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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+2019】八木夕菜「Blanc/Black」@MOGANA

【KG+2019】八木夕菜「Blanc/Black」@MOGANA

平成から令和への改元を迎え、天皇退位や新天皇即位の礼が相次ぎ、日本という国の歴史や伝統の形をメディアを通じて目にする機会に恵まれた。厳密に執り行われるそれらの儀式は、手順、言葉、衣装、建築物などの型によって護られ、素人目にも神聖さを伴うものであった。本展示は、そうした歴史的な神域に宿されてきた光と影を浮かび上がらせる。 

 

  

展示はホテルの廊下、吹き抜けのロビー、その奥のギャラリースペースに展開される。空間は一様に暗い。いや、黒い金属のラインがずっと連なり、その合間から光が射している。宇宙空間の祭壇と回廊を思わせる場に、映像作品と写真が置かれる。 

 

吹き抜けのあるロビーには、巨大な壁面にスクリーンが掲げられ、神社の映像が流される。だが時間の経過とともに鳥居や祠は次第に重複し、一つのものではなくなってゆく。それは建築物としての明確な「形」から、多重露光かレイヤーの重ねによって次第に不明瞭な「イメージ」へと遠のいてゆく。明るい部分はより明るく、白く。暗い所はより暗く、黒く。像は光と闇の二つへと還元されてゆく。

 

作者が選んだ舞台は、京都の日向大明神と、島根の日御碕神社である。どちらも天照大御神が祀られているが、「京都の伊勢神宮」と呼ばれる日向大明神は日本の昼を、日御碕神社は日本の夜を護るとされている。この昼と夜、光と闇の対比は、どちらも同じ一つの世界でありながら、星の運行によって全く別の世界に属する。近代以前、照明や空調など都市生活のコントロールがなされない時代には、二つの世界の流転は人智を超えたものであり、畏敬の対象であっただろう。

 

八木はこれまで一貫して、目に見える建築物や風景を舞台としつつ、目に見えている「世界」が光の干渉によって如何様にも揺らぐことや、目には見えないが祈りや弔いという形での「世界」があること作品で問うてきた。視覚と外界の関係、更には写真と光との関係を、建築物というその時代時代における人間の理性の結晶として構築された、揺るぎない存在を以って問い掛ける。

作中で建築物たちは揺らぎを止まない。増幅されて理性の結晶体は計算式から遠くへ還ってゆく。主観と客観、現実と祈りとを行き来しながら、今ここから遠のいてゆくような視界の中で、かつて人々が心を預けたであろう神域の気配が立ち上る。参拝者が鳥居や祭壇に向き合い、儀式の手順を踏まえつつ内省する中で、主観・「私」を揺さぶられることによって開いた門を、八木作品では作品自らが光と闇の双方に向けて開いてゆく。こちら観客側の理性は確保されたまま、眼前には開かれた異次元が漂っているだろう。それを観測するもよし、没入するもよし。杉本博司が海の波間に見た原初の世界を、八木は寺社の歴史的建築と光の明暗に見ようとしているのだろうか。

 

タイトルの「Blanc」はフランス語で「白」や「空白」を表わし、同時に「Black」の語源でもある。「色」を塗り重ねられて出来た黒は、色の凝集であると同時に、色が無いという状態でもある。どこかであり、どこでもないという前作「NOWHERE」に深く連なる本作は、外界の存在と内面の認識を問うものとしても、写真論としても成り立つが、祈りや拝礼によって自己を消失してゆくときの、理性のリミットを解除する工程を見る試みとも捉えることができる。

 

私は強い啓示を受けるなどの神秘・宗教的体験を得たことは一度もないが、外的・内的な作用によって強烈に視界が変容することを何度か体験した。まさに八木作品のように光と闇のバランスが強く揺らぎ、色やモノやかたちがズレてゆき、この「世界」が何も無くなる――それは比喩で世界は「私」と無関係に存在し続ける――同時に無くなりつつある「私」との関係もまた消えることなく続いていく、という、何重かの無と有の交錯を味わった。決して心地の良いものでも素晴らしいものでもなかったが、自分が神や超存在を前提としていない人間だけに、信仰や神域らしきものがどこから生まれるのか、僅かばかり客観的に見えた気がする。その時のことを思い出して、会場では揺らぎに浸った。光と闇への両方向へ開いた世界は私にとって絶対的な故郷のように思われる。そこには生き物は住めないが、この意識、「私」を形作るネットワークはその向こうから電流のように生じ続けていて、結果としてこちら側の世界に「私」が存続している気がする。

 

この自己が建築物のように強固な身体となって、あるいは建築家のように強固な理知を伴って、こちら側に留まり続けて居られれば良いのだが、そうもいかず、絶えず引きずられてはあやしく曖昧なものへと還っていきそうになる。闇は、良い。光もまた、良い。だが危険である。厳格な手続きなしに光や闇に耽溺することは、人が人の形を亡くすことに繋がるだろう。逆説的に言えば、そのために厳格な手続きや型を定めて神域が設定されているとも考えられる。

 

光と闇に浸った。余談だが、私が写真に惹かれるのも、それが光と闇の相克の内に生じる像だからなのかもしれない。

 

ちなみにこのホテル「MOGANA」は、八木作品の主旨にたいへん合致し、倍率ドンさらに倍!でしたが、一人一泊5万円以上するとんでもない高級お宿でして、「おっ、インバウンド向けに小ぎれいなのあるやん」とか舐めてかかると白目をむきます。カメラ買えるわ。ぐぬうー。 

 

( ´ -`) 完。