「KYOTOGRAPHIE」本体プログラムがゴージャスな空間表現の「写真祭」なら、同時開催プログラム「KG+SELECT」は今が旬の、階段を駆け上がろうとしている写真作家らの闘技場。むしろこっちの方が「写真作品」の実直な現在形を示しており、二つは対の、不可分のプログラムだと毎年実感している。
今年は8名の作家が登場。2回に分けて4名ずつレポします。
【会期】R4.4/8~5/8(KG本体と同じ)
最初にいうけど後半4名はこちら。
( ´ - ` ) 枠組みのおさらい。
「KG+」は「KYOTOGRAPHIE」のサテライト展示プログラムだが、作家が自身で会場を確保し、個別に自由に行う展示について、応募のうえKG+運営委員会の選考を経ると「KG+」プログラムとして加わることができる。自由で緩く、会場も作風も完全にバラバラだ。
更にその中でも今回取り上げる「KG+SELECT」は、KG+とは審査体系が別枠(両方同時に応募も可能)で、KG+実行委員会とKYOTOGRAPHIEメンバーが選考に当たる。選ばれた作家は皆同じ会場での展示となり、制作補助金20万円を用いて空間演出を行う。
また、会期中には審査員が見て回って審査が行われ、最終日あたりにはグランプリが選出される。グランプリ受賞者は翌年度の「KYOTOGRAPHIE」本体プログラムでの展示が可能となる。
そのため「KG+SELECT」は、作品のコンセプトの強度のさることながら、自分の割り当てられた展示スペースをどう作品化するかも含めて、しのぎを削った戦いとなる。いつも展示経験豊富な作家や、他でも名を見聞きしたことのある作家が登場するので、鑑賞側にとっては見逃せない展示となっている。ありがたや~。
【A1】王露(Wang Lu)「家」
いきなり畳を敷いた和室が現れるが、これには理由がある。テーマ/被写体は「日本に住む中国人」とその家の中であり、日本・中国の暮らし、文化が物理的に交わる様を特集しているのだ。畳=「和」の上に載る4本足の展示パネルと赤いスポットライトは、映画や中国料理店で目にする中華風のしつらえを思わせる。
この畳は飾りではなく、鑑賞者は上がって自由に動き回りながら、作品パネルの裏面や照明の文字を見ていくことになる。
仕掛けとして面白く、作品テーマにばっちり合っているが、写真の細部やパネルの裏面を見ようと動き回るには(他の鑑賞者もいるので)スペースが狭く、結局は畳に上がらず外側から鑑賞するのが一番よく見える。しかしそれだと細部が見えない。なかなかもどかしい形態ではある。美術館のように広いフロアなら効果的だっただろう。
本作が面白いのは、中国 or 日本という「どちらか」の、二分法では割れない生活者と住まいが写っていることだ。作者自身が日本に来て5年目を迎える中国人という身で、「自分の考え方が段々日本人化していると自覚している」と書いているように、異色の人物らの客観的な記録・観察というよりも、自分自身を見つめる・見つけ出す眼でもあるだろう。そしてそれは「日本」というものをも照り返す。
モデルガンのコレクションと『日本に来てからこそ得られる興味です。中国では買えないでしょう?』の台詞との組み合わせは、刺さった。中国の状況よりも、漠然とした「日本」の姿形を物語っている。Twitterでは頻繁にマンガやゲームにおける性・暴力の描写を巡って「表現の自由」が議論になっているが、「日本ほど表現の自由の保障された国はない」とのコメントが必ず付される。改めて納得する。こうした奇妙さは自分(自国人)だと気付かない。ズレた形で交わっているから気付くのだ。
また、年齢層がやや上の人物では、部屋も服装もどっしりしている。「文化」と身体の交わり方は時間や経済力に比例するということだろうか。同じ「日本に滞在する中国人」でも、ものすごく身近なところで例を出すと、私と同じ学校で写真を学んだ写真作家・湯澤洋(Tang ZeYang)の場合は中国人留学生を特集しており、もっと簡便で身軽な、仮住まいの部屋が写っていた。この差は面白い。
湯澤洋「我我ワレワレ 中国人留学生ドキュメンタリー」dohjidaishop.com
他国の人達と「日本」という場に同居しながら、なかなか隣人のことは分からないものだ。写真(家)がそれらを結び付けてくれるのは有難いし、写真の役割・機能が再認識できるのは嬉しい。
【A2】高杉記子「むすひ」
浮遊感のある、不思議な印象の展示である。大伸ばしの写真が掲げられていて、床面積が大きい。サイズが大小様々で法則性がなく、額装もないことに加え、写されているイメージも、黒と赤の夜空と花火、古い地図、古い絵と、過去の歴史イメージが現実の風景へと混ざり合う。
中でも、白く光るソーラーパネル群の上を歩く古い大名行列?の絵が合わさった写真と、廃木の詰み上がった小山の上に立つ古い馬の絵の写真は、現実の光景と昔の絵とを合成していて、薄々は気付きながらもただちには「東日本大震災の被災地」だと断定できなかった。
本作では、被災からまもなく地元住民らにより再開された「野馬追」(のまおい)について、地元住民との歴史的な関わりを特集している。ステートメントによると、「野馬追」は約千年の歴史を持ち、3.11の震災後だけでなく、天保5年(1834年)に疫病が蔓延した際も、明治維新の混乱期も、また昨年のコロナ禍にも、規模を縮小しながら継続されてきたという。
福島県相馬の「相馬野馬追」については公式サイトでご覧ください。
パネル状の大きな写真の裏には、巻物状の作品があり、野馬追と地元と作者との関わりが語られる。
余多ある「3.11被災地の写真作品」の中で、本作は現在(現実の光景や人)と歴史(記述、絵)という、虚実の往還にも似たイメージの混交に挑んだことが、独自性に繋がっていた。逆にそれは、展示形態(床や壁の模様や間取りのせいもあって?)とも相まって、ふわふわとし、掴みどころのない感が否めなかった。写真集の形態なら印象はまた違ったかも?
しかし被災地の歴史と人物だけでなく、跡地にソーラーパネルがひしめく光景といった、現在形の状況を扱っていたことが、強度を、強い興味をもたらした。
【A3】林 煜涵(Lin Yuhan)「850nm」
真っ暗な部屋である。ライトが貸し出され、照らしながら鑑賞する。部屋の突き当り一面に張り出された写真群、ライトを当てると、黒い写真の中の像が白く浮かび上がる。直立した群集の行進がそれぞれの写真に写っている。奇妙な行進だ、集合的な意図を持ったように、何もないところで集まっている。維新派とか前衛的な劇団の街頭パフォーマンスか、それともキャストを使って志賀理江子のごとく亡霊を演出した作品かと想像した。
ステートメントから、赤外線によって街頭・歩行者らを捉えた写真だと判明した。デジタル一眼レフを改造して特定の波長の赤外線だけキャッチするようにしたうえ、防犯カメラと同様、人感センサーが反応した時だけシャッターを切る仕組みにしているという。更に、撮った写真を複数重ねることで、歩行者はどこへ向かっているのやら、意思があるような無いような、亡霊の行進のような様相を帯びる。
可視光が切り捨てられているので通常のモノクロ写真より褪せた、奇妙な色味で、都市の構造物は昔の、戦時中の光景に見える。人間は白く光り、一層行方知れずの彷徨い感がある。兵士の霊の幻想のようだ。記憶の、というより、記憶に基づかず、知りもしない戦争を引き合いに出すたびに動員される、イメージとしての英霊か。動員されても還る場がなく、都市に溜まり続けているかのようだ。
都市を歩く群集の像を重ねると亡霊になる、これは石田省三郎『CROSSING RAY』を思い起こさせた。3.11震災後、計画停電で街から光が失われたことを動機として作られた作品で、交差点の四方から撮った写真を合成したものだった。
本作は石田作品よりもずっと人間の質感がヌメッとしている上に、灰色なので、時代が戦中ぐらいに遡る感じがする。記憶にない記憶、それはまさしく戦中の様子を撮った写真のイメージを「記憶」として私(達)が保持しているからで、つまり本作は過去の写真イメージを呼び出す構造となっているのではないだろうか。その意味で、監視カメラの機能を模しながらも、監視や都市機能への批判は薄い。
【A4】岩波友紀「Blue Persimmons ー青い柿ー」
この数年で活動が評価され、急激に露出と知名度が高まっている作者である。東日本大震災から10年という節目に当たって、被災地と現地の人々のことを、そして放射能汚染を忘れてはいけないという社会の意識というか、良心のようなものが、10年に亘って現地で撮影に取り組んできた作者のことを評価したのだと思う。皆が被災地のことを支援し続けられるわけではないし、日々の生活の中で覚え続けていられるわけではないから。
2019年に東京・大阪のニコンサロン展示、2020年にユージン・スミス賞受賞。写真集の方も『One last hag 命を捜す』(青幻舎、2020)から、第4回 入江泰吉記念写真賞受賞によって制作された『紡ぎ音』(入江泰吉記念写真賞委員会、2021)、同美術館での受賞記念展示「紡ぎ音」(2021年2~3月)を経て、更には写真集『Blue Persimmons -青い柿-』の制作支援をクラウドファンディングにて呼び掛けていた(2021.5/31終了)。
このクラウドファンディングでの紹介記事が、作者の活動について分かりやすいので、詳細はこちらをどうぞ。2021年中での赤々舎からの発刊を目指していたが、現在も鋭意制作中のようだ。
ちなみに、入江泰吉記念奈良市写真美術館での展示「紡ぎ音」はこんな感じでした。被災後、被災者らが再び立ち上がって、「祭り」を復活させ、祭りによって住民らが結ばれ、「地域」が再生していく。
本展示は、これまでの被災地での取り組みについて端的にまとめている。吊り下げられた写真を両側から見ていくスタイルだが、個人的には枚数を以て、壁面でしっかり1枚ずつ向き合うオーソドックスな展示も良いかと思った。(大阪ニコンサロンの展示を見逃したのが悔やまれる…)
やはり印象的なのは、オレンジ色鮮やかな柿の実が織り成すレッドカーペットの写真。謎めいて神秘的なカットだが、これは放射能汚染によって廃棄せざるを得なくなった福島県特産「あんぽ柿」だという。作者は廃棄された柿の山が、ブルーシートに覆われ、青いフレコンバックで積み上げられた放射性廃棄物の山に重なったという。タイトルの「青い柿」はそこに由来する。
本作では福島の放射能汚染を扱っているが、主役は地元の土地と人々である。防護服姿で、草ぼうぼうの家のあたりを歩く住民とおぼしき人のカットと、前向きに菜畑や漁船をバックに立つ人たちとの対照が、状況が前へ、未来へ向かっていることを表しているように見えた。当然そんなに簡単な話ではないが。本作はあえて前を向くことを語っている。恐らく被災地・住民らが、前を向いて生きているからだと思った。
------------------------
毎年のように、福島第一原子力発電所事故、東日本大震災を扱った作家/作品が1~2名は選出されている。いつまで取り上げ続け、評価し続けなければいけないのか、という素朴な疑問がないわけではない。同じではないのかと。いや違いはあると。その問答をいつまでやるのかと。
しかし根本的に、時が過ぎて他人事になればなるほど、なんというか、いち生活者として社会人として、東日本に対する後ろめたい気持ちも微かにある。贖罪というわけではないが、それを解消してくれるのが、写真家/写真作品に触れて、現地のことを「知る」一時なのだという実感がある。自分は関わったぞと。私は関心を捨てていないと。
これは美談ではなくもっと色々な事柄を孕んでいる。もちろんそんな目線で「KG+SELECT」にノミネートされているわけではない。例えば選考委員に外国人、ことに西欧の人が入っていたらば、「日本」の現在と歴史を語る上では外せないのかも知れない。
思えば、終戦後もヒロシマ・ナガサキは著名な写真家らによって、絶え間なく撮られてきた。時間を経て、現地と住民の状況が変わるにつれ、撮り方、語り方も変化していき、今現在も撮り続けられている。「東北」や「福島」はまさに写真史におけるヒロシマ的なものとなりつつあるのかも知れない。関西にいると分からないことばかりだが、色々な意味と縁が生まれているのだろう。
( ´ - ` ) 後編(A5~A8)へつづく。