nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.11/5~11/16_酒航太「ZOO ANIMALS」@gallery 176

想像していた「動物(園)の写真」とかなり違い、予期せぬ動きや姿形が逆に彼らを「何者であるか」同定させず、不思議で奇妙な存在へ至らしめている。肉眼で見るのとあまりに印象が違う、写真の中でしか出会えないフォルム・存在感ということだ。

 

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【会期】R3.11/5~11/16

 

本展示は「gallery 176」と東京・新井薬師前のギャラリー「スタジオ35分」の第3回交流展で、同ギャラリーのオーナー・兼・作家、酒航太の展示である。

「スタジオ35分」は元々は町の写真屋だった店を改造したギャラリーで、夜と昼の営業形態があるそうだ。見ると写真家だけではく絵画や銅版画も展示してるんですね。

35fn.com

 

なお同内容の展示が東京の「KANZAN GALLERY」で今年10月に催されており、本展示はその巡回版とも言える。会場のスケールに合わせて今回は上下に配列されている。

 

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メインビジュアルのヒヒの横顔写真、上野動物園で動物を撮っているという作者のプロフィール、そしてストレートな展示タイトルからは、ド直球の「動物写真」を想像するだろう。

しかし20数点の展示作品においては、動物らは「動物」や「動物園」というラベルからぬらっと抜け出してしまう。檻や水槽に固定され、種の分類を同定され、日々の暮らしを厳密に管理されているはずの「動物」らが、写真のイメージにおいては意味から抜け出し・すり抜けてゆく。脱走するイメージ、それが醍醐味な作品だ。

 

脱走の要因のひとつは、35ミリフィルムの手持ち撮影のため、シャッター速度や絞り値の不足から「正確に」動物らを静止して写し取れないためだ。文字通り、動物はカメラのフォーカスから脱走し、その痕跡としての身体の残像が写り込む。ずれの生じたフォルムはこちらの認識や予想を裏切るものとなる。

もうひとつは私達と動物とを分け隔てる檻やアクリルの干渉だ。自然界と違って動物園では、動物を直接肉眼で見ていることは実は少ないかも知れない。安全上の観点からバリアが欠かせない、それが写真にはモロに干渉となって表れていて、ボヤッとした、霧が少し掛かったような質感の写真が多数登場する。暗室ワークによって意図的にそう表現しているのではなく、動物園の環境による影響なのだ。

 

こうしたことが総合的に作用して、写真の動物らは何者かを図鑑的に同定し難く、いずれも見慣れないものへと変貌している。作者は10年近くかけて本作を作っており、3年ほど集中して撮影した後、熱を冷まして5年ほどかけて展示の構想を練ったというが、狙いはまさに如何にして見慣れた「動物」らを意味や名称から遁走させるかにあったのではないか。

 

脱走の方向性を大きく2つ言うなら、ひとつは造形的な化け物、もうひとつは人間性への近接だろう。前者はそれこそ夢の中に出現したクリーチャー、形状の化け物であり、後者はメインイメージのヒヒのように、どこか高潔な、人格すら漂うものへ移り変わる。猿が二体並んでいる写真などは、顔以外が全て暗いため、舞台上に背広を来た二人の男が立っているようにも見える。

 

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更にフィルム写真であることが、像の不確定さを生んでいる。光と速度の足りない環境下で、力技で切られるシャッターによって像は写し込まれるが、それを作る粒子は必然的に荒くなり、本来の姿の記録としてではなく、存在の確率のようなものとして写真が現れる。

デジタル画像としてのデータなら、形態の正確な記録性を求めて補正されるところだが、フィルムによる像は存在の確度を点の密集と濃淡で表す。それがモンスター的な怪異なフォルムを導いている。フィルム写真だからこそ、記録とも記憶とも異なる、この不確かな遭遇は為され得る。彼らは何処へ遁走するのか? 常識の向こうか、既視感の向こうか・・・ その行く末を知るのは作者なのか、作者もまた未知の中にいるのだろうか。

 

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この、闇を飛来するカメと、茫漠とした中に浮かぶように立つ(立っているように浮かぶ)シロクマの写真は、見事だった。「フィルム写真の中にだけ現れる異夢の国」がある。思えば昭和の写真家らは皆、この世界へ当たり前のように出入りしていたのではなかったか。デジタルの描画のデータ性=正確な記録と再現性・その善性、が常識化してしまうと、まるでSFを古典だと見なすように、こうしたイメージの脱走を昔話のように感じてしまう。想像力の問題だ。想像/創造を、脱走を楽しまねば。

 

( ´ - ` ) 完。