【写真展】池本喜巳「ジェームスの島 ROTA」@BLOOM GALLERY
池本氏の展示が大阪・十三で行われているので、気になって仕事帰りに立ち寄りました。まさに遊び心。素敵な「遊び」でした。
【会期】2019.9/18~10/19
池本氏の作品にお会いするのは、1年ちょっとぶりです。
池本喜巳(Yoshimi Ikemoto)という写真家は、あまりメジャーに知られた存在ではないが、それには世代的、地域的な要因もあるかも知れない。池本氏は地元の鳥取を活動拠点としており、そのキャリアと作品もまた、山陰に深く根差したものであった。1977年より植田正治のアシスタントを約20年に亘って務め上げた経歴を持つことで知られるが、自身のライフワークとしても、山陰の風景や、時代の流れの中で失われゆく個人の「店」と店主らを粘り強く撮影してきた。また、写真文化の発信、交流の場を地元に導入すべく、クラウドファンディングで資金を募り、2016年より「池本喜巳 小さな写真館」を鳥取市内にて開設・運営している。
池本氏の最大の特徴は、ガチンコで被写体に向き合う古風なまでのポートレイト、風景写真に正面からに取り組み、その一方では、「写真」の古風なお約束に囚われず、こちらの鑑賞の仕方を揺さぶるような、自由度の高い写真表現を新たに模索していることにある。前回の鳥取訪問時にはそのことを「小さな写真館」や「TREES COFFEE COMPANY(ツリーズコーヒーカンパニー)マミー店」において、氏の作品と出会う中で知ることとなった。
「ジェームスの島 ROTA」は、1986年頃から友人と遊びに行くようになったロタ島のさりげない光景を捉えた作品群で、約7年間に亘って撮影し、1993年にはニコンサロン銀座と大阪で個展が催された。本展示はその内容から再セレクトを行ったものである。
撮影には、旅の出発前に大阪で衝動的に買ったステレオカメラ「REVERE STEREO 33」が用いられている。
『すべてがテキトウなのがよい。すっかり気に入って、それから毎年、全く自由に遊び感覚で、海パンと、ビーチ草履と、STEREO33で島を歩き、シャッターを切った。』
この文章を読むだけでも、作者が島時間を楽しみながら、軽々とシャッターを切っている姿が目に浮かんでくる。いいなあ。タイトルの「ジェームス」というのは島の青年の名前で、滞在中はかなり親交を深めていたようだ。『男ばかり8人兄弟の長男である彼は、将来は絶対村長になるとちょっと照れながら話す。』ジェームスはその後、村長になれたのだろうか。
ちなみに「ROTA島」が何処なのかと言うと、北マリアナ諸島、まあグアムのご近所で、観光的な島です。
うへー。孤島じゃないすか。でもグアムまで伊丹空港から3時間半で行けるっぽい。近いのか遠いのかよく分かりません。
ロタ島。ほうほう。面積85.38㎢らしいです。近いのが大阪府和泉市(84.98㎢)ですね。イメージしづらいね。尼崎市(50.72㎢)に芦屋市(18.47㎢)と伊丹市(25.0㎢)を足し合わせて少し引いたぐらいです。イメージしづらいね。空港もあります。
それで、自然が豊かで、海も綺麗で、なのでダイビングが良い感じらしい。そら、そうやねえ。まあ、もはや潜らなくても、酒飲んでひっくり返ってるだけで幸せな気がしますね。旅の経験則から、この島はどうもそういう楽園的なにおいがします。いいですね。楽園したいですね。
まさしく池本氏は楽園体験なさっていたようで、写真はどれも穏やかで、島での悠久の一時を楽しんでる感じしかしない。しかし一目見て分かる通り、その形態はかなり特徴的な作品となっている。1枚のプリントで完成形を作りクオリティを追うのではなく、コンタクトプリントの余白と傾き、連続する映像の動きの軽妙さが意表を突く。
池本氏の過去の代表作である《そでふれあうも》や《近世店屋考》からは想像できない軽妙さである。「小さな写真館」で実験精神溢れる作品を見せてもらった身としては、池本節だなあと得心するところでありますが、同一人物とは思えない多彩な振れ幅を持っている。荒木経惟はカメラが変わると写真が変わるんだよと言っていたが、まさにそういうカメラの身体性の違いを思いっきり押し出した結果なのだろうか。
ネガ四隅のシール、書き込まれた文字の具合、コンタクトの傾き具合、プリント四隅の傾かせ具合(作品によってわざと印画紙全体を傾けて露光させるような工夫をしている)、全てが絶妙なバランス感覚で成り立っている。結果、安定感とともに卓越した軽妙さに結びついている。そしてどのカットも重要であるかのように、4カットずつ繋げて提示され、島の時間は動きの中で生きている。
写真表現が本来、ある瞬間を停止し、一枚の絵として作品化する(=特権化へ向かう)ところ、そうではなくプリントや額装などがうまくズラされることで、写真の像を取り巻く全体が総動員されて「動き」が生まれる。
加えて、ステレオカメラの特性がその中に不思議さをもたらす。2~3コマ後にまた同じ映像のカットが登場するのだ。調べてみるとステレオカメラというものは、1本のフィルムで左右の2眼で同時に撮影するため、同じネガ上に同じ写真が何コマかおきに2枚ずつ現れることになるらしい。その2枚は当然、左右で微妙なズレがあるため、鑑賞時には人間の目で見るのと同じように、専用のビューワーなどで左右同時に見ることで、立体的な映像を楽しむことができる。
ところが池本作品では、ステレオカメラ固有の特徴である立体性の再現を捨て、代わりにコンタクトシートの形で並置することにより、時の流れが即座にジャンプし反復するような構造をとる。それは短編映画の趣を醸しつつ、映画ではあり得ない構造を孕む。映画は数コマごとに時間が戻ったりはしない。それにスクリーンに像を傾けて放映することもない。ネガのコンタクトを4枚ずつの固まりで展示することで、瞬間の特権性、「美」の唯一性から解放された島での時間は、それぞれに等価なものとして漂うことになる。それらを傾けたり手書きで文字を添えることで、写真は写真らしからぬ動き、新たな身体性を獲得する。
それは映画である、と言いたいが、その実本作は映画のようで映画ではなく、されども写真的でも、ましてや彫刻でもない。いわば新しい写真表現の手法を模索している。ロバート・フランクが精力的にネガやコンタクトに文字を添えたり色を塗ったりし、映画でも写真作品でもない映像制作に取り組んでいたのと似ている。池本氏の場合は、空間に彫刻作品を置くがごとき、更に繊細な仕事となっている。
島での自由で開放的なひと時を、そのまま伝えるような温暖なスナップ写真であるが、その提示方法は遊び心と実験精神に溢れている。遊戯によって姿を変え、動きを伴い、「作品」としての「完成」を回避しているのかもしれないと感じた。それはすなわち、評価の権威付けから免れる試みでもあろう。
こうした作品のあり方の向かう先として、氏が近年取り組んでいる、無数の写真の断片が透明のケースに封入されているという「写真作品」(ケースを持ち動かす度に、鑑賞者に面する写真パーツはシャッフルされたりズレたりして入れ変わり、一期一会であるとともに、全ての写真を完全な姿で見られることは絶対にない。)などへ辿り着くことになるのだろう。「完成」のない、瞬間の特権から自由となった「写真」の可能性を試す行為へと向かってゆくのである。
これらの作品は、鑑賞する者と個別的な関係を取り結ぶ。池本氏の信念に、権威に依らぬ表現と鑑賞の在り方、「写真」との対話、「写真」の可能性への尽きぬ問いかけがあるように思われた。それを総称すると「遊び」という言葉が一番しっくりくる気がした。
( ´ - ` ) 完。