写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】金サジ「白の虹 アルの炎」@THEATRE E9 KYOTO

【写真展】金サジ「白の虹 アルの炎」@THEATRE E9 KYOTO

「私の」物語、「私の」神話を徹底的に作り込んで描く、気鋭の写真作家の個展。 

【会期】2020.1/8(水)~1/19(日)

 

劇場「THEATRE E9 KYOTO」のオープニングプログラムである本展示は、入ってすぐの細長い小部屋と、階段状の舞台・客席の空間とで展開される。暗がりの中、階段状の客席側に、写真が照明を受けて立ち並ぶ。

歴史画、宗教画のようなムードの漂う写真である。歴史を遡り、王朝の時代、更に古代の精霊と共にある時代、神話のような時代の光景などが並ぶ。見覚えがありそうで、しかしどの教科書にも資料集にも載っていない映像だ。これらは作者が自ら編み出した記憶の物語であり、想像の産物である。

 

作者は在日コリアン3世である。韓国に家族のルーツを持ちつつ、生まれ育ちは日本であり、日本社会の一員である。つまり生まれながらに日本人と韓国人のどちらであるとも、明確には言い難い状況にある。

ステートメントでは作者の母親と祖母とのエピソードが語られ、祖母宅に棲んでいる蛇・「巳さん」の話、祖母の故郷の思い出話が挿入される。そして話は記憶と記録の話題へ移り、「男性(社会)は家系や文書の形で自己の歴史を残すことが出来るが、女性は社会の要請に合わせて自身の属性を変えるばかりで、記録を残すことができなかった」とし、それでもなお、女性の体に内在された記憶があると語る。それは、言葉は分からずとも、歌や料理などによって、女たちの間で紡がれ、伝えられてきたイメージであるという。

日本と韓国のどちらにも明確な所属を持たざる作者は、母親の語る「祖母の故郷」(一面に咲く桃の花が美しかったという以上の情報はない)のイメージを、分からないなりに、自分なりに受け継いだ。この物語行為の結実するところが、今に至るまで発表し、そして評価されてきた作品世界――寓話や神話を感じさせる創作、演出による写真世界である。 

 

みっしりとした解像度と出来過ぎたポージングによって描かれる作品は、写真にしては曖昧さがなさすぎるためにリアルさを失い、偶像の肖像、神話的なシーンとなって現れる。それは、男性社会が「正しい」歴史、「正しい」記録の管理と保護(あるいは取捨選択)に尽力し、神代の時代にまで遡って正統なる権限を紐付けるべく描き出してきた、美しく力強く神々しいビジュアルに対する、パワフルなアンチテーゼであるとも言えるだろう。

また同時に、日本人と韓国人のどちらでもあり、どちらにも決定的に属することのできない状態にある作者が、両国家、あるいはそれぞれの国家内における様々な政治的信念・主張のいずれにも参加し得ず、右とも左とも白黒を付けることが困難な状況下で、それでも「私の」記憶を語ろうと試みた、壮大にして素朴な物語でもある。徹底して自作された写真を「あくまで私の想像の物語ですから」と言い切ることで、政治的歴史的「正しさ」のジャッジを回避する効果が期待できる。

だが「私の」物語、自作の写真と言っても、例えばサブカルコンテンツを手本としたコスプレによって自己表現や自己実現を図ることとは全く意味が異なる。サブカルは消費用の、個人が没入することを目的に作られたコンテンツである。金の物語は、公式には語られない生の、声の継承であり、やむを得ず自分(やその家族ら)で描かねばならなかったものだ。

恐らく作品の1枚1枚には、韓国の歴史的な出来事、寓話、伝統に由来する場所や象徴的なシーンが、想像とともに織り交ぜられつつ再現・実演されているのだろうと察する。衣装やポーズや背景など諸要素の構想と選択、接続に当たっては、政治的歴史的に「正しい」事実ではなく、作者自身の内面に委ねられていることで、そのズレの妙が、ありそうでなかったイメージ、「私の」神話を生み出しているのだろう。

 

作中で男性は顔を隠した状態で、歴史上の置物のようにして登場する。男たち、国家に占有されてきた「語る」という行為、語られてきた歴史を、作者は「私の」物語によって痛烈に奪い返す。ステートメントに書かれた、素朴でほっこりする家族との思い出話とは裏腹に、作者の相当に強い意志のようなものを感じた。

本展示の撮影について「個々の作品は撮影可だが、会場全体の撮影はNG」と定めていたのも、展示構成の意匠の保護という観点もさることながら、物語の断片を持ち帰ることは構わないが、「私の」神話をまるごと奪うことは許されない(なぜなら神話だから)、という、作品の制作意図と同様の趣旨があったのかも知れない。観客席側に作品を立て、舞台側から観客が観に行くという会場構成もまた、語る側・語られる側の逆転を意味する構造だったのだろうか。

 

総合的に、相当にパワフルな展示であった。

 

 

私自身の話になるが、2019年「あいちトリエンナーレ」における「表現の不自由展」は、日韓の正しい歴史認識を巡り、世論の意見のズレ、感情戦を様々なレイヤーにおいて引き起こした。その時、私は正直、門外漢ゆえに何が正しいか分からないし、そもそも「正しさ」は立場によって変わるので、正直手に負えない、ということを思い知り、深入りを避けた。

歴史の正しさや認識、事実関係を巡って、閉塞、対立しがちな現在において、「私の」物語、「私の」神話に徹底して軸を振ることによって、社会への疑義を表明してみせる作者の手法と姿勢は、一つの可能性を示していると感じた。しかしとても強靭な精神力や教養、感性を必要とする道である。万人には選べない道だろう。

 

 

劇場「THEATRE E9 KYOTO」東九条エリア:地下鉄九条駅から徒歩10数分、JR東福寺駅から10分程の、鴨川沿いに位置している。2019年6月に開館したばかりの新しい施設だ。

オープンの背景には、京都の演劇シーンを支えてきた劇場が次々と閉館し、文化芸術を担う場が消滅することへの危機感があったようだ。

四条、三条エリアから離れているし、九条駅からの道中、道路以外に何もないし、必ずしも立ち寄りやすい立地ではないが、今後も何か面白いものが催されることを期待しつつ。

 

( ´ - ` ) 完。