写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/トークショー】2019. 3/23(土) 野村恵子「山霊の庭 Otari - Pristine Peaks」@Kanzan Gallery

【写真展/トークショー】野村恵子「山霊の庭 Otari - Pristine Peaks」@Kanzan Gallery

2019. 3/23(土) 

作者は信州・長野県小谷村(おたりむら)にて2015年から約4年間をかけて撮影に取り組んだ。水、風、土、火の属性を宿した地で、人と自然に向き合い、写真集《山霊の庭 Otari - Pristine Peaks》(2018)にその成果が込められ、2019年・林忠彦賞を受賞した。今後、展示は更に展開していく。 

 

--------------------------------------------------------
【会期】2019.3/16(土)~4/14(日)

【時間】12:00~19:30(日曜17時まで、月曜祝日)
--------------------------------------------------------

 

以下、展示とトークの感想などを交えて記録。

 

展示は、壁面での展開に加えて、プロジェクターでの映像と、背の高い直方体の台に写真が載せられ、限られた空間を立体的に使っていた。壁面には、額装された作品と、直貼りの大きなプリントとが使い分けられている。人間の側の暮らしや生命感と、自然界との接点、山との関わりが、アクセントを付けて語られている。

 

生命は循環する。山の生き物の命は狩猟によって、人間の側へと引き渡される。人間はその血肉を得て、暮らしを営み、生命を育む。それらが四季の巡りの中で連綿と繰り返される。

 

見るからに、山深い村落である。

 

自然と共に生きる、などと言うと美しすぎるかもしれない。自然は優しくない。人智が及ぶものではない。これまでも、これからも、冬の雪と寒さは過酷だろうと察する。

長い歴史の中で、山は自然界の象徴的存在として神聖視され、畏れられ、また、恵みを与えてくれるものとして、頼りにされてきた。火祭りで崇められ、人間は豊穣や安全の祈願を行う。火祭りは、神( ≒ 自然)と人とが折り合いをうまく付けられるよう編み出された、コミュニケーションの場であったのかもしれない。今も、観光の重要なコンテンツ一つとして小谷の「大網火祭り」は機能している。

 

本作では火のビジュアルはとても大事にされている。奈良での展示(入江泰吉記念奈良市写真美術館)でもそうだったが、火の持つ生命力や、神秘性、美しさへの想いが、1枚のカットに力強く込められている。火を中心にして、人々の暮らしのカット、マタギの撃ち取った獣のカットなどが構成されているようだった。深く厳しい山間の冬では、火は生命そのものである。

作者は現地に滞在しただけでなく、地元のマタギに付いて山にも入っていた。それゆえ、「火」というものの存在について、その重要性をより深く認識しているのだと思った。私自身も、登山の経験の中で、火はただ在るだけでありがたいと感じたことが何度もあった。 

 

生命性。 

 

作者は90年代後半の写真家デビューからずっと、生命力、特に、女性の生きる姿に熱い眼差しを注いできた。

デビュー作・写真集《DEEP SOUTH》(1999)では、1997-99年にかけて、沖縄の土地、そこに生きる若い世代、特に女性を撮った。「こんな子たちが沖縄にいたの!?」と、そのこと自体が驚かれたという。当時、沖縄の写真については、男性による眼――政治的な眼差しの系譜が主だったらしい。

 

作者はその後も「南」の熱い生命力、女性の力を求めつつ、「とっちらかってしまって」なかなかまとめることが出来ず、形にするのに6年を要した。写真集《Bloody Moon》(2006)である。沖縄を中心とし、ハワイや南インド、東京や福井などでも撮られている。

写真集《Red Water》(2009)では、女性、生命力、エネルギー、血といったもの――「水」の循環をビジュアル化したという。体内に巡る血、自然界が孕む水脈について語られた。《Soul Blue》(2012)では、青が力強く前に出てくる。両親を亡くし、写真家として新たなステージを迎えた頃の作品である。ここから、撮り方が変わっていった、人との関係性への着目が増えたという。

  

空気感、土地性、水、ときたら、4大元素で言うところの最後は「火」である。作家は火祭りを探した。また、水を生む源泉である「山」を求めた。これらを満たす土地として信州が選ばれた。

 

野村氏の言葉で最も印象に残ったのが、自分は女性性・男性性は意識していない、という一言だった。

聴き手のキュレーター・菊池樹子氏が冒頭から、野村氏の写真世界を評するのに「女性性」という言葉を多用していたことを受けての返答だったと思う。野村氏は「女性だから撮れるというのはある」と続け、被写体との共感性を語った。プロフェッショナルとしての両者の立ち位置が言葉にしっかりと現れた、素敵なディベートの瞬間だった。(言葉はそうでないと光を帯びない)

妊婦、カラスアゲハ、眼に仄かな光を宿した女性のカットが、印象に残る。これまでの作品のような、燃えるような熱の形の主張はないが、逆に静かに、声なき声で語ってくる。 

作者が試み続けてきたのは、自己表現ではない。作品を観る人のものになるよう、何かの普遍性のようなものを帯びることだと語った。過去の作品では、情念やスピリチュアルと評されたこともあったが、そうではないという。この世は生ある限り死んでゆく。その事実に向き合い、”今”を撮るということに作家は注力している。死があるがゆえの生。それは究極の心象光景かもしれない。

 

会場の空間は、色々と工夫、仕掛けが凝らされていると察したが、野村作品が秘めている生命力の強さや、あるいは山の奥深さ、炎の頼もしさと神秘などが、表されそうになりながらも、流れていってしまったように感じた。細かい手数が多かった分、作品の中に入り込めなかった感があった。

今後、全国で続いていくであろう展示で、山霊がまたどんな姿で現れるのかを楽しみにしている。

 

( ´ - ` ) 完。