写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】カメラを止めるな!(監督:上田慎一郎)@シネリーブル梅田

【映画】カメラを止めるな!(監督:上田慎一郎@シネリーブル梅田

 H30.8/12(日)おぼん。

 

 

ゾンビ映画? かどうかはおいておいて、とにかく今、話題すぎて、「これは、黙っておれませんな」と急遽行ってきました。

 

 

※筆者はふだんわけのわからん写真の話ばかりしていますが、わりとけっこう映画好きです。

 

 

実は、8/11(土)に観に行こうと金券ショップで仕込みまでしていましたが、土曜の当日にWebを見ると「満席」の表示。夜まで。あかん。何という人気でしょうか。これはだめです。

それで8/12(日)へ予定を急遽振り替え、その場でWeb予約をかけた次第です。

1800円は痛い。会員になってしまおうかという誘惑にかられます。 

 

( ´ - ` ) うわあ。8/12(日)も満席。これはすごい。

みんなシネリーブル梅田なんて普段行きますか? 行かないでしょう。スカイビルの3階にあるんですよ。座席キャパが少々小さいことも影響してますが、こうも満席となるのは珍しい。

 

観ました。

 

 

(  >_<) くっそおもしろかった。

 

 

これは話題になるですわ。

 

ならんはずがない。

バズる。

言いたくなる。

そう、言いたくなる映画。「お前らゾンビ映画苦手とかインデペンデント系ちょっとなーとか言ってないでいっぺん見てこい!」と言いたくなる。人に勧めたくなる映画。

内に秘めて肥やしにするアレではない。醸す系ではなく「来た」「見た」「知った」の「体験」を、他の人にもシェアしたくなる感じです。

 

 

理由を3つ挙げる。

 

①誰もが楽しめる

終了後、別にスタッフの挨拶があるわけでもないのに、館内に拍手が起こった。マジか!? 『シン・ゴジラ』や『君の名は』のような超話題作でもそのようなことはなかった。途中からの展開、まさに転回以降は、会場が非常に盛り上がり、笑い声が止まなかった。もはや条件反射に近い。どうなってるんだ。

それは、以下に述べるような観客への「負荷」があるため、誰もが初見では平等に、条件反射的に、面白みの快楽刺激を大いに刺激されることになる。

なので誰が行っても一定楽しいし面白いことがほぼ鉄板です。その意味では三谷幸喜の構造の巧みさに似ている。老若男女が安全に汗をかいて楽しめるアスレチック施設というか。 

 

②「分かった」のスッキリ感

この映画はサブタイトル的な警句で『最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。』とあり、何となく分かるような分からないような気がするが、まさにそのとおりなので、席を立ってはいけません。

 

私は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような不安定・低予算・真相は謎のまま、といった不安定のカメラワークが苦手で、うわこれ、そういう系もしかして? と、途中しんどくなり、視点が定まらなくて酔うので、これは身体がもたないかなと思ったが、ちょうどよいところで「二度」目の始まりが現れました。よかった。

なので、席を立ってはいけません。

(視界の揺れや、妙な段取りで女優が叫び続けるので、視聴覚がダメージを受けて、席を立ちそうになった…)

 

前半はこのように、観客全員が等しく負荷をかけ続けられる。しかも館内・作品から逃れられないため、映画の中と状況がシンクロした状態に陥る。

シンクロとは、この「負荷」は恐怖というより、映像のカットの不安定さ、妙な間、台詞など、映画としての成立要件自体への違和感、つまり作品そもそもへの理解不能さから大いに生じる。作品内では、登場人物らは「逆の意味」で理不尽な展開の中、ひどい尺とカメラワークの間をサバイブしていく。

この負荷のカタルシスが後に、極めて丁寧に、拘束具の金具を一本ずつ外すような丁寧さで解かれていく。「逆の意味」での理不尽さとは、一枚の絵として与えられていたと思われたパズルが、本当は立体の図面だったのものが、色々な「理不尽さ」によって砕かれたり繋ぎ合わさったりしてそうなったということであり、その解き明かしの作業工程が、丁寧かつスピーディなため、たまらなく痛快なのです。

 

③「真実」への欲求

私たちは、提供される物語や情報を、作り手・送り手の要望通りに受け取って満たされることを、必ずしも好むわけではない。むしろ不安や疑いがあり、何らかのプロセスで、自らが選び、自らが理解して判断した、という主権的なプロセスを好む。

ただしそれは理性的判断や科学的考証を踏まえるということではない。物語や情報の「真実」や「過程」、そういった構造に触れることを求めている。飢えていると言ってもよい。ここで言う「真実」とは科学的な正しさを求めない。何せ我々は、Twitterのような発信ツールこそが「メディア」=真実であるという感性の時代の申し子である。

つまり「真実」を主権的に判断したという気分、「やった感」が欲しいのだ。裏側、脇、背後から漏れ出た情報、筋書きにない生の呟きを欲するのだ。かりそめにでも、自身の眼で「真実」を再発見したいという欲求を潜在的に抱えている。

この映画は、それを極めてうまく突いている。観客は全ての真実をつぶさに、自分の眼で再発見することになる。我々は主権を維持しつつ、全てを知ることができるのだ。この快感は耐え難いものがある。

 

もう一つ言うなら、その快感を産み出す源泉となる「真実」を巡る構造は、まさに今作が示しているように「多視点」の賜物である。

映像撮影の技術・機材の進化により、誰もがどの立ち位置からでも映像を撮り、発信することができるようになった今、その立ち位置は無限に細分化されたと言えよう。それだけの数の「真実」があり、ある危機的状況に関する観測の視座もまた、1点では語れないのが現在という時代である。

本作ではその多視点を活用して、「ゾンビ映画」という誰もが簡単に粗筋の分かるベタな古典的テンプレートを用いて、登場人物らの「逆の」活劇を追った。この発想は、動画メディアの小型化、ウェアラブル化、そして同時多方向の発信メディアなくしては生まれなかった世界観であろう。

エンドロールでは、観客が「全てを知った」視点すらも、「そのように」構築され準備された構造の一部であることが、別のカメラワークから示唆される。この視座の分散した状況――多視点こそ、現代としてしっくりくる文体である。

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鑑賞者に求められることはただ一つ、この映画について語り過ぎないことである。逆に視点の構造をみっちり語れれば、それはたいへんよいと思う。ただ今の時点では、ストーリーの枠組み自体については触れるべきではないと思ったため、ぼかしたような書き方にしました。(それでもネタバレやんけと言われたらすいません)

 

上田監督はその点を次回作では超えてくるのではないかと思う。ネタ・オチを一言で語ることが難しい構造へと昇華させる、あるいは荒筋はネタバレしてなお、ディテールの無数の落とし込みが鍵となった巨大な密室装置として、作品自体の面白みを減じないものとなるのではないか。

 

 

 

いやもう、面白かった。笑えました。ぎゃはは。

 

 ( ´ - ` )ノ