nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.10/28-30、11/3-6 波多野祐貴「接触と沈殿」@スタジオ ツキミソウ

本作接触と沈殿」は一変して、特定の場所や時代を指さず、喜怒哀楽のどれにも属さず、一見何気なく、何も語っていないように見える。しかし明らかにある目的とコンセプトを持って撮り溜められ、配列されている。ポリフォニーと感応に向かって。

 

【会期】R4.10/28-30、11/3-6

 

展示会場「スタジオ ツキミソウは大きな古民家を活用したアーティスト・イン・レジデンス施設で、1階部分に滞在・作業スペース、2階にギャラリーがある。入った瞬間の寂れ具合や蔦からかなり年季の入った物件だと知れるが、まさか築150年も経っているとは思わなかった。入ってすぐの土間には空の井戸が口を開けていた。

 

京都・東山エリア、岡崎公園の裏(北東)に位置しているが、京セラ美術館にしょっちゅう行っていながらこの施設の存在は初めて知った。民家の並ぶ路地の奥にあるので気付かなかった。

tsukimisou88.tumblr.com

 

1階・玄関に面したカウンター、この奥にはアーティスト滞在&作業部屋がある。ギャラリーは2階、目の前の階段を上っていく。部分的には手が入っているが建物全体としては相当に老朽化している。かといっていわゆる伝統的な京町家の和とも違って、普通の和室という感じ。

2階はアパートと旅館のあいの子みたいに階段から廊下がまっすぐ走り、左側に部屋が続く。展示が行われたギャラリースペースは壁が白く塗られていて、手前の広い部屋と奥の小さな部屋の2室から成る。

 

 

さて展示内容を見ましょう。

 

作者のライフワークにして代表作は台湾にあり、この3年間ほどは中心街での人と街のスナップを発表してきた。今年4~5月の個展「隠れてはない 見えていないだけ」では、日本占領時代の台湾の歴史を現在の風景から確認するものだった。

 

www.hyperneko.com

 

本作は風景と人物から構成されているが、従前のように風景と人物が組み合さった、スナップとポートレイトの混成体ではなく、1枚ずつの写真で何を撮っているか・何を語っているか、パート/人称が分別されている。その分、同じ人物を複数枚並べたり似た印象・シーンの写真を並べたりして振動を増幅させている。

 

被写体の人物らは何かを言いたげで語りそうでその手前におり、バストアップのポートレイトだけでなく顔の一部や手先を切り取られたカットも多く、また人間だけでなく動物や彫像も登場し、雲・大気の動き、影や光のプリズムがポートレイトと対等なカットとして並ぶ。

 

まだ関係が結ばれる前の者たち――「あなた」未満の者たちが何かを語ろうとする気配と、それを知覚する・察して受け取ろうとする「わたし」、その両者の間に流れる、目に見えない空気の流れや振動を撮った作品であると解釈した。

 

ポリフォニーと感応の写真」と言い換えても良い。人間に限らず、様々な・それぞれの存在が在ること、生きているということが、「あなた」未満のものたちと「わたし」との間に見えない波となって伝わってくる。

 

それぞれの波は言葉以前の、顔や手指の表情の動き、サイン、大気や光の揺れといったものに過ぎないが、ゆくゆくは何らかの具体的なエモーショナルな言葉として結晶化していくのだろうと察することができる。言葉として明確な形や力を帯びる前の、ベクトルが生じる前の状態を撮った写真だと。つまり写っている存在らはまだ主格が定まっておらず、「あなた」と「わたし」の関係が生じる前の段階にある。だが無関係な者同士ではない。誰なのかを同定し難いが、何らかの関わりが生じようとしている・生じ始めている。その確かさが「感応」としての撮影行為に現れている。

 

「感応」と言ってもテレパシーほど強く特殊なものではなく、もっと無意識的で透明な空気のような応答だ。目に見えない変化、例えば気圧の上下に対し、身体も目に見えない形で反応して体調が乱れるように、そこにいる何者かが醸す気配や情緒の兆しは「わたし」に何らかの作用を及ぼす。作用が形となって発現するまでのタイムラグをこれらの写真は掴んでいて、そうした感性の反応と写真的な反応をここでは「感応」と表した。

また、ポリフォニーと表したのは、感応を催させる対象 / 相手が単独でなく、集合でもなく、個々にそれぞれの波長を発しているためだ。作品全体では同じようにまとまりのあるトーンで仕上げられているが、爆風の気配も山の峰を通る風の気配も、言葉を発しそうな口元の気配も、それぞれの振幅は別々のもので、そしてどこかで繋がっている。「どこかで」と勿体ぶって言っても、作者の主観的な視座と写真表現というフォーマットのことなのだが、そう断じるまでにもうしばし作品の展開を見ることが必要かもしれない。

 

つまり前作<Call>(2020)にて、台湾で遭遇した現地人らを、明確な関係性を結ぶ前に、互いに未知の状態で遭遇しながら未知という関係を写し取ったのと、本質的には同じなのだろう。ただ本作は「台湾」という場所性を外し、感応のキャッチの起こりを更に意識的に掴んで切り出している。自身の写真行為や視座に対し、帰納法から演繹法へポジションを移して、先の先を取りに行ったように見える。

 

 

奥の小部屋では人物写真が主となる。

 

最後の人物写真8枚組はかなり一般的なポートレイトの体裁となっており、これだけを見たら特別な意図のない、センスのよい企業の人物紹介サイトやクリエイター取材記事に使われる写真ストックに見えなくもない。だが前室のポリフォニックな波の響き、振幅、揺り戻しを体験してからここに来ると、日ごろ接している/接していないかもしれない人物らの、複数系の「あなた」たちが匿名のうちに持つ固有の「声」未満のものを尊重し、先んじて受け止めているように感じられる。言葉として凝固し放たれる前の関係性について。

 

 

ここまで書いてきてあれだが、作者のステートメントの主線は過去形で書かれていて、「時間は多くのものをふるい落としていき、残った断片が自分の中に降り積もっていく。」「このような個人の主観的経験が、私にはとても写真的だと思えるのだ。」と締め括っていることから、記憶と存在と残像・残響についての考察や心象についての作品であると考えられる。

私の読解は真逆で、現在形の更に透明な一点へと絞り込むような視座の作品として観たのだが、これは本作の登場人物の一人が、私の写真仲間が紹介した人物であったとの話を聞いたことで、その時点まで見ず知らずの作者とモデルとが、言葉や理屈ではなく恐らく直感的な空気感、感応を以ってコミュニケーションを取り合って本作を作ったのだと、工程を想像させられたためだ。

 

だが語り尽くせるものではない。部屋に入ってすぐの1枚目:白い馬の背中の写真は、これまで述べてきた論旨では説明がつかない。ポリフォニックな波や振幅の中で、白い馬の背は圧倒的に「無」であり、孤高のクレバスのような何かがあり、直感的にもメタファー的な解釈でも、いずれの被写体らとも異なる次元に位置するように感じられた。前作<Unvail>(2020)世界線を接続するのかも知れないし、また別の、更に何歩か前に進んだ世界観へ繋がる使者なのかもしれない。

 

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作者(波多野祐貴)の作品はここまでだが、ギャラリースペースの奥の奥の控室には、作者の夫で写真家の、天野憲一氏の作品:<second nature>シリーズも3点展示されていた。ちなみに筆者にとっては「大阪国際メディア図書館 写真表現大学」在学中にお世話になり倒した恩師です。うへえ。

 

鳥です。博物館などに借りた鳥の剥製を精緻に写し取った作品である。

繊細ながら明瞭な線描が生きたグレートーンの像は、写真でありながら高精度のデッサンをも思わせる。剥製になり静物・彫刻化した生き物たちは、生物でもなく非生物・物質とも言い切れず、架空の存在でもないという、不可思議な存在と化していることを表すようだ。生きて動いている時と違って、静止し、渇き、痩せている分、皴や襞が無数に全身に現れていて、ものそのものが線描化し、絵画に近付いているとも言える。

 

展示会場ではないところで作品を複写したため、上掲の写真には庭が反射して写り込むなどわけのわからないことになっている(田舎のおじいちゃん家のようなアットホームな和室でした笑)が、下記リンク:成安造形大学の教員紹介ページから作品の画像データを見ることができる。見といてください。

 

www.seian.ac.jp

 

天野先生の作品は、学校の額装の授業などで一度ぐらい見たかも知れないが、展示として観るのは初めてだった。2000年代には「The Third Gallery Aya」での若手作家支援プロジェクト「Argus(アーガス)」(1999-2008)によりコンスタントに個展を催してきたが、2010年代以降は展示がほとんど行われていない。何気に貴重な機会となった。

 

 

会場と控室で作者氏と写真仲間らと歓談し、何でもかんでも自己都合で片付けようとする企業への怒りと怨嗟をぶつけたり、ジャンキーや病み上がりは登山で荒療治できる旨の話をしました。面白かったです。

 

( ´ - ` ) 完。