二つの展示は1960年代から80年代にかけての日本と、80年代ニューヨークがそれぞれ主題となっている。日米… 米国の背を追ってきた日本と、荒みきっていた米国。
児玉房子「1960-1980」(@The Third Gallery Aya、2025.5/9-6/7)
北島敬三「NEW YORK」(@VISUAL ARTS GALLERY、2025.4/26-5/30)
- ◆児玉房子「1960-1980」(@The Third Gallery Aya、2025.5/9-6/7)
- ◆北島敬三「NEW YORK」(@VISUAL ARTS GALLERY、2025.4/26-5/30)
2つの展示は直接的に関連するわけではないが、敗戦からアメリカの背を追い、憧れながら復興を遂げ、近代化と経済発展を果たしてゆく日本と、辿り着いた時にアメリカの中心地が見せた素顔とがここにある。戦後昭和、日本人写真家は日本と米国で何を見たのか。歴史の連環は興味深いシーンを露わにする。
◆児玉房子「1960-1980」(@The Third Gallery Aya、2025.5/9-6/7)
同ギャラリーでは過去2回、児玉房子の展示を観た。展示「criteria」(2018)は1990年に発表された同名の写真集からで、80年代後半に近未来都市と化した、膨張と自己増殖の止まらぬ東京が写されていた。対称的に「児玉房子の『大阪』」(2023)は60年代の大阪の姿を見せてくれた。それは今の大阪からは考えられない、地元・田舎みの溢れる素朴な光景だった。
児玉房子の作品は、戦後の高度成長期を経て、更に過剰な成長を続け、遂には世界でも稀な、独自の近未来を極めた「日本」の道程を現すものだった。
今回の「1960-1980」はその名の通り、写真の仕事を始めた60年代から80年代までを概括する。これはフランスの出版社・Chose Communeから写真集『Fusako Kodama 1960-1980』が発刊されたことの記念展でもある。
<★Link>「写々者」販売ページ
https://www.shashasha.co/en/book/1960-80
どの写真がどの年代かを当ててみようとしたが、ものによっては意外と難しい。地方はまだ農村主体で土着的な風景を湛え、人々の暮らしや風貌が開発によって完全に塗り替えられてはいない。それでいて舗装された道路や電気が通っていたり、コンクリートが写り込んだり、おばあさんの切り盛りする店らしき家の中にはファンタ(コカコーラ瓶)が入り込んでいる、つまり近代化・欧米化が旧来の「日本」に流入してゆく過渡期である。それは駅舎内で、頬かむりをした老婆と背後の広告「DISCOVER JAPAN」の対比によって一層鋭く明白に示される。
1970年前後、戦後復興から消費社会へと移行してゆくなかで、全てが広告化し、写真化し、地方が「日本」らしさという商品化され、消費されてゆく。「日本」が幻想となってゆく中で、写真にはリアルな「日本の」生活者として、現地の人々の風貌が写る。過渡期において変わりゆくもの、変わらないものの混淆が見いだされる。
これらと両輪となるのが都市部で、1960年代後半から沸き起こる学生運動、ベトナム反戦運動だ。「ベ平連」、ピースマーク、「LOVE、」米国旗をあしらったバイク、長髪…といった現象とモチーフだ。冷たい都市化へ反動的に、土着性と連帯へ、熱へと回帰しているようでもある。世界の潮流としての共産主義革命、そして米国のベトナム戦争と反戦運動に「日本」は敏感に反応する。だがそれらも更に都市が成長し経済性を高めてゆく中ではいつしか不在となり、都市の主役はコンクリートと広告、サラリーマンとファッションに譲られる。「男は黙ってサッポロビール」広告看板は通行人よりも遥かに大きく、マスメディアが「リアル」を創出する。テレビ局スタジオ内でモニタをチェックしている眼帯姿の若者は、1970年代・若き日のタモリではないか?(そしてマスメディアを忠実に身体化し体現した人間がモデルケースとされてゆく)
揺れ動きながらも確実に一つの方向へ向かってゆく「日本」がある。展示は時系列ではなく写真にはハンドアウトにさえも個別の撮影年が記されていない。鑑賞者が「日本」を迷い歩きながら再構築していくのだ。結果、明確な分類や切断ができないことに辿り着く。さらば「80年代」という時代は思いのほか厄介で、バブルだ開発だ高層ビルだと思っていたが、しかしどこか農村的土着さと明確に線を引けない空気感も残る。戦後昭和の分水嶺としか言い様がない。欧米化をすら超えて高度に広告化・メディア化してゆく「現代」への土台が見られる一方で、それ以前の未成熟さーーアメリカを憧れ仰ぎ見ていた時の風貌も残されているのだ。
◆北島敬三「NEW YORK」(@VISUAL ARTS GALLERY、2025.4/26-5/30)
既に複数回催された展示なのだが、機会を逸していたので大変ありがたかった。2024年11月にPCTより写真集『NEW YORK』・新版が出版された記念展として、様々な場所で数珠繋ぎに展示が行われてきた。
まずは2024年10月末~11月に東京・小伝馬町の「MONO GRAPHY Camera & Art」、次に同年12月に東京・新宿の「Place M」と「photographers’ gallery」での2会場同時展。ギャラリーだけでなく書店でも、小宮山書店(東京・神保町やBOOKNERD(岩手・盛岡)などで展開されてきた。
関西では、京都・西陣の「芥」で2025年2月に、大阪・本町「ニコンプラザ大阪」で3月に展示があり、そして今回の大阪・堂島「VISUAL ARTS GALLERY」に至っている。
写真集の「新版」というのは、1982年に白夜書房から出たものがまずあって、その再版ではないということだ。今回「新版」の展示/写真集は、1981・82年に撮られたモノクロ作品に加えて、80年代後半のカラー作品が追加されている。
同じ80年代ニューヨークでも、両極の写真である。構図はがっちりと共通化されていて、縦位置の中心線に人物を据える、もしくは横位置で人の顔を首から上だけにアップしてど真ん中に据える、という2通りが貫かれているが、現場の目撃者としての汚濁のリアリズムと、ファッション写真のごとき研ぎ澄まされたキレとの両極がある。
具体的には、80年代初期のモノクロでは、路上の黒人らが明らかにズタボロの姿でそこにいる。
すっかり忘れていたが、80年代のニューヨークというのは治安が極めて悪く、犯罪の温床となっていたのだった。マフィアが支配し、薬物や売春が横行、白人は危険を避けて郊外に住み、地下鉄は落書きだらけ。『ロボコップ』さながらの世界観である。1994年にジュリアーニが市長に就任して以来、有名な「割れ窓理論」に基づいて治安改善がなされたわけだが、改善後のイメージが私の中で定着していたようだ。2001年の「9.11」同時多発テロ事件以降も徹底した安全管理・テロ対策がなされていたことも印象に輪を掛けているだろう。
80年代ニューヨークと治安については、少し検索するだけでも色々と出てくる。
しかし北島敬三の80年代初期モノクロ写真に写るのは、治安、犯罪の問題、アメリカ社会やニューヨーク諸地域の抱える病理ではなく、そこに生きる人達の姿である。ざらついた路上にたむろし、往来し、生きる、黒人らの姿だ。瞬間的な切り取りなので彼ら彼女らが一体何をして暮らしているのかは分からない、だが現地に住む人であることは確かだ。風貌から、顔や髪の汚れ、服のヨレ方から、表情から、いわゆる「美」的な被写体ではなく、直視すべきか迷う「リアルな」状況である。声をかけて撮ったらしき正面を向いてポージングありのものと、通りすがりに隠れてシャッターを切ったものとの差が、ひりひりと焼け付くような空気を醸している。警察に囲まれて引きずられる黒人男性の姿はより一層不穏だ。
日本が敗戦以来、憧れを以って背を追ってきた「アメリカ」は、いつの間にか凄まじく殺伐としたものになっていた。ベトナム戦争が泥沼化して以降、アメリカ自身にもどうしようもなかったのだろう。世界最強の西側諸国のボスは、深刻に病んでいた。
黒人だけではない。正体不明、身元不明の人々が、艶やかに個性を放っている。こちらの写真は鋭くキレがある。アーティスト?パフォーマー?モデル?彼?彼女? 職も性も判定ができない。クラブハウスか路上か分からないが夜の何処かで、性差のみならず職も社会的立ち位置なども全方位において規範的模範的「正しさ」から少し異なる場所に生きている。オムニ・クィアな者たちが鋭くスタイリッシュに写されている。ダイアン・アーバスよりもストリートのソリッド感を強めて、ニュートラルに、切り裂くように立っている。
カラー作品の方はスタイリッシュなモノクロ写真を発展させたものと見える。貧困や生活苦のリアリズム写真ではない。どれもウィリアム・クラインを更に尖らせている。胴体手足すら切り落としてソリッドさを切り立たせ、首から上の彫刻的肖像へ推し進めた。ドキュメンタリーでもなく単なるスナップではない、近いとすればTV画面で、インタビューに応じた人物に言葉を喋らせるため、画面中央に首から上をクローズアップで置いて言葉と口元を迫真のものとして取り上げる手法。TV的リアリズムと言うべきか。
正面切って個々人の顔を、自然光の明白さにおいてしかとフレーミングすることで、マジョリティもマイノリティももはや同じく「個」であることを強く表している。他の誰でもなく、何という分類に振り分ける必要もなく、その人はその人でしかありえない。
この「個」の強さに一人一人向き合う力量が、北島敬三の力である。後に「PORTRAITS」シリーズに向かう土台のようなものがある。都市のストリートから、人そのものへと探求は移り行く。しかし、本当に、これらの人物スナップはタフで、かっこいい。この宝石のような強さこそ、日本の永遠の憧れであり目標である「欧米」のコアなのだろう。それは何からやってくるのだろうか?
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( ◜◡゜)っ 完。