nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+SELECT】(前半)①ルル・ダキ、②鈴木萌、③高木佑輔、④苅部太郎、⑤林田真季 @三条両替町ビル

「KYOTOGRAPHIE」サテライト展示「KG+」の中でも、審査委員会の審査を経て選抜された作家によるグループ展示が「KG+SELECT」だ。これまでは元・小学校の校舎を会場としていたが、今回は急遽変更になり、KGインフォメーションセンターの入った「三条両替町ビル」上の階で催された。

前半・後半で全9組のアーティストをレポートする。

 

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場所がインフォメーションと同じになり、KG本体プログラムと近接したため、他の展示と合わせて非常に回りやすくなった。加えて、展示空間が普通の雑居ビル(元は韓国料理屋らしい)になり、部屋の作りがフラットになった。

これまでは小学校の教室空間そのものだったので、写真展示にしてはアクがありすぎ、展示する側も観る側も苦戦するところがあったのだが、展示としては見やすくなった。

 

 

<KG+SELECT 後編>

 

 

◆【KG+SELECT】①ルル・ダキ(Loulou d'Aki)《Friend or foe and the Eastern sea so Green》

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ジェレミー・デラーの作品かとぎょっとした、構成が似ていて、デラーは「軍(人)」を日常の公共空間(地下鉄)に転倒させたが、こちらは本物の軍(人)だ。

しかし本作も、「軍」のイメージが古い家族写真や少女の写真=これ以上ないほどのプライベートと交互に、近接した形で並べられている。ここでの「軍」は陰惨ではなく攻撃性もなく、軍人らは笑ったり眠ったり小休止している。兵士に緊張感がないがゆえに「私」へ、家族の記憶や少女・幼少期のイメージにより近く寄り添う。

 

本作は『自分自身とおばあちゃんの思い出、歴史的事実、ロシアが将来スウェーデンを侵攻するかもしれないという仮説と思索に基づいたプロジェクト』である。作者は幼少期に祖母とよく遊んだが、祖母は時折、低空飛行する飛行機の音がすると「ロシア人が来る!」と叫び、強く恐れを抱いたという。そして祖母の幼少期が自分のものとは大きく異なり、深い恐怖に脅かされていたことに思い至る。

恐怖、目に見えない敵や危機の予感について、その感性を想像することが本作のテーマとなっている。しかし作者はどこまでも祖母の「恐怖」をその言葉と態度から想像するしかなく、ステートメントでは祖母が抱いていた恐怖をいかに「想像」するかに多くの筆が割かれている。「ロシア軍」の話は圧倒的に少ない。

 

私は会場で、本作の主旨をロシア軍の脅威、国境や平和の危うさを想起させるものと考えていた。

しかし半透明に揺れる少女と軍人の大伸ばしのイメージ、軍人らの表情、そしてステートメントで繰り返される祖母の「恐怖」とその「想像」について考え合わせると、本作はやはり、作者のとても傍にいて近しい存在でありながら、「恐怖」とともに一瞬で遥か遠くに行ってしまって見えなくなる「祖母」の存在の核心について、永遠に埋め合わせられない欠落として「想像」して手繰り寄せようとする、そのような作品だと感じた。

 

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◆【KG+SELECT】②鈴木萌《底翳(SOKOHI)》

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タイトルの「底翳(そこひ)」は、眼球内に異常があり視覚障害を来し、物が見えなくなる病気をさし、中でも緑内障は「青底翳」と呼ばれ、末期には角膜が地中海のように青緑色になるという。江戸時代からその呼び名があるにも関わらず、緑内障の原因や治療法は謎が多い。作者の父親もまた、治療の甲斐なく病状:視野狭窄が進行している。

 

上記サイトは緑内障の進行に伴う視野狭窄、闇の訪れの解説が分かりやすい。

 

失明、闇へと向かって、徐々に視界が大きな影に覆われていく父親の視界、心情などを想像し、そのビジョンを現わしたのが本作である。

 

写真は大伸ばしにされ壁に貼られているが、それらは古い家族写真、すなわち作者の幼い頃——若く健康な頃の父親の視座である。それを吊り下げられた黒い箱を透して見る。箱には無数の小さな穴が開いている。それは父親の置かれている失明という光の退行についての追体験・想像行為であり、同時に、病の進行に抗いながら、日々新たな光を掴もうとする現在進行形の父親の姿への想像行為でもある。

 

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箱に入るととても見えづらい、というか全然見えない。緑内障の解説を見ていると、実際にはこんなに星空のような無数の光の孔が開くわけではなさそうだが、見えなくなることと、まだ見えているとの長い狭間にある父親の視座を現わしている。それが現在見ている視界・風景だけでなく、過去の写真——過去の記憶イメージを顧みることさえも、この底翳に侵されることを表しているようだ。

 

手作りのフォトブックの方でも、この独特な無数の孔、視覚の虫食いは物理的に表現されていた。この劣化していく視界、網膜のイメージが面白かった。

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何でもノートに書き留め、旅先でもたくさん写真を撮ったという父親へのオマージュだろうか。細かい字で色々書いてある、そのノートが無数の孔に見舞われている。虫に食われていく視覚と記憶、繊細な手仕事は読み応えがある。

 

ただ、父親のことをこうして表したあと、作者は何を表すのだろうか。一回性の企画にはならないだろうか、などとも思った。それは次に紹介する高木佑輔との差異に起因する。

 

 

◆【KG+SELECT】③高木佑輔《SPIN》

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前記の鈴木萌《底翳》と同じく、自身の父親のこと、父親の病について描いている。鈴木萌との最大の違いは、鈴木は作品=父親の単点であるが、高木佑輔では父親の疾患はアルコール依存症であり、作者はその症状の刃が、遺伝や環境因子によって自分自身に「反転」するのではないか、更に自分の息子にも同じような影響を及ぼしているのではないか、その連鎖の螺旋(=SPIN)をテーマとしている。そのため説得力と極めて高い緊張感がある。

 

父親の症状、作者が辿った経緯については、2020年11月の同名の展示の記事に詳しい。


展示方式としては、写真の展示というより空間を映像のレイヤーと化して見せている。レイヤー=紙の重なりであり、世代を越えた親子関係の重なり、そして疾患の原因となる遺伝や家庭環境の継承という宿命の重なりである。

 

暗く、不穏さが濃厚に漂う。緊張感。

ここで説得力を上げているのは脳の検査画像だと思う。写真自体は、親子関係、父親への複雑な心情、自分自身について、作者の主観から沸き上がるものと揺らぐものを表しているが、検査画像は壊れた脳の物理的な逃れ難さをクサビのように突き付ける。いくつかの写真に合わされているピンク色の模様も脳の検査画像を思わせる(何かは定かでない)。

アルコール依存症は極めて厄介だ。一度発症すれば一生治ることはないという。飲む量を調整することは不可能で、どれだけ反省しても、何年何十年と断酒していても、一度口にすれば自分では止められずにブレーキが壊れて、飲めるだけ飲んでしまう。その間の記憶はないことが多く、社会的・経済的な損失、人間関係の破綻も引き起こす。理性や努力の積み重ねが一瞬で水泡に帰して逆戻りする病。つまり人間的理性と努力が覆される病である。(注:私はアルコール依存症ではない…念のために)

 

ピントの明瞭でないおぼろげな人物写真、セルフポートレイトに、はっきりとした脳の画像が対比されるのは、壊れた脳に「自分」が左右されていることの暗喩だろうか。当事者意識が緊張感の源泉である。

 

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だが不安や鬱屈ばかりが描かれているのではない。昔と今の、親子関係の情も提示されている。大きなポートレイト写真をめくると、奥の部屋に続き、暗がりの中でスライドショーが展開されている。部屋も写真も暗いが、作者は確実に希望に目を向けていることも分かる。しかし圧倒的な「個」の世界ゆえ、すんなりと入り込めるわけではなく、私はまだレイヤーの前を回るに留まっていた感があった。

 

 

【KG+SELECT】④苅部太郎《沙織》

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今年の「KG+SELECT」の中で最も面白かった。あるカップルの関係と生活を追ったストレートなドキュメンタリー作品だが、その二人というのが、65歳の妻子ある男性と、シリコン製ラブドール《沙織》のカップという、俄かに信じがたい組み合わせなのだ。

 

登場する男性(中島さん)の家族状況、ラブドールとの関係については、作者個人HPに詳しく掛かれている。ぜひ読んでおきたい。

www.tarokaribe.com

 

中島さんは26歳でお見合い結婚し、妻とはお互いに恋愛感情もなかったものの、模範的な良き家族であろうとした結果、子どもができたという。そうして家族の形はできたものの、イコール、恋愛感情を介さない男女関係であり、40歳の単身赴任を機に家庭を離れ、55歳でラブドールを迎えている。以来、家族公認のカップル関係が続いている。

本作は作者のステートメントのほかに研究者らの寄稿、中島さん本人直筆の心情日記などテキストが豊富である。そこから分かるのは、《沙織》は性的欲求を処理するための道具では全くない、中島さんの孤独を埋め、人間と等価な存在である。むしろ人間とは違って裏切ることのない「完璧な存在」であるというのだから、中島さんにとっては逆に生身の人間の方が「心」を失った存在とも言えそうだ。

 

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とにかく中島さんと《沙織》の暮らしに踏み込んだ写真、そして中島さん直筆の文章が強烈だった。軽くショックでさえある。完全に《沙織》は人間である。疑いを差し挟む余地がない。なにせ、中島さんは《沙織》と会話をしている。向こうには会話機能はないし、どういうことなのか理解はできないが、とにかく双方向の意思疎通を行っているからガチで人間としか言いようがない。これはもう疑う余地がなく、その前提に立つ以外の選択肢はない。理屈ではない。そうなのだからそうなのだ。この前提を受け容れることからしか始まらない。素晴らしくパワフルな作品である。

 

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人間と見なして屋外へ連れ回し、親密に付き合い、文字通り裸の関係を密に育んでいるのだから、それを写した写真は必然的に重要な親密さと性愛の関係に満ちている。

極めてプライベートな空間と関係の中へとカメラを入り込ませ、ストレートに写していく手法はまさに、「KG+SELECT」2019年でのアワードでグランプリを獲得した福島あつし《弁当 is Ready》に共通する。少し浮かせて床に並べる展示方法まで同じである。

 

やはりプライベート、秘められた社会の素顔に実直に迫る写真は、とても強い。NHKの良質なドキュメンタリー番組には時代を問わず目が釘付けになってしまうのと同じく、「こんな人が社会にいたのか」という驚きと発見には、何か自然と襟を正してたくなるような、敬意と受け容れのような感情の起こりを禁じ得ない。

 

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《沙織》が人形を超えて人間であることのもう一つの理由は、シンプルに造形上の完成度が極めて高いことも挙げられる。

写真を見て驚いたが、理想的な癒しの女性像を具現化している。肌の湿度、眼や睫毛、色つや、唇や頬や鼻の膨らみの質感、微かに悦びを帯びてこちらを受け入れている表情、呼吸し何か言いそうに開いた口元・・・挙げればきりがない。

ラブドールにはこのような、多彩な性的ニーズに応えるための表情や体格のバリエーションが用意されていることが、少し検索しただけでも伺える。それを「女性の商品化」「男性の理想の押し付け」などと批判するのは、本作においては筋違いである。中島さんに固有の家庭事情だけでなく、作者の関心としても、私達は男女問わず、ヒトに似た造形物に対し、対・人間以上の存在感を認め、感情を揺さぶられ、そこに対・ヒトと同等な関係を作り出してしまう事象に眼が向けられているように思う。

 

しかし身長157㎝、体重27.5㎏、部品が摩耗・劣化すれば自己再生のできない《沙織》は、どこまでいっても巨大な人形である。ヒトとモノとの圧倒的な落差を、中島さんは圧倒的な想像力(妄想力?)で、力技で埋め合わせている。このパワーにはひれ伏すしかなかった。素晴らしいと思った。理屈は通用しない。本作はそこを直視している。これこそヒューマンドキュメンタリーだ。

 

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私にはラブドールの魅力やそれをパートナーと見なす感性は理解できないが、似た所から引き寄せるなら、例えば、ソシャゲで引き当てた念願のキャラを、手間暇かけて育てる過程はどうか。ビジュアルの美麗さや性的魅力、能力の高さだけでなく、もっと深い信頼関係というか、育成と戦いの苦楽を共にした「パートナー」として見なす=そこいらの友人知人より重要な存在に至る、あの感覚が思い当たる。中島さんの例はそれをもっと強く深くしたものだろうか。

 

そこには対・生身の人間以上の親密な関係性が確かにある。

人は人間に対してのみ親密な関係を築くわけではない。私達の多くは、立体や平面、データなど様々な領域にいる亜人種に対し、既に人間と同等かそれ以上の関係を構築しているのではないか。そのような振り返りを行った。

 

ただこの床置き展示は、スクワットを繰り返すことになって観るのが純粋に辛い(特に今秋は暑くて辛かった)うえに、前後で足を引っかけそうで危ない(実際に目の前で蹴とばした人がいた)ので、低位置を屈んで覗き込む必然性がない限りは考えものだと思う。福島あつしの場合は「配達した弁当を独居高齢者に渡すときの位置が、ちょうどその高さ」という必然性があった。

 

 

 

【KG+SELECT】⑤林田真季《山を越えて》

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部屋全体に削られた山と工事の図面が重ね合わされ、張り出されている。日本全国の大規模な不法投棄の事案の写真と資料をまとめたもので、壁面と吊り下げの大伸ばしの写真と、膨大な分厚い写真集の2点が展示される。

 

本作は「量」、アーカイブとしての層の厚さを見る作品だと思う。

環境破壊、開発、汚染の風景写真とくれば、ニュー・トポグラフィックスの作家としてリチャード・ミズラック、ヴァウト・ベルハーを連想するが、本作は1枚1枚の風景を精緻に描写し、写真に風景を語らせるのではなく、列島の各地で経済発展・開発とともに積み上がった負債の「結果」を積み上げている。小林のりおランドスケープ》が80年代の開発を現在進行形として記録していたのに対し、本作では開発後の日本の後始末、ツケを回した結末がどうであったかを物語るだろう。それは写真集の分厚さからもずしりと伝わってくる。

 

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貼り出された写真のどこからどこまでが、どこのどういう不法投棄の事案か、具体的な地名や説明はなく、手掛かりは写真と等価に配された地図や配置図面に僅かに載った地名や道路名ぐらいだ。そのため会場では本作が何を対象としているか分からなかった(ステートメントも会場には貼り出されていなかった気がする)。立ち並ぶシートパイル、むき出しの地面からは、東日本大震災・被災地の開発現場なのか?とさえ誤解してしまった。

 

だが写真集をめくっているうちに、荒涼とした各地の土地、人工的に荒々しく削られた土地、過去の工場や開発の資料などのイメージがひたすら続く中で、そのイメージ「量」こそが、不法投棄=日本列島の不特定多数の場所を「現地」とする事案であることを察した。

本作はこの写真集こそがメインコンテンツである。

いやほんとこれは良い、、、めくりごたえがあった。値段が折り合いつけば欲しいな、、、今回の「KG」関連で観た写真集やポートフォリオの中では一番良かった。イメージ量に痺れた。

 

約700ページの大半を匿名の土地のイメージが占めている。不法投棄の現場に共通しているのは、周囲に山や川しかない何もない場所、「里山であることだと改めて気付かされる。都市生活・生活民から遠く離れたところでは、目に見えないうちに人に気遣わない開発・処理が進行し、気付いた時には施工が始まったり汚染が広がったりしている。

同会場の「KG+」・外山亮介《トンネル》も、里山で進行する問題(北陸新幹線延伸に伴うトンネル開発)を取り扱っていた。

 

 

写真集の表紙をめくった裏に1970年(昭和45年)からの年号が並んでいる。これは高度成長に伴うごみ廃棄と環境汚染の問題に対応すべく「産業廃棄物」が定められた(「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」公布)年であり、同時に不法投棄の歴史も始まったということになる。

直近では2021年7月3日、大雨の影響で発生した伊豆山土砂災害(熱海土石流)が、実は河川の上流部に業者が不法投棄した産業廃棄物とともに造成した盛り土が流れ出したことが原因だと言われている。大雨、台風や地震といった自然災害が常である限り、日本列島を蝕む不法投棄はいつか必ず、里山を越えて人の住む場所へと流れ込んでくるだろう。

 

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( ´ - ` ) 後編へつづく。