが散見される。ハーフカメラの巻き上げの調子が悪かったのか、シャッター・絞りの機構が傷んでいたのかも知れない。(個人的体験談でいうと、ハーフカメラは年代的にも古く、かつ簡素な作りなので、現存品は調子が良くないことが多い) この空白、空虚さ、不確かさは、作者の掴み所のない気持ちと状況をそのまま表している。

 

撮った写真からセレクトしない、失敗の写真も「失敗」と見なして除外しない、全てひっくるめてリアルタイムな状況の表現として提示する、という点が面白かった。ハーフカメラならではの脆弱性を表現力に活かし、作者の心情の揺らぎと結び付けた点も良かった。何度でも通用する手段ではないが、一回性の表現としてはアリだろう。

 

 

(4)ドキュメンタリー、現実・歴史に向き合う

学生がテーマを持って、訴求力のある作品を数年がかかりで制作し、社会に向けて発表する、となると太い選択肢として挙がるのが、これらのジャンルだろう。「現実」や「歴史」はあらゆる所にあり、特別な技術、生活、容姿、感性、コミュニティ等を一切必要としない。何なら人間が相手でなくてもよい。ストリートスナップで不特定多数の人間を撮ることが困難な時代においては、鉄板とも呼べるジャンルである。

だが該当する作品が10人中3人と意外にも?少なかったのは、全体のジャンルのバランスを見て作品(作家)の比率を調整していたのか、比率は結果論であって各学校で説得力のあった作品を選定するとこうなっただけなのかは、不明である。

 

◆横田航洋《凍て解け》_日本大学

聞き慣れない言葉だったが「凍て解け(いてどけ)」とは「凍っていた大地が春になって溶けて緩むこと」だそうだ。

本作は東日本大震災福島第一原子力発電所事故で大きな被害を受けた福島県双葉郡大熊町富岡町などを2021年夏から取材したものだ。事故当時に避難指示が出された各区域はその後すべて「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」のいずれかに見直された。

www.pref.fukushima.lg.jp

事故から10年以上が経過し、徐々に住民と暮らしが戻ってはきているが、未だに立ち入ることの出来ない場所があり、奪われたものは計り知れない。一度バラバラになったコミュニティ、切断された土地や歴史との繋がりは容易には戻らない。「復興」とは壊れた土地と歴史の上から生活を上書きしていくことなのだろうか。

写真に写る地元の人々に元気があるのが救いである。被災から10年以上が経つので、被災の記憶については忘却と順応を強いられてしまいそうな時期ではある。だが通常の震災と東日本大震災は規模と性質が大いに異なる。災害自体も、なおもそこを「地元」として生きる人がいること自体も、忘れてはならない。

 

 

◆吉田鐘一《記憶の片隅》_日本写真芸術専門学校

戦時中、国内の軍需工場では、外国人労働者、特に朝鮮人労働者が多く動員されていた。作者は全国の工場跡を巡り、遺構や面影を撮影するとともに、付近の住民に朝鮮人労働者のかつての暮らしについて話を聞き、その存在=歴史を何気ない風景に充填し直す。

 

展示されたのは9枚だがポートフォリオは37ページあり、取材先は20の道府県にも及ぶ。多くの場所は戦時遺構や廃墟に興味があれば見聞きしたことのあるスポットで(私などは完全に趣味の視点でよろこんでページをめくっていた)、圧倒的に炭鉱・鉱山跡が多い。工場、造船所、飛行場、地下豪などが続く。「丹賀砲台跡」や「長正炭鉱ピーヤ」「佐渡金山」、一部の鉱山跡のように、情報がオープンで現地ですぐ見られるものもあれば、大阪府多奈川工業 朝鮮人社宅跡」や沖縄県阿嘉島」戦場跡などは、戦時中の朝鮮人労働者の歴史を調べないと出てこない場所だろう。

写真に写された場所も、立ち入りの困難そうな廃鉱だけでなく、近所の公園や広場のような気安く立ち入れる場所もある。身近なところに「歴史」があることを知らしめる作品でもあった。

 

 

◆藤本美佑《母と利用者》_ビジュアルアーツ専門学校・大阪

タイトルの通り、9名の「利用者」の肖像写真と、そのキャラクターや生活背景を記したテキストとをセットにした作品である。

9名それぞれの住まいの場が写っていて、生活状況が書かれているところを見ると、作者の母親は訪問介護系のサービス事業所に勤める訪問看護師なのかも知れない。あるいは通所サービス:デイケアやデイサービスの利用者という線もなきにしもあらずだが、利用者③、④の写真では感染防止のゴーグルとマスク、ガウンを着用した職員(もしかしてこの方が作者の”母親”なのか?)が利用者の手前に写っているので、やはり在宅訪問と考えられる。

となるとやはり、福島あつし《弁当 is Ready》(写真集『ぼくは独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ』)との相違点が気になるところだ。被写体・撮影の前提で言えば、福島あつしは独居老人宅を、本作では様々な家庭状況がある。また、福島あつしは自身が弁当配達人・兼・安否確認役として現場に関与していたが、本作では作者はどうやら撮影役のみで、介護・看護として現場に関わるのは母親という形で分担されている。つかず離れずの距離感から、本来の介護・看護者の黒子となって、利用者の素顔や生活、生の声を引き出すことが出来れば、それは良いことだと思う。

どうしてもシリアスな話が多く、社会正義の目と声に寄っていくテーマではあるが、ステートメント「意味のわからないおもしろエピソード」と書いているように、様々な事情を抱えた高齢者らを、何か実生活からのユーモア(としか言いようのない世界観)の切り口からも表現できれば――無論、利用者/高齢者自体も含めて肯定的に捉えるユーモア、独特なコミュニケーション作品としての価値が生まれるだろうと思う。

 

( ´ - ` ) はい。案の定まとめるのにべらぼうな時間を費やしましたね。本当は1校あたり3~5人とか増やして、1人あたり展示スペースも増やして観てみたいものですが、ないものねだりですいません。そもそもそんなに数あったらレポ書けへんやろ? はい、そうですね。せやろ。はい。何の会話ですか。脳です。そんなわけで、面白かったです。

完。