「木津川アート2021」の展示プログラムの一つ。イベントの舞台である京都府木津川市加茂町の「瓶原(みかのはら)」に住む人々によって撮られてきたファミリーアルバム内の写真を複写し、私的に、確かに刻まれてきた無名の歴史を辿る作品である。蔵に収められてきた大量の家財や食器とともに、それらは「川」の形で提示される。
そこには地域の記憶だけでなく、家を深く貫く婚姻制度があった。
- 1.展示構成 ―写真の役割
- 2.「あらわれた写真」―撮らない写真
- ・Not Found Photo ―ファウンドフォトとの差異
- 3.無垢ゆえの妙味、引き戻す鏡と「歌」
- 4.婚姻制度、女性の置かれた境遇
作者「チームびゅ」の二人はそれぞれが写真家として個別に活動しているが、このたびコンビを組んで展示制作に取り組んだ。二人の作風やテーマは全く異なる。
成田直子は前回の「木津川アート2018」で、屋外:恭仁京の跡地に巨大な「眼」のクローズアップ写真を展示し、その1年後の「KG+2019」でも同作品をJR京都駅にて展開した。
成田貴亨は《ROSE GARDEN》で「2016年度 写真新世紀」佳作賞を獲得、今年の「KG+2021」ではそこから派生したシリーズ作品を展開した。
本展示の制作においては、部屋によって二人のどちらがメインで担当するかという違いはあれど、基本的には両者の共同作業によって成されているため、以下の文章では特段の区別をせず「作者ら」と総称する。
1.展示構成 ―写真の役割
本展示は、古民家「寺子屋やぎや」(旧炭本庄司邸)を3つの部屋:和室、蔵、みかん小屋に分けて展開するもので、古い蔵にあった茶碗や徳利、お猪口などの食器、そして鋤などの農工具が、写真と共に提示される。作家両名とも写真作家であり、展示ジャンルも「写真」ではあるが、ほぼ空間インスタレーション作品と呼んで差支えないぐらい、立ったり座ったりしながら、部屋と一体となった作品を身体で観ていく展示形態となっている。
メイン会場は大きな和室だ。冒頭の会場写真のとおり、畳に並べた多数のお膳の上に写真が載せられていて、鑑賞者はそれを直に覗き込むことができる。また、複数冊の家族アルバムも手に取って頁をめくることができる。後述するが、写真の物量と展開方式だけでなく、写真の収集方法や制作工程も含めて、本展示の主体が「写真」であることは間違いない。
一方で、続く2室(蔵、みかん小屋)では、写真は鑑賞者から遠い位置に掲げられており、その像を間近に覗き込むことはできない。部屋の調度品や配置の演出が主役となり、写真は脇役のように引いている。
見ることができない写真はどのように作用するのか。
<上:蔵 / 下:みかん小屋>
本展示が当時の住民の生活空間や風習を物理的に強く継承しながらも、それらの記録・再現に留まらず、穏やかに逸脱するのは、逆説的ながらここに写真が配されているためだろう。写真という客観的な記録物(と期待されるメディア)が介入することで、家財道具や農工具は客観的資料から「誰か」の私的な領域へと足を踏み入れる。つまり物語性を帯び始める。
これは、写真の扱われ方、鑑賞者との距離に起因していると思われる。
まず直接的に「写真」の中身を確認できず、この部屋や物品の所有者としてイコールで結べない点。蔵の奥の箪笥には複数の結婚式の写真が並び、反対側の棚にも写真立てが並んでいるのが鏡越しで確認できるが、それらの指示対象が丸ごと宙に浮く。誰/誰の?箪笥・部屋・結婚なのか?
そして「写真」が置かれるには少し不可思議な配置である点。私人宅であれ資料館・博物館であれ写真展であれ、本来は置かれない場所と方法で「写真」が登場する。それは見せるための「正しい」展示とは別の指向性を帯びることになる。どこに?内へ向くのだろうか。農工具を置く小屋にきちんと額装した写真が壁掛けされることの妙は、調和している一方でなかなかのインパクトをもたらしている。
しかし写真は場と無関係では済まされず、そこにある以上、部屋や品物と「誰か」との関係性が出てきては、強く残響する点。
こうした要素が合わさって、写真は作品そのものとも記録の指示物ともならず、部屋と家具等の品物もまた展示空間として分離できないものとなる。かといってそれらと写真は一体の、等価なものである訳もなく、写真は結婚や花嫁や地元民を過去の記録として、かつ、手の届く個々人の生記憶のようなものとしてもそこにある。「蔵」と「みかん小屋」の展示空間は半・匿名の物語性が漂う場となっている。
半分は私的な物語、もう半分は不特定な、匿名の誰かの物語、そういう、誰にも占有されず、しかし確かに誰かのものであった物語を、改めて場に現わすこと。それが本作の全体に通じるテーマだろう。作者ステートメントでも『時代や場所の異なるファミリーアルバムの写真とその持ち主の語りから、誰かのものでありながら誰のものでもない、みかのはらの物語を生み出します。』と、ずばりそのものの言葉で述べている。
2.「あらわれた写真」―撮らない写真
本作では、瓶原とその周辺に住む家族からファミリーアルバムを見せてもらい、写真にまつわる話を聴いて、借りた写真からセレクトし、複写・再現したものを展示している。
複製であると聞いていなかったら、借りてきた写真をそのまま提示していると思ったかも知れない。褪せや汚れ、古い写真に独特のサイズ感が巧みに出されていて、目で見る分には違和感がない。
作者らは「私達が撮るべき写真は、既に撮られている」と語った。
地域の外から来て、準備期間の1年2年で撮れるような写真であれば、既に地元の人々によって撮られているのではないか。そのようなスタンスを起点とし、「撮られた」写真を選び・編集することに制作の力点が置かれている。
膳の中の写真の配置を見てみると、人物のポージングやシチュエーションが似ていて、絵としての連続性が意識されている。しかし持ち主、時代、撮影場所などはバラバラだ。セレクトに当たっては、明らかに無関係な旅行先の写真などは除いたが、写された場所が瓶原かどうかはこだわらず、あくまで「瓶原に住む人たちが持っていた写真」という切り口で、それが物語るものを提示しようとしたという。
複数の膳の並びはサブタイトルの通り「木津川」の比喩でもあるが、複数の家庭が集まった宴席の座が混在したようにも見える。時代と表札を越えて、瓶原の「家庭」内に蓄えられてきたイメージの一端がここにある。
・Not Found Photo ―ファウンドフォトとの差異
本作は「無名の人の無名の写真を集め、作家が選んで、作品として提示する」という外形を有するため、端的に言い表そうとする際に「ファウンドフォト」という呼びたくなる誘惑がある。だが本質的には真逆のものだ。
ファウンドフォトとは、誰が撮ったか分からない写真を、例えば蚤の市などで束売りされていた棄てられていたりした写真を入手し、そこから何かを読み取るなどして表現へと展開する、「作者が撮らない写真」の代表的な技法・ジャンルである。
だがそれは撮り手の知らない・関与できないところで為される表現のため、発表者側によるイメージや記憶の一方的な簒奪という暴力性を孕む可能性も否定できない。うち棄てられていた100年前の写真をサルベージして保管し、考察の上再評価するというと、文化的な価値を帯びてくるだろう。だがinstagramに上がっていた不特定多数の写真を大量に出力して写真集を作って売った、家庭ゴミで棄てられていたプライベートな写真を拾ってきて展示した、などとなると「盗用」やプライバシー侵害の色が強くなる。といった風に、慎重な取扱いが必要となる手法である。
本作ではそれぞれの写真に明確に「撮り手」と所有者が存在する。作者らは許可を得てそれらを「借りて」「複写・再現」している。すなわち「すでにあるもの」の声を響かせ、エコーの輪唱のようにして外部へ届けるのが本展示の構造である。住民一人一人との、顔の見える関係性(作者と住民との関係、および、写真と住民ら自身との関係)が、個人間の話題から、より普遍性の高い「瓶原」(地域の歴史・記憶)や「日本の家制度、婚姻」などへと拡張されていく。
よって、「詠み人知らず」の写真を集めてシャッフル&セレクトすることとは性質を大いに異にする。各写真には顔と名の源流がある。それらを一つの大きな「川」として見せようとするのが本展示の試みである。
3.無垢ゆえの妙味、引き戻す鏡と「歌」
居合わせた限り、写真への反応が地元民と部外者で異なるのが面白かった。
地元の方々は当然ながら、写っているものと自身の記憶との照合を行う。懐かしいとかこれは何だとかこの恭仁大橋は何代目のものだとか話が弾むのが聞こえる。作品の形で提示された様々な時代や家族の記憶から、また個々人の記憶が引き出されていく連鎖反応を目の当たりにすると、本作の狙いはよく効いていると実感した。
私のような部外者は、写真そのものを見ることになった。フレーミングや被写体の選び方といったメタな部分である。関西・大阪の京都寄りで育った身には、瓶原とは風土的に大きな違いがないため、北海道や南西諸島の古写真を見るのと訳が違い、なおさら写真を突き放して見ることになったのだと思う。
実は地域性から離れてメタな視点で見ても(それこそ)、本作は面白い。制作意図と反れるのであまり大きな声では言えないが(と言いつつ言うのだが)、写真を知らない素人の撮った、狙いや邪念のない写真は本当に面白いのだ。本業の写真家、教育を受けたアーティストなどには真似できない、人に見せる前提のない・表現意図のない写真ならではのパワフルさが面白かった。
「なぜそれを撮ったか」の理由のない、しかし「それ撮りたくなるの分かる」という、素人写真ならではのパワフルなカットが結構あって、単に「地元の人達の記憶や歴史を可視化しました」という教科書的な文化事業とはまた異なるテイストが味わえた。こうしたカットが多かったのは予想外だった。「写真」の性質をよく知る作者ならではのセレクトだと言うほかない。
このあたりの、写真の無垢な妙味のパワーを楽しめたことが、本作をつい「ファウンドフォト」と大雑把に括りたくさせる誘惑となったのだろうと、後に気付いた。家族や地域との紐帯よりも、私には見えるものが多かったのだろう。
だが本展示には、目を写真に埋没させない仕掛けもある。鏡と言葉(歌)だ。
膳の中に、写真とともに鏡が置かれている。一方向視点からの眼差しを躱すかのように、鏡は天井を写している。天井の裏側には実は2階部分があって、作者らはそれを架空の・記憶の行き交う場として人物シルエットを配している。
シルエット群は1階からは直接に見ることが出来ないし、2階に上がることも出来ない。天井の一部が開いたところの壁に敷き詰められた鏡によってのみ、間接的に見ることができる。シルエットたちは過ぎ去った過去の住民らの残像のようだ。作り方は聞いていないが、もしかすると写真の中に登場する人物像を拡大したものかもしれない。
シルエット群の賑やかさは、この古民家に家族が住んでいた賑やかりし頃の響きとしても想像しうる。集落自体の賑やかさの記憶でもある。今はこうしてアートイベントで人の出入りが賑やかだが、会期が終了して人が引き揚げたらさぞ寂しくなるのではないか。
もう一つ、お膳の上で写真から目を奪うのが、文字の書かれた紙片だ。この小さい短冊は何だろうか? 言葉が妙に硬いことと、語尾の「ぞ」「かな」「けれ」から、これらが俳句や詩だと分かる。
これらは昔、恭仁小学校で体操の時に歌われていた歌で、どうやら戦前・戦中のもののようだ。歌詞がいかめしい。お膳に盛られた歌詞とファミリーアルバム内のものとは補完関係にあり、双方を繋げると全容が見えてくる。さすがのインターネットでもこの歌詞は出てこない。
『今は小さき民なれど』『やがては大なる国民ぞ』の勇ましき極めフレーズに世相が伺える。他の句もあまりに勇ましい。「国家」の元に庶民の暮らしや心を一つに纏めようとする力学そのものだ。住民らのそれぞれの記憶を辿るとき、こうした「大文字の歴史」が逃れ難い共通記憶として浮かび上がってくる、これこそ大文字と小文字の入り混じった「歴史」の姿だろう。
だが「歴史」や「力学」は戦争のような大々的かつ期間限定のイベントだけでなく、もっと長いスパンでの文化・風習という形でも現れる。婚姻制度がそれだ。
4.婚姻制度、女性の置かれた境遇
本作で最も強く訴えかけてくるのが、婚姻制度ー「嫁入り」という婚礼風習の異質さについてである。ファミリーアルバムと「蔵」の展示でその異様さが存分に伝わってくる。念のため言うと本作は「日本は家父長制に囚われていて古くておかしい」と糾弾することを目的とした作品ではない。地方の住人らの記憶を顧みる中で、戦争と同じく必然的に出てくるものが昭和の婚礼風習であり、それは昭和の終わりに生まれて令和に生きる私にとって相当に異様なものに感じられた、ということだ。
では具体的に何に異様さを感じたかと言うと、ファミリーアルバムに挟まれた「結婚目録」、嫁入り道具として女性側が持参した品の一覧表に度肝を抜かれたのだ。
ちなみにこの古びた書類も作者らが複製したもので、手に取って広げて閲覧できる。家族写真などと共に袋に入れられていたのを発見したという。
その記載内容は赤裸々かつ精緻で、婚姻・嫁入りとは自由意志に基づく恋愛というより、「家」の間で取り交わされる財の交換契約なのだと思い知った。頭では分かっていたが現物を見るとショックが大きい。
この、公立の郷土資料館の保管品目録のような詳細さはどうだ。
似たシーンとして登山家を描いた漫画『神々の山嶺(いただき)』にて、孤高の登山家が限界に挑むために装備品を細かく重量チェックする場面があるが、ある意味これはそれを凌駕している。登山家は自由意志、個人の決定の極致においてそうしているが、これは真逆で、女性個人を「嫁」として取り囲む「制度」「しきたり」が作らせたものだ。そこが強烈なのだ。
衣服にこんなに種類の名前があるということに驚いた。同じ「羽織」や「長襦袢」「帯」でもわざわざ種類を細かく列挙しているのは、「これだけウチはモノを持っていて、裕福ですよ」とアピールしているのに他ならない。実際、嫁ぐ前には、「嫁入り道具」の状況を夫となる側の家の者が下見に来るため、箪笥いっぱいにモノを詰めて見せたのだという。
しかし結婚するだけで「ネグリジエ 四枚」まで開示しなければならないのか。「嫁」という名で、女性が計られて売られていたかのような生の資料に、昭和生まれながら、何だかクラクラした。これが昭和のリアルなのか。森喜朗や徳光和夫の舌禍のごとく、アップデートしきらぬ権威ある高齢男性が散見されるのも無理はないところだと納得してしまうところではある。
オルゴール付きの結婚式アルバムにもクラクラした。テンションがほんのり高く、めでたい。これはわざわざ作者らがヤフオクで入手したものだが、当時よく流通していたもので、うちの実家にも似たようなアルバムがある。とても懐かしい。幼い頃しばしば開いて眺めていたのを思い出した。
だが改めて客観的に見るとやはり異様だ。出だしから最後まで「結婚」をひたすら祝福する、その「圧」がすごい。結婚にまつわる事柄、例えば新婚旅行の工程や両家の家系をつぶさに記載する項目が続き、ツルの群れがめでたげに飛びまくっている。まるで第2の生誕祭、結婚して初めて人間となるかのようなプレッシャーすら感じる。当時はそれが当たり前だったから親族のみならず、会社や地域ぐるみで「結婚」を推し進めてきたのだろう。勿論、高度成長期においてはそれがプラスに作用し個々人が享受できるものも大いにあったため広く共有されたことは認める必要がある。
思えばどの家庭にもこういう結婚推し推しファミリーアルバムがあって、物心つくかどうかの頃から触れて、こういう人生を送るのが正しい、と無意識のうちに・当然のように価値観を継承していったわけだ。ファミリーアルバムは制度順応・継承の最も身近なメディアだったと知る。
そうした制度や大文字の歴史の影で、実の氏名と顔と声を隠されてしまうのが、「嫁」「妻」、女性の存在だ。シャドーワークならぬ、「イエ」や「社会」の影そのものにされてしまう存在。「蔵」での写真と箪笥と食器を組み合わせた展示はそのことを示唆している。
和室でのファミリーアルバム、嫁入り道具の納品書を目の当たりにしてからの「蔵」は、いっそう深い示唆に富む。薄暗い蔵の奥に立つ花嫁の写真に、嫁入り道具の箪笥、家事炊事や家庭そのものを表す無数の食器。常に制度の影にあった女性の声なき声がすぐそこにあるようだ。
だが男性原理の社会を非難・告発するような、主義主張のための展示にはなっていない。あくまで無名の人達の存在がそこにあったことを認め、存在感を立ち現わすための構成となっている。そのスタンスは前回:「木津川アート2018」で展示した巨大な「眼」の写真作品でも通底している。
根拠となるのが「川」のイメージだ。
食器は川のように「蔵」の奥、花嫁の影からうねりを伴って流れてくる。木津川の流れでもあり、可視化・記録されざる家事や「声」、生の象徴である。川は主張しない。刻々と流れ続けるだけだ。
歴史や地域を大きな川のようなものと見るならば、人々はその流れを作り出す一滴の水のようなものだ。しかしそれは比喩であって、人間の実態はどこまでも実直で逃れ難い声や顔を持つ個体であり、愛別離苦を伴う存在である。本作はその両義性について触れている気がした。
「川」に引き寄せて、さきに紹介したファミリーアルバムの作品についても立ち戻ろう。因習めいた婚姻制度の圧、私が生まれる以前の「昭和」のおどろおどろしさを強く語るものではあったが、それは表現としての核の部分であって、全体としてはコミカルなテイストが実は多い。
写真の多くが意図的に抜かれ、写真に添えた一言コメントだけが並んでいる。どこかの家族が手元で写真・記憶とコミュニケーションを取りながら書きつけたこれらのコメント、どんな写真を元に書いたものか想像するのも面白いが、コメント自体がなかなかシュールで結構笑える。『あかんあかん 川合さん それ石や!』は謎すぎて傑作だと思う。
やはり大義名分や使命感、鑑賞者のないところで行われる「表現」は面白い。無名の写真にせよ、本作は民の「軽み(かろみ)」への注目が優れているのだ。
シリアスで根の深い大文字的な歴史の「圧」に着目しつつ、一方では民衆のコミカルな日常のセンス・営みの「軽み」を尊重した展示だった。「写真」が全てを語るわけではなく、主でも従でもない立ち位置もまた独特であった。婚姻制度こえぇとか悲鳴を上げながらキャッキャ言って楽しめました。
そう、本作はシリアスやシャドーを真正面から扱いながら、コミカルもあって、なんか全体的に「楽しめる」展示だった。食器の川も、ちゃわんや湯飲みが可愛い。徳利が可愛い。同時に、そこに幻惑されないだけのものがある。両義性が色々と仕組まれている。そういう展示だった。
( ´ - ` ) 完。