写真作品が少ない国際芸術祭「あいち2022」STILL ALIVEだが、参加アーティストの中で唯一と言ってよい名の知れた写真家・石川竜一と、『いのちのうちがわ』でタッグを組んだサバイバル登山家・服部文祥との再タッグ(+キュレーターは島袋道浩)が見られるということで、期待していた。
展示内容は予想外のものだった。
【会期】R4.7/30~10/10
本展示の結論を言うと、以下のポイントになる。
・サバイバル登山自体を「表現・アート」として表す試みの作品
・作品の主役は100円の冊子『THE JOURNEY WITH A GUN, AND NO MONEY ― 北海道無銭旅行』、これは確かに登山を表現
・だが展示(会場)はあっさりしすぎ、それを実現できていたかは疑問(写真がもっと見たかった)
会場はシンプルだ。入って右手に行程と出来事を記した地図が繋げて張り出され、隣にザックと登山靴が掲げられている。左手の机には冊子が売られている。奥の樽のようなテーブルに服部と石川の日別の全身写真がある。その向かいの小部屋に狸の毛皮と額装された写真2枚。
要は、会場がプレビューやイントロダクションになり、会場に来た人のみが購入できる冊子『THE JOURNEY WITH A GUN, AND NO MONEY ― 北海道無銭旅行』を読むことで、約1か月間の「サバイバル登山」という営み・試みを追体験できるという構造だ。
この小冊子は「国際芸術祭あいち2022」の服部文祥&石川竜一の出品作品です。
登山を作品として出展する方法を模索した結果、自分ができる表現行為は登山表現と文字表現しかないという結論に至り、この小冊子を作ることにしました。
会場へ足を運ぶこと(→JOURNEY・旅・自分という物体を移動させること)も我々の展示に含まれます。
その意味で本冊子は、会場に来た方だけが手にできる限定冊子です。
冊子は実際に会場に来た人に限って販売され、複数冊の購入や転売は禁止、「会場に来る」こと自体が作品の一部であり、売れ残った冊子は展示終了後に断裁すると明記している。つまり事実上、冊子が本展示の主役・主体として位置付けられている。
この冊子を読まないことには、展示されている行程の地図や写真、鹿の頭骨の意味どころか、今回の展示の主旨も掴めないかもしれない。内容がすこぶる面白いというだけではなく(※すこぶる面白いです)、上記の服部の言葉どおり事実上の「展示」の主体なのだ。
購入は任意なれど、会場に行ったらこの冊子を買って読まないと全く意味がないと断言できる。必須です。すこぶる面白い。服部・石川・愛犬ナツの3者がいかに約1カ月を旅し、苦労し、獲物を追い、逃げられ、狩りに成功し、自然の中で格闘してきたかが濃密に描かれている。これは写真や動画で見るよりも密度の濃いもので、五感の乗った体験を味わうことができる。
期待と違っていたのは、展示(会場)側のコンテンツの薄さだった。
本展示の主コンテンツが冊子の中で「文字」としてある分、会場側と冊子とで主従関係が逆転しているというか、会場のコンテンツが薄かった。壁に貼られた地図を見たり、椅子に腰かけて写真をめくって見たりできるが、どれもメインと言い難く、緩い。言うなれば、山の避難小屋のような場である。
前述の服部の言葉通りではある。「登山」の行程そのものと、それを通じて得られた体験・出来事を書き起こした文章の2つが「作品」なら、会場に置くものは最小限になるのはある意味で正しい。メインを冊子にすることを意識して引き算したためか、それとも本展示を、芸術祭全体を登山と捉えたときの避難小屋的な場と位置付け、本当の「登山」(=冊子)へと引き込むための入口としたためか、何かしら確かな目的はあるはずだ。
しかし会場側で、「登山」行為の在り様を暗に語ったり、体験・出来事の記録や想起を醸し出したり、冊子の中身を象徴したり部分拡大したり、もう少し何かが欲しいところだった。
特に「写真」によって。
写真(=石川竜一)の存在感が薄かった。こちらとしては、やはり「あいちトリエンナーレ」を継ぐ新イベントで、写真(写真家)がどのような動きをするかを非常に期待していたため、定番の手法で言えば、大伸ばしのプリントで壁面を埋めたり、きちっと額装した写真をあちこちに散りばめるなど、山行と写真とをどう空間と呼応させるのか、そんなキュレーションを期待していたのだ。
会場、古い木造家屋の工房跡入口から、鹿の頭蓋骨が並べられている。狩猟の獲物、自然界の象徴、神々しさもある風貌・・・
スタイリッシュ過ぎるように思えた。
山行の中身は、過酷で泥臭い。北海道の南端から山を伝って新千歳空港までの約1カ月間を「無銭」で移動し、狩猟したり交通事故で死んだ獣の肉を得たり出会った人から食べ物を貰いながらサバイバルする。山中では炭水化物の調達は困難なため、生米12㎏・砂糖2㎏・塩500gを各自持参し持ち運ぶため、猟銃や撮影機材を合わせると総重量は一人32㎏にも及んだという。非常に濃密で過酷である。
一方で、「THE JOURNEY WITH A GUN AND NO MONEY」と額に刻印された鹿の頭骨はあまりにスタイリッシュなアイコンとなっていて、シンプルな空間と相まって、重く泥臭い山行の実体験と真逆に作用し、やや相殺してさえいた。
全ての鹿の頭骨が今回の山行で得られたものかは不明だが、冊子を読んでいると、無駄なものを持ち運ぶ余裕が一切なく、最終日に解体した鹿肉と毛皮をザックに入れて満杯であったこと、終盤で仕留めた鹿について「この旅を象徴する展示物になるかも知れない」と語り、「そのへんの高い木に吊るしておいて、旅が終わった暁に回収し、骨格標本にするくらいが限界だろう」と記していることから、後日骨だけ回収したものかもしれない。
冊子を読むと、これらの頭骨を持って運ぶことの労力を想起させられる。「物を持って歩いて運ぶ」ということの具体的な手間、重さや疲労感だ。一人の人間がどれぐらいの「もの」を持てるのか、持って「歩く」ことができるのか。無人島サバイバルと違って定住ではなく「移動」が主たるテーマである。狩猟や偶然によって食料を得ることと、移動すること、地味ながら現実的かつ物理的な「生」のテーマそのものである。
この会場の展示物のシンプルさは、個人が山行の中で「運ぶ」と「移動する」を両立できるキャパシティを示したものとも考えることができる。
こうして時間をかけて辿り直し、咀嚼し直すと、色々な可能性について考えが及ぶが、鑑賞中はそういうわけにはいかなかった。
壁のタブレットは、山行のうち16日分の服部と石川の会話を収録したもので、トータル368分にも及ぶ。コンテンツ量では冊子と並ぶ主力級のものだが、いかんせん真夏の常滑エリアを散策して死にかけている上に、次への移動時間が迫っている鑑賞者にとっては、5分~10分聴くのが精一杯だった。私も予想外だったのだが、鑑賞する側は山時間とは別の尺で「移動」に追われていたのだ(なんせ17時で展示会場が閉まってしまうので、言うほど時間の余裕がない)。
2人がサバイバルの中で、野営のゆったりとした時間の中で交わしていた言葉に、脱いだザックと登山靴という組み合わせは、まさにこの場所が避難小屋のような休憩・野営地点のような場所だと感じさせた。
服部文祥の単独の展示ならこうしたスタイルでも納得して満足したと思う。
ちなみに2021年4月に、石川竜一が写真集『いのちのうちがわ』を発表する際、個展会場から服部文祥とオンライントークした動画がYouTubeで公開されている。命を食べること、命を撮ることについて。
会場の音源も冊子と共に、WebにアップロードしてQRコードを有料販売しても良いのではと思った。
地図は見応えがある。これこそ冊子を読んで中身が膨らんでくる。行程とともに書き添えられた出来事がすごく面白い。
地図も冊子も「移動」と「食う」ことに尽きている。その日に何を獲れたか・食にありつけたかの記述がほとんどだ。これが面白い。
サバイバル登山なので当然なのだが、「移動」や「食」は現代社会ではどちらも半分自動化されていて、それ自体が目的化される機会は少なく、むしろ更に先の目的を達成するための前提や手段となって隠れている。既存のルートをなぞり、十分な水と食料を持ち込んだり山小屋に託す一般の登山では、そうはいかない。そのため「鹿を撃つ若い猟師 肉はくれない」といった細かい執着が、非常に新鮮かつ強く響くのだ。
写真集『いのちのうちがわ』では、狩猟などによって得た獣や鳥たち、一つ一つの「命」の在り様と向き合いながら、現代社会では普段目にすることのない命の姿を写真に表した。本展示は『いのちのうちがわ』アナザーサイド版と言ってよいだろう、むき出しになるのは服部と石川の方で、生を繋ぐために何を思い、何を求めて、何を得たかが克明に描かれている。
卓上の写真は、数日おきの野営の際に二人の全身を撮ったものだが、日を経るにつれて風貌が変化していくのがよく分かる。野生化していくのだ。
開始時点では、都市生活者が森の中で脱いだ姿として写っているが、最終日あたりの風貌は肉が痩せて細っただけでなく、もっと本質的なもの、都市に預けていた生活の余裕、余剰そのものが削げたように見える。ものの1カ月で人間はこうなるのか。「食う」ことが追い付かなければ「自然」に生を奪われて食われるのだろう。自然が大きな生命循環のシステムのことならば、そのルールの中にあっては人間もネズミや鹿と同じに過ぎない。そのようなことを思った。
テーブル向かいの小部屋はタヌキの皮と写真、石が置かれている。
タヌキは車に轢かれていたもので、撮影され食料となり、二人の糧となり命を満たした。ここでの2枚の写真は『いのちのうちがわ』に通じるものだ。やはり良い。サバイバル登山に予定調和を求めるのも本末転倒なものだが、確かに「写真展」にしてしまうとビジュアルアートと化して服部文祥という存在と「登山」という行為が後退するし、写真を控えれば何を展示するのかという問題が起きる。二人は展示物を収集したりリサーチするために北海道の山に入ったのではなく、無銭で移動しサバイバルするために山を歩いてきたのだから、展示物が少なくダイナミックさに欠くのは理に適っている。だが・・・ という鑑賞者側のこの葛藤。
その気持ちの穴を埋めるのは、宵の口の線路で写された草の写真だ。
石川竜一がただの雑草を撮るなどということが理解できず、「?」が付きまとった。
このストーリーは山行終盤の物語として重要なところなので、ぜひ皆さんも会場で冊子を手に入れて、読んでみてください。
展示空間が不満だったのでその点を簡潔にまとめようと思っていたのに、結局なんか書いてたら鑑賞マインドトリップをすごい楽しんだみたいになってしまった。実際なんか満足してきた。私もいいかげんな人間だ。展示はもっと何かできたと思う。だが二人の辿ってきた約1カ月のシビアで、しかしユーモアのある旅は、文句なしに面白い。
やはり道中で撮られた写真をもっと見たかった(たとえブレブレだったり全然ダメなものだったとしても、撮影行為も含めての山行ということで)。
言うてたら山に行きたくなってきた。
( ´ - ` ) 完。