nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.9/2~9/15_ 志岐利恵子「山里譚」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

奈良県の吉野郡川上村を主として、山間部で暮らす人たちの生活が写されている。山と風と川が豊かな自然をもたらす「奈良」のポテンシャルの深さが伝わる展示だが、自然とともにある生活は、信仰=神様と隣り合わせの暮らしであった。そして同時に、そこはシリアスな限界集落でもあった。

 

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【会期】R3.9/2(木)~9/15(水)

 

 

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奈良県というのは極端な県で、都市部は万人の想像どおりの「近畿の街」、まさに京都と地続きのイメージで、寺社と歴史のある平らな街だが、県全体から見れば例外的で、西側と南側のほとんどは山林、山岳で、Google Mapで見ても山の緑色が9割近くを占めている。

本作の主要な舞台である川上村は県のかなり南部にあり、奈良市街地から車で1時間半、吉野を抜けて長大な吉野川と並走すると辿り着く。すぐ西には大峰山、大普賢岳が、南には大台ケ原が控えており、山々のはざまで、吉野川の源流に位置する。

 

集落の生活者はまさに深い山と川の「自然」に囲まれて生きているが、本作では自然の風光明媚を愛でるのではなく、地元の人々の実直な暮らしが捉えられていて、生活空間と季節の流れの中へと入り込んでいるのが特徴的だ。

しめ縄を燃やすトンド焼き、洗濯物の後ろで咲き乱れる梅、竹を振り乱して大風が来ないことを祈る風祈祷、お供えの準備・・・そして家の中には神棚があり、餅は神様に捧げられる。四季折々の催しや神事だけでなく、日常生活のさりげない集まりや動作が何かしら意味を持っている。

 

こうした生活を通じて見えてくるのは、「神様」との距離が近いことだ。

「神」と言っても、人類と対置されるような緊張感ある存在、主従関係を誓わせたりするものではない。八百万の神と言えば良いだろうか、昔からずっと日々の生活、季節の中に織り込まれてきた作法やしきたりにおいて、その動作や供物を捧げる対象であり、暮らしに寄り添うように配された、目に見えない・明確な形のない存在である。

ここでは大いなる「自然」への畏敬の念が働いているように見える。修験道の長い歴史を持つ大峰山の霊験、伝承などがそうさせているのかもしれない。役小角(えんのおづぬ)が大峰山に入り修行をした時代まで遡れば、実に1300年以上の歴史がある。古事記日本書紀にも川上村は登場するというから、日本の中でも特に霊験あらたかな地として知られていたのだろう。吉野川の水源として、清冽な水を多量に育む様も神聖さに一役買っていると思われる。

 

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しかし、「自然」の豊かさと共に「神様」が今も継承されているのは、歴史の保護活動が活発だからというわけではなさそうだ。集落に住んでいる人たちに入れ替わりがなく、昔からの住人がそのまま昔の生活を継続しているからだとも言えよう。つまり、若い世代がおらず、現役世代の入れ替わりがなく、高齢者だけが暮らす「限界集落」と化していることの裏返しでもあるのではないか。

本作では前向きな視点から撮られており、社会問題としての寂しさや厳しさのニュアンスはないのだが、写っているものを見れば、家の外も中も老朽化が進んでいるし、祭りの太鼓台は担ぎ手がいないのか町を練られることもない。実際に置かれている状況からすると、この生活の舞台そのものが住民不在となって、20~30年後には周囲の自然に呑み込まれて消滅してしまう恐れもある。

 

川上村に限らず日本全国でこうしたことが起きている。そして「限界集落」という構造が、翻って「写真」の側にも当てはまるのではないかと連想させられる。

作者は1954年生まれである。60代後半という年齢は、上の方から見れば「若い」部類に入るだろう。だが60代後半の写真家が、直接の故郷ではないにせよ同じ出身県の限界集落に通っては、高齢化・縮小していく村落の暮らしを取材・記録し、発表するという在り様は、象徴的であった。

 

超高齢の地元を、高齢となった写真家が見つめて撮影に取り組む、「老々介護」ならぬ「老々写真」の様相である。

言葉の響きに険があるが、これは作者個人の活動や表現とは全く異なるレベルの話で、作者個人のことをどうこう言っているわけではない。

よく同年代の写真関係者と「今の10代20代は写真なんか撮るのか?」「写真って誰が撮ってるの?」という問い掛けをする。全く答えはないのだが、若手は写メと動画、すなわちスマホ一択だろうし、自己表現なら動画で長短を投稿メディア(アプリ)に応じて切り替えているのではないか。仮に写真をやるとしても、ファッショナブルな広告や、共感を速攻で呼ぶエモーショナルさを志向し、「美しい」ものへと向かっているだろう。

老いていく「地元」に寄り添って「見る」(=撮る)ことが出来るのは、衰退や縮小を受け容れた者、すなわち同じく老成した者ばかりになっていくのではないか。——写真という領域そのものも含めて。誰が地元を、写真を見て(看て)いるのか? そのような問いを想起させられる展示だった。

 

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しかし奈良県の川上村、天川村黒滝村のほうは、とにかく自然が豊かで、空気とめしがうまいうまいので、釣りや登山やレジャーで訪れる人も多い。社会問題にからめて、あまり悲観的になる必要もないとは思っている。

洞川温泉で過ごした一夜、そして朝の陽ざしは格別でした。ウフ。

 

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( ´ - ` )完。