【写真展】百々武「もう一つのものづくり」ーMOTTAINAI ARIGATAIー @キヤノンギャラリー大阪
H30.7/25(水)あつい。
もう完全にだめで、あついが、キヤノンギャラリー大阪に百々武「もう一つのものづくり」を観に行きました。
先日まちがえてニコンギャラリーに出向き「おいなんやねん百々ちゃんが無いぞ」「展示スケジュールちがうやないか」と立腹したりしました。間違いです。CanonとNikonを間違う写真家。これはだめです。人間終了。
あつい。だめです。終わっています。
これはだめだ。
気温38度前後が当たり前となっており、だめです。
世の中にはバスキアの絵を買ったりいかつい名字の女優と交際したりとすこぶる好調な人間と、暑さでだめになり、道端で死んでいるクマゼミに自己を投影する程度のだめ人間とに分かれます。これを格差と呼びますが、これが固定されると階級といいます。残念です。
この世は残酷で、輝かしいスター、時代の寵児、社会に必要とされる人材といった存在が無数にいて、組織においても実質的には上位3割が回していると言います。しかし。それらの存在も、いつかは終わりがきます。どれだけ生産性が高く、どれだけ有用で、どれだけ人気者でも、終わるときが必ず来ます。たまに、森元首相とかみのもんたとか日大アメフトの幹部みたいにいつまでも温存されるケースもありますが、本来は、故障、老朽化、時代のニーズとのアンマッチ等々によって、葬られるのが必定であります。
そして「終わった」後のことについては、誰の眼にも触れることがありません。「あいつ終わった」「もう消えたな」「交換の時期や」と、垢を落とすように厄介払い、新陳代謝の一環で、ゴミとして処分され。代わりに新たなスターや人材が即座に補充され、民は満足し、円は閉じます。めでたしめでたし。しかし、さて、その円環の外側は、どうなっているのでしょうか。
百々氏の写真は、まさにその外側に存在する、もう一つの円環を写し出したものでした。被写体は人間ではなく、廃材ですが、私(都市)からすれば機械も人間もあまり違いはないです。ますますだめ。
古代遺跡と呼ぶには近未来的な情景です。未来の遺跡、という言葉が思い浮かびました。これらはお役御免となった都市生活の全てが、再資源化されるために圧縮されて山積みになっている光景です。
百々氏が取材したリサイクル会社「平林金属」(通称HIRAKIN)では、まさに本展示のサブタイトル「MOTTAINAI ARIGATAI」(もったいない・ありがたい)を標語とし、リサイクル工場を営んでいます。
その「再生」の守備範囲たるや、我々・都市生活者が暮らす上で関わるほぼ全ての分野(家電製品、業務用機器、インフラ、乗り物、工場、建物等)に亘っています。驚異的です。
広い。
これら都市化された生活の新陳代謝ほぼすべてを支えている、まさに自然界でいうとこのろの分解者の役割です。
廃材が敷地内へと運び込まれ、集められて山のようになり、整理され、資源へと生まれ変わる。その工程の一部が、作品として大伸ばしのプリントで提示されます。
作者が「factoryではなくfarm」と会場にテキストを掲げている通り、これらの極めてメカニカル工場の景観は、豊かな作物を実らせる「農場」として、前向きさをもって写し出されています。 どの写真も優しく、おおらかです。
会場を入って両脇の壁に、集められた廃材が砕かれ、積まれ、圧縮される「工程」と、あるいはそれらの工程をこなすクレーンや車などの「現場」が提示されます。一番奥の暗い壁には、元素記号表のような格子の中に、個々のマテリアルが暗闇に浮かんでおり、資源の種として輝きを放っています。
廃材、工場、剥き出しの素材、テクスチャー感。これらは写真をやる者にとって極めて重大で、かつ美しい、宝石の類いです。大概嬉々と発狂してフォトジェニックな美に走るものです。百々氏はそのような「美」に走らない。この場を「農場」として読み変えて臨んでいるからです。撮影者の精神性というのは大事だなあと実感します。
都市文化の不要物が生まれ変わる場としてのドキュメントでありつつ、作者は現場の作業環境のきめ細かさにも驚嘆し、敬意を払い、眼差しを向けています。
現場は釘一本残さぬよう箒がかけられ、再生率100%を目指して日々の操業が繰り返されます。企業・工場としての合理的さからかけ離れた丹念な仕事を、百々氏は「職人」の域にあると見い出します。
すなわちこれらの作品は、都市生活インフラの行き着く先を見せてくれるとともに、舞台裏で、日本の産業の品質と信頼を担保している現場があること語っています。普段は見えません。見えないが、他国に真似のできない、高度な技術改良と繊細な品質管理を実践している。そんなことを改めて顧みる場を与えてくれます。この国を支えているのは誰だったのか、という話です。
会場に写真集もあり、見ましたが、ともすればインダストリアルな工場景――硬質でかっこいいけど一本調子でしんどくなる、ということを回避し、読み進めていけるよう、解説文が随所に織り込まれていて、良かったです。
父親の百々俊二、兄の百々新についてはまた別の機会に。
( ╹◡╹)
再生のサイクル。社会的にかしこくなった気がしましたが、表に出たら、また生きるしかばねに戻りました。あつい。再生しねえ。ガーーッ。自動ドア。が開く。ゴーーッ。自動ドア。が閉じた。あつい。お風呂に入るような外気。ヒッグスの野郎め。ぬるぬると粘り着きます。重い。私再生せず。ヒッグスの野郎め!
駅の地下ホームにせみがおり、「ほう、最近のせみはかしこくなったものだ」「腹にICOCAでも詰めているのだろう」と感心しました。夏は続く。