薬効ある植物を求めた知と流通の歴史は、あらゆる人文学の領域にまたがっていた。古い書物に描かれてきた植物の図像と、植物が実際に繁茂する写真とが、数百年の時空間を跨ぐ物語を紡いでゆく。
【会期】R4.9/17~10/15
壁に掛けられた植物の写真をただ見つめていても話は進まない。多くの鑑賞者にとってそれらはまだ漠然とした「植物」の域を出ないだろう。作品は写真だけではない。写真作品と展示ケース内で開かれた古書のページに付された「コアネネピリ=ダリアの1種 ≠ コントライェルバ」といった小さなキャプションが最大の手掛かりなのだが、読んでも全く判然としない。
それらを有機的に繋ぎ合わせるのが、作者の説明であった。説明を受けて作品=「歴史」は動き出す。
本作の正体は歴史である。
「コンタラエルハ」という薬草がかつて存在した。遡ること江戸時代、西欧から日本に伝えられた薬草である。だが2つの意味でそれは幻である。
まず一つには、「コンタラエルハ」とは「毒を消す植物」という効能を記した表記であって、本来指し示すべき植物名ではなかったこと。そのため学者が他の書物から図を引用する際に別の植物と取り違えられてしまい、本来同定されるべき植物が宙に浮いてしまったこと。江戸時代の航海術と保存技術では、植物の姿形や色や形をみずみずしく保つ術はなく、恐らく絵とは乖離した姿だったのだろう。
二つ目は、そうして翻訳と類推・伝達の綱渡りで江戸時代に日本に伝えられた「コンタラエルハ」という名称や分類は、諸科学が発展する明治期には途絶えてしまったこと。しかし一方で西洋では全く別の系統としてその名を持つクワ科の塊根植物「ドルステニア・コントラジェルバ」の分類が作られており、現在に至るまで続いていること。
本作は複数の出典、図や固有名詞が錯綜し、言葉を連ねても伝わりづらいが、以下「eTOKI」サイトの展評でうまく纏められているので参考にされたい。
会場には3種類の植物の写真が掲げられ、それぞれ等号(あるいは否定等号)が付されている。鑑賞順に、①メキシコ国立自治大学植物園で撮影されたダリアの一種「コアネネピリ ≠ コントラエルハ」、②メキシコ・ユカタン州のウシュマルで撮影された「ドルステニア・コントラジェルバ = 毒消草」、そして③香港の街頭で撮影されたマメ科「シロバナソシンカ = コントラエルハ」だ。
見落としそうになるラベルに付された等号には、どういう意味があるのか?
写真②「ドルステニア・コントラジェルバ」は、薄暗い森の中で地面から生えている。「コンタラエルハ」の語源、「毒を消す草」を辿った先に、18世紀のイギリスの薬用植物図鑑の中で見出された存在である。
この「ドルステニア」種は鑑賞用の果肉植物として人気があり、多数の種類が知られている。中南米が原産地で、現地では薬として活用されてきた歴史もある。まさに語源のとおりだ。
現在もその名が実体としての植物と呼応・合致しているという点では、写真②「ドルステニア・コントライェルバ」が「コントラエルハ」の事実上の正体、ということになるだろうか。
しかし一方で、日本に伝来してきて取り違えを来した末に行方不明となった「コントラエルハ」とは結局何だったのか。
蘭方医・宇田川玄真が日本へ最初に「コントラエルハ」として伝えた植物図(「遠西医方名物考」1822-25年)は結局引用・参照を誤ってしまったようだが、宇田川が参照したのがヨハン・ウィルヘルム・ウェインマン「薬用植物図譜」(1737-45年)であるらしく、さらにそれはフランシスコ・エルナンデス「ヌエバ・エスパーニャ博物誌」(1651年)へと遡ることができ、それらの素となった植物は、メキシコの「コアネネピリ」というトケイソウの一種へ辿り着く。
写真③・シロバナソシンカは、宇田川玄真の図がどうもおかしいとの疑義から、本草家・馬場大助が描き改めた植物(1855年)の素となった植物である。中国、インド、マレーシアあたりが原産地で、撮影先の香港では市街地に普通に生えているという。
さて、先のトケイソウのくだりで「コアネネピリ」という名前が出てきたが、ここで同じ名「コアネネピリ」を持つダリアの一種が登場する。
展示会場では2冊の古書を並べて絵図が示されている。
右の白黒の絵が、宇田川玄真の引用元の源流となったであろうトケイソウの一種の「コアネネピリ」(フランシスコ・エルナンデス「ヌエバ・エスパーニャ博物誌」)だが、左のカラー絵図も「コアネネピリ」(「バディアヌス手稿・アステカ植物史」(1552年))である。
同じ名でありながら、ダリアはキク目、トケイソウはキントラノオ目で、分類体系上はずいぶん遠い。つまり別の植物である。
ここで、会場入口すぐに掛けられていた写真①・ダリアの原種へと辿り着く。
「コントラエルハ」でもなく、「コアネネピリ」でありながら、改訂版「コントラエルハ」の「コアネネピリ」でもない植物・・・。それぞれの植物が遠いのか近いのか、距離感すら分からなかったが、書くに当たって系統図を見ていくと距離が遠いということは分かった。植物種の張り巡らせた迷宮である。
一体私は何を観ていたのだろうか。
展示を見たのは10月1日だったが、登場するそれぞれの「名前」と絵図と写真との相関関係と、それらが織り成す謎の広がりを自分なりに納得のいくよう整理して把握するのに、実にまる1カ月を要した。何度も誤謬を繰り返して書き直した。催眠術や幻術の牢に絡めとられたような気分だった。これまで書いてきたことも誤解や見落としに満ちているかもしれない、更に本作の写真集を手にして読み解いたならば更に書き直しを迫られるかもしれない。
Web検索ツール等で多彩な情報網を駆使できる時代の人間がこれだけ戸惑い、迷宮入りするのなら、未知の枯れた植物標本を手にした江戸時代の学者らは、それをいかに見て、いかに思案し、同定に難渋したことだろうか。迷宮を何とか突破してきた知の営み、知の筋力は刮目すべきものがあると実感した。その道中では、「コントラエルハ」は幻でも偽でもなく、仮説かもしれなかっただろうが、真実そのものだったのだと思う。
本作が扱っているのは植物学や日本の歴史の話だけではない。貿易、世界経済そのもの、西欧文明との関わりの歴史でもある。薬の歴史でもある。また、「知る」という営み:未知の対象を分析・分類し、既知の何物かと同定して名付けることの営みの歴史でもあり、本作はまさにその行為を積み重ねながら辿り直したものに他ならない。
幾つもの複合的な知の運動が、植物の根のように絡み合った作品、リベラルアーツの本懐を見た思いがする。
「歴史」とは一体何なのか。
( ´ - ` ) 完。