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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/トークショー】2019.6/1(土) 浦芝眞史『触彩の性』@HIJU GALLERY

【写真展/トークショー】2019.6/1(土) 浦芝眞史『触彩の性』@HIJU GALLERY

「植物」に喩えられる人間の体と営み、それらのイメージの連鎖。

【会期】2019.5/11(土)~6/2(日)

 

 6/1(土)、19時から作家トークショーが催された。浦芝眞史と同世代の写真家5名(赤鹿麻耶、成田舞、堀井ヒロツグ、真鍋奈央、山元彩香)が集まり、互いの創作のスタンス、本展示の感想などについてクロストークが行われた。以下は展示について、トークの内容も踏まえて短観。 

 

「好きなアーティスト」として古屋誠一、ヴォルフガング・ティルマンスChim↑Pom会田誠の名が挙げられたが、各パートをリンク&ジャンプで素早く繋ぐ構成力を見て納得した。置く・吊る・貼り出すを駆使し、Web世界がこちら側の実空間へと接続されてくる際のスピード感を伴なって、写真を額装された美術品から移ろいゆくイメージの界面へと解放している。

 

隣り合う写真同士が連なり、重なり、単体としての意味が増幅されたり共振されたりする中で、個々のイメージたちは個であることをやめて「群」として力を持つ。というよりも、これらの写真を面と層の「群」として見なさなければ――上下左右そして前後に意味の領域が延ばされたものたちとして見なければならない、でなければ可読性は上がるかも知れないが、可能性は一気に損なわれる。一個一個の像で解釈したとき、照応する単語は「女性のヌード」「男性のヌード」「自然と人間」「植物と人間」といった、シンプルだが確認事項に留まってしまう。本作は意味を免れつつ、生きることの悦びを立ち現わせるために、高揚感を生きたものにすべく可変的な展示形態を取っている。

 

本作は、会期3ヶ月前にギャラリー側から企画の依頼を受けたことを契機として、これまで撮り溜めてきた写真の中から見直しを行い、セレクトしたものから構成したという。企画に向かって目的を決めて撮ったものではなく、またそうした撮り方は自分には出来ないと浦芝は語る。集中して撮った後に、考え、作る、するとその時は分からなかったことが写真によって事後的に分かるようになるという。堀井はその事後的なることを写真独自の性質、稀なメディア性と指摘した。写真は夢に似ているとも。

 

壁面全体に伸び、前後にも重なりを持つイメージの振幅は「植物」の繁茂だと捉えれば分かり良い、そのことが分かったのはトークの半ばあたりからだ。本展示の醸す空気感は、熱帯の街の蒸した湿度や温度そのものである。息をするたびに体の内に入ってくる夜だ。そして人間・人体と「植物」とが類似していること、本展示はその連想を生かしたものであることが語られるたび、バラバラに思えたイメージ群は次第に這うようにして、一つの大きな夜の樹のように繋がり合ってゆく。

 

タイトルに用いられている「性」は、せい=「性別・性差」と、サガ=「本性・性質」の大きく二つの意味を備えている。前者については作者が第13回・1_WALLグランプリ受賞者個展《身体の森で》(2016)にて取り上げたテーマが継承されたものと言ってよいだろう。写っている人物を男性・女性のどちらかに明確に二分することの困難かつ無意味な時代において、境目を浸していく・失効させることが試みられていると感じた。モデルら個々人の身体や風貌における性差のラティチュードが、幅広い。こうあるべきと指定される「性」には、登場人物らは容易には収まらない。むしろ作者が捉えているのはヒトという種族の体と悦び自体であり、被写体たちは陽気な笑みを浮かべて意味から踊るように去ってしまう。

 

後者については、一つはヒトの生きることへの欲望、生きていることの現在系の永遠としての恍惚、陶酔感だ。夜の盛り場での強烈な光線や闇夜に咲く光の柱と水滴のプリズム、真夜中に輝く都市の俯瞰といったイメージからも伝わってくる。もう一つは先述のとおり「植物」の暗喩、類似性への言及だ。作者曰く、単個の人間としての私性やバックグラウンドを取り払い、生物種としての無名性を引き出すには、植物のフォルムを用いることが有効だったという。そうしたカットが隣り合うと、視覚上で群生が始まる。

 

そうして、植物ほど貪欲でシンプルな生命体もないことに思い至る。花は荒木経惟を引用するまでもなく生殖器そのものであり、果実、種子は生命の核だ。茎や葉や幹はそれらの命を成り立たせ受け継ぐために伸び、稼働する器官、体である。私たちの腹部やふくらはぎや太ももの曲線、膨らみは、植物の体の丸みと外見上の類似を示す。浦芝曰く「ヒトと植物の遺伝子は半分ぐらい構成が同じ」とのことで、設計図からして我々とは似ているらしい。

 

そんな眼から我々「個人」を捉えたときには本作のように、被写体それぞれの人となり、或いは体の器官としてのオス・メスはあれど、大きな括りでの「生命」としては、分類区分は無くなってしまう。むしろベースに備えている「命」の気配が重要な関心事となって写真に写し取られることになる。ただ作者はみだりに誰でも撮るのではない。撮る・撮られるの関係の深さと即興性が優れている。真昼間から裸になる、裸で樹に登るといった域にまで達する人というのは、ある種の美意識の共有や感応が深いところで成り立つ相手であろうから、一定の傾向はあるのだろう。それは他の登壇者も同様だ。即興・独自の詩を編むようにキャストをスカウトし、日常の約束事の文体から少しずらしたところに体を置かせて写真という形に表す。

 

被写体らは今を生きる悦びに満ち、健康的なエロスを湛えている。ライアン・マッギンレーにどこか似ていると思ったのはそのためかも知れない。浦芝は日本(大阪)のみならず、台湾、香港、バンコクダッカを旅し、夜になると街へ繰り出し、盛り場を巡って写真を撮ってくる。勿論昼間の写真もある。日中に盛んに活動する植物もあれば、夜にしか咲かない花もあり、温帯の植物もあれば熱帯の花もあり、作者は縦横無尽にそれらと出逢いを続けてゆく。

だが被写体との出逢いそのものは作者個人のイベントでありながら、写真には作者の顔や体、体温といった、私小説の文体は全く用いられていない。かつ、植物と言えども「植物図鑑」を思想的に標榜するものでもないし、植物と女体とのフォルムの類似性を突いた前衛的な美に立ち返るものでもない。本能的な行為として、社会的役割や意味から人間を、個人を解放し、生物のサガを露わにすること、大きな循環の中にイメージを組み込むことに力が注がれている。

 

作品を作り、発表する上でメッセージ性をどう考えるか、誰かに伝えたいと思うかといった話題の中で、浦芝は「観る人にも御裾分けしたい」と言い表した。熱帯めいた夜の街が持つ艶やかな色に寄せた展示会場からすると、作者が出会い掴んだものは生命のエネルギーであることは確かだろう。それは藤代冥砂が90年代に出会って撮ったエネルギーよりも繊細な、肉に迫る問いを孕んでいる。本作では体、裸は光の下に照らし出され、活き活きと自己主張をしているが、翻って私たちの体は、生活は、誰の物なのか、誰が管理しているものなのかという問いが逆照射されてくる。

 

「植物」は誰のものなのだろうか。

  

 

トークショーで印象深かった話はいくつもあったが、質疑応答の最後で「作品を作ったり編集・展示することによって、他人の存在を損ねるかもしれないという恐れはあるか」という主旨の問いに対する登壇者6名の反応はほぼ共通していて、その事を自覚し意識しながらも表現・発表行為をやらなければならないと答えた。

浦芝は「めちゃくちゃある」とし、「それでも作る」「それでもやらなあかん」と、深い自問自答と決意を語った。本展示にもある通り、浦芝は多くの人物を撮りながら、彼ら彼女らはあくまで多くの被写体、人々の「代表」なのであって、個人としての写真を撮っているわけではない。そして作品に選ばれた被写体がいれば、選ばれなかったモデルもいる。堀井はこれについて「写真という手法がフレーミングの表現である以上、排除という暴力性からは逃れられない」とし、写ったものと同時に写らなかったものの可能性、存在についても等価でありたいと語った。

真鍋もまた同感を示しつつ「この人をこの世に眼差したということ」を表わし、形にすること自体が重要であり、それによって救われる人もいる、そして作家自身は感謝の念を抱き、その問題によって擦り減ることはないと語った。

 

他の話題の中で「同世代」の話になり、写真作家としての世代については特に意識をしていないとの回答で、場は一致していた。だが6名それぞれの語り口を聴いていると、広くあまねく「他者」への意識、感度が極めて高いこと、可能な限り「他」を尊重し、自己の表現においても自己を主張するとともに「他」の声たちを消さないよう苦心していることが、まさに現在を生きる世代の作家として備えている共通の性質のように感じられた。

自己の主張を通すのではなく、互いが今ここにいる「場」を可能な限り豊かにし、パスを回し合って繋いでいくことが、作品においてもトークにおいても自然と選びとられている。双方向に送受信する、共振の感性。世代の性質とは、リアルタイムで接するメディアや制度、インフラによって育まれ調律されるものと個人的に考えている。だが6名の登壇者らは付和雷同ではなくあくまでそれぞれに「自分」の生き方と言葉を深く備えており、自分はこの世界でどのように写真家として関わってゆくかを語っていた。

 

面白かった。 

( ´ - ` ) 完。