nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+2019】「Beyond the Portrait」(佐野光子、高津吉則、イイダユキ、二川美知枝)@ギャラリー富小路

「KG+」4人展「Beyond the Portrait」(佐野光子、高津吉則、イイダユキ、二川美知枝)である。

SNSやインスタに溢れるポートレイト写真。その意味を問い、「ポートレイト」の可能性を探る展示が催された。

時間】11:00~18:00

【会期】2019.4/11(木)~4/28(日)(月、火、水)

 

 

 

本展示は4名のグループ展で、それぞれの観点とスタイルから「人物」を「写真に表す」こと(=ポートレイト)を通じ、人物のイメージのあり方を再考する。

参加した作家4名は「フォトジェニックさから距離を置いて、人物を独自の観点から撮る」という大きな方針は共有している。ポイントは、SNS等で流通するポートレイト写真( ≒ キレイ・カワイイ・ボケは正義)に対する、写真史・美術史を踏まえた作家側からの疑義、別の可能性の提示(=キレイ、カワイイの正義に対する批評性、機材スペック信仰の排除)であるということだ。

そして4者とも、テーマとする被写体のあり方とその語り方は全く異なっている。それぞれの立ち位置を整理してみよう。 

 

<4名のポートレイトの区分>

・横軸:写真としての「文体」の演技性 (非演技=ドキュメンタリー / 演技=虚構)

・縦軸:被写体の装いの演技性 (非演技=すっぴん / 演技=変装、変身)

ざっくりと以上のような作家性のセグメントが考えられる。

以下、各作家を見てみよう。

 

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◆佐野光子「EXTICA」

文体、被写体どちらの演技性も高い。変装しているのは作家自身、セルフポートレイト作品である。モデルは彫刻化していて、言われないとそれが作者だと気付かないかも知れない。

観客側の関心はモデル本人よりもむしろ、1枚ずつの人物が帯びているイメージの奇妙さの方で、冗談のような「特徴」がモデルに貼り付いていることが気に掛かるだろう。

 

中央に並ぶ2枚のカットを見たとき、それがどうやら「日本人」だと気付く。誇張と誤解という2つのズレが際どく尖った、我々(日本人)とは似ても似つかない「日本人」だ。他の写真もそれぞれの人種、国民を相手の実情お構いなしに画にしたものだ。誇張の違和感を、落ち着いた額装とモノクロの手焼きが手懐けていて、事実関係としての正誤はひどく間違っているのに、全体のニュアンスとしては「そういうもの」として成り立っている。すなわちステレオタイプだ。

 

佐野は人種、民族、国民にまつわるステレオタイプなイメージが、誤謬を大いに孕んだ記号として流通し、消費され、そして増殖・拡散を止められないことを指摘する。

着想の元となった、歴史的なステレオタイプを示す風刺画やイラストが何点か提示されている。代表的なのが、黒人のステレオタイプを語る1909年の絵葉書(I'm so happy!)で、女児がスイカを満足げに、大量に食べている。アメリカの奴隷制の時代、黒人労働者には休息とスイカを与えておけば喜ぶという俗説から、黒人はスイカに尋常でない食欲を示すという偏見が根付いたという。この偏見は今も根強いようだ。

 

ステレオタイプは、イメージの誤認に留まらず、しばしば差別意識と結び付く。自分達よりも文化的に下位で野蛮だ、能力的に劣っているという言外のメッセージが付きまとう。そうした上から下の目線が、映像やイラスト、デザインなどに織り込まれて、大きな騒動になる。作者と話していて、2018年冬からトップブランドの広告・製品におけるアジアや黒人に対する差別的表現が立て続けに問題となったことが話題に挙がった。それらにはもはや特段の差別意識は無かったのかも知れない。ステレオタイプがデザインやイメージの一つとして流通してしまっていることを示した出来事だったのだろうか(それはそれでより厄介な話だ)。 

佐野作品では、ステレオタイプを身に纏いつつ、滑稽さのセンスによって上下の目線を水平化する。

現実の人間を誇張し「無」理解する態度がステレオタイプならば、佐野はステレオタイプの文法自体を再度脚色する。出っ歯で眼鏡で記念写真マニアのサラリーマン、かんざし代わりに箸を頭に挿したありえないゲイシャ。本作は諧謔の力で、偏見の力を中和する。言わば風刺画が自分で自分「たち」を風刺する、メタ風刺画だ。

「私のような人間が、どこに居ますか?」

 

 

◆イイダユキ「fig」

モデルの身体は素の人間に近い。ただしあり得ないポーズを取っていて、写真の文体は虚構性が高い。モデルは路上で綺麗すぎるぐらい丸く転がり、こちらに尻と脚のフォルムを見せる。モデルの素性、個人はなく、佐野作品とはまた異なる形で記号化している。

イイダの指摘する記号論は「カワイイ」の消費に関するものだ。モデルらの華やかな衣服と転びの丸み、スカートの膜と脚は、花のイメージを形作る。

 

本作も、佐野作品と少し異なる意味合いでの「滑稽さ」が味わいの世界観だ。

作品はコミカルな面白さが立っていて、トーンも花(となったモデルの)色が生きるように整えられている。ある個人が固有名詞や社会的責任を伴う立ち位置から転げ落ちて、演技により一瞬、自由な存在になったかのような軽やかさ、面白さがある。

その転びは、SNS写真上の「正しさ」――キレイ・カワイイの格付けと消費の連鎖からも抜け出て、得体の知れない、誰もまだ格付けのしようのない領域を生じさせる。ルールから脱線してみせる、まさに「遊び」の力を感じる。私は何故か浮世絵のフラットなおかしみを連想した。コンテンポラリーな世相を、なまずだの急須だの、丸くて可愛いものへ転化していく感性である。

日常景に転がり落ちた尻と脚は、決して誇張されず、しかし無視もされず、都市の一部として咲いている。

 

本作を性の視点から見た時には、女性という存在が顔や内面を問われない、性的な記号であることを求められ続けていることを語っているように見える。SNS時代になって、性や美の価値観は新しくは、ならなかったのではないか。SNS上では、写真はキレイ・カワイイを最大限「盛って」、性差の記号論を高めた、人気取りの戦いが繰り広げられている。イイダ作品は無表情にその滑稽さを突く。

 

 

 ◆高津吉則「REPLICAS」

文体は現実の人間をしかと捉えたドキュメンタリー。その人物らはコスプレイヤー、めいめいの虚構、二次創作の世界の住人として変身している。

 

コスプレがいつからここまで市民権を得るようになったのか。詳細を追うのは省かせていただくが、政府が「クールジャパン」などと訳のわからないことを言い出すもっと前から、当事者らは懸命にDIYの精神で、衣装と身体を手作りし続けてきた。

 

作者の作品が重要なのは、作品がコスプレイヤー仲間としてではなく、写真作家という立ち位置、界隈の部外者として撮っていることである。デジカメと写真現像・編集ソフトの発達がもたらしたのは、写真技術・表現に関する特権の全面的解放・譲渡であった。結果、コスプレイヤーはカメラマンに頼ることなく、今では自分達の内輪で最も好ましい世界観を演出し、最も望ましい角度や光や舞台を配して写真化するようになった。

 

高津作品では、コスプレイヤーは二次作品の一部でありつつも、あくまで一人の個人として、写真家と相対している。起立し、姿勢を崩さず、衣装や表情に緊張感を以て、身体を差し出している。背景や調光などは、彼ら彼女らの属する世界観を踏まえたものだが、それも含めた、時代の感性の記録、ドキュメンタリーとなっている。

この取組の冷静な情熱は、年数を重ねて蓄積されることで、後に文化を語る重要な仕事となるだろう。ぜひ今度とも続けてほしいと思う。

 

 

◆二川美知枝「In a KARAOKEROOM」

文体、人物とも完全に「素」の、現実景を捉えたドキュメンタリー。カラオケボックスで熱唱する人達を長時間露光で写し取った作品である。

 

露光時間は、1曲の流れる時間と同じに設定される。その過程では、曲と共に流れるイメージ映像の明るさや色味が写真に取り込まれる。そして被写体となる歌い手の身ぶり手振り、頭部の振りや揺れが、ブレとなって写る(消えてしまう)。作者は画角や露出設定をセットし、三脚を据えた後は、歌の間は写真を場に委ねることとなる。こうした構造から、写真自体が二次的な「カラオケボックス」と化すのだ。

 

顔の認識も出来なくなった歌い手は、トランス状態に入っているように見える。周囲の反応もへったくれもなく没入している様子が浮かび上がる。写真から個々の歌い手の内面を知ることは出来ず、気持ち良さそうに揺れていることが分かるのみだ。

カラオケは日本で始まった文化と言われ、カラオケボックスという業態は1980年代半ばから広まっていったとされる。親睦のため、付き合いのため、ストレス解消のため、人前で歌う練習のため、歌わず個室でまったりするため、始発電車を待つためと、利用の目的は様々である。

面白いのは、「歌を歌うこと」と「カラオケに行くこと」とはニュアンスが区別される点だ。趣味の話などでその点を踏み違えると地雷を踏むこともある。「歌う」という発声行為自体は同じはずだが、前者は表現行為、アーティスト活動の一つを指すことが多く、しばしば「歌」を作る行為も含むことがある。それゆえに当人のプライドを伴う。対して「カラオケ」は、一般民間人の感覚だけで言えば、非生産的・非創造的な・消費の娯楽として認識される。他者の作った楽曲に合わせて「歌う」挙動により、自己を溶け込ませてゆく行為とは、一体何なのだろうか。

 

作者自身の気付きとして、「視点を歌い手にフォーカスし、周囲の要素を切り詰めていったところ、カラオケボックスという場自体が浮かび上がってきた」という。店によって内装、雰囲気が異なるのだが、揃いも揃ってどの店の内装もチープで、美的感覚が欠落したような作りなのが興味深い。すぐにでも店を畳んでまたすぐに再建できそうな、簡単な作りである。ついでに言えば、演奏中に流れる安っぽい映像、薄っぺらいミラーボール、水っぽい酒、コンビニめいた飯、とって付けたような観葉植物。どれをとってもカラオケにはチープ以外の物が存在しない。

 

「カラオケ」はその歌い手、それを成り立たせる場、内と外の両方が「自分」を持たない。歌い手は歌う行為をなぞることに耽り、あるべき自己から曖昧になる。カラオケボックスという場は特徴を欠き、逆に言えば何の用途でも一定はカバーする。二川作品のブレやボケはそうした、「カラオケ」という「曖昧さ」を撮っているのではないか。

前述の作家3名らは対照的で、いずれも撮り手側、あるいは被写体側が「表現」の意図とフォーマットを明確に有することで成立する作品であった。二川はその両者の「曖昧さ」を撮っている。曖昧であること、曖昧になることが「カラオケ」の本質である。

 

そして本来は、この密室は可視化されない。曖昧になった個人を、曖昧なままで漂わせているので、写真のような眼によって形にすることには不向きだろう。

そのような「曖昧さ」を揺ら揺らと過ごす(撮る)ことが、SNS社会における「写真」への抗弁(=わたしのことは放っておいて。私もあなたを放っておくから。)という姿勢を表わしているように感じる。

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( ´ - ` ) てなもんや。 

 

私はSNSインスタ映えが苦手で、そこで蔓延る美の基準から逃げ出してきた。言わばインスタ脱藩者であります。単に美人のおねえさんを美しく撮るスキルが無かっただけですが、「誰の写真がどう美しいか」という、カラオケの評点機能みたいなその界隈の審美システムがにくたらしかったというわけであります。にくたらしいですね。美のカラオケ化。おぞましいですね。こわいですね。

よって、本展示は面白かったし、こういうゲリラめいた、メジャーな美の基準から逸れた活動は、大いにやるべきだと思います。皆さん脱藩しましょう。

 

( ´ - ` ) 完。