絵画のプライドと安心感が満ちていた。
アンゼルム・キーファーの神話めいた世界観は《星空》(1995)、国立国際美術館の収蔵作品で何年も前から触れていたので、お馴染みのものだった。上半身裸の男性が、地面に仰向けになり、星空を見上げている。黒い星空は縦長の画面の大部分を占める。男性は目を閉じていて、いよいよ魂が天へと昇華されるように見える。その場面にいつしかこちらも引き込まれている。そういう絵画である。
「ソラリス」展も神話的なスケール感で、大きく、こちらを包み込むような物語性があった。
何の物語か。私には「絵画」の世界そのものに思われた。
絵画が不滅であるという世界だ。
まずは展示タイトルの通り、「太陽」が全体を貫く大きな主題、世界線にあることは間違いない。
屋敷の入口前には崇高さを帯びたモニュメント《ラー》(2019)が聳え立ち、両翼を生やした円形のフォルムを空に見上げれば、それは太陽を模した神に見える。ただこの円形プレートは裏側に回り込んでみれば絵を描くときのカンバスであり、太陽と絵画(における光と色、描くことそのもの、世界)とが複合した世界観・メッセージであるとストレートに伝わってくる。
台所の屋敷の荘厳な入口の段を上がれば、暗く重厚な影と木造建築の中に、巨大な、立体彫刻すれすれの絵画が広がる。岩石が直接貼り付けられたカンバスに、逆さを向いて叫びを上げる顔がある。《オクタビオ・パスのために》(2024)、全体として何が描かれているのか明確には分からないが、黄金の地平線に向かって岩が連なり、道のようになっている。希望の絵なのか? だがこの世の風景というよりも、この世が割れるように亀裂が走り、周囲は太陽の炎熱によって焦がされた荒地のようでもある。
カンバスが物理的に凹凸を帯びている。岩と絵の具がバキバキに浮かび上がり、一枚の絵の中を見るというより、四辺の枠を超えて空間全体に絵は広がっている。それが亀裂と黄金と共に叫びを上げているのだ。絵画の領域を超えているようでいて、しかし純度の高い、真っ当な、伝統的な絵画である。いかにコラージュ的に立体物を直接貼り付けても、絵の具と筆致がより厚くより濃くそれらを覆っていて、抜け出すことはない。すさまじい引力で統制されている。
これはフィンセント・ファン・ゴッホ《耕作地の風景》を範にとった作品だが、ゴッホの描いた土地がロバート・オッペンハイマー所有の地であることを知り、原爆の父――原爆投下への怒りと非難からこの作品が作られた。
キーファーは1945年、第二次世界大戦直後に生まれたドイツ人であり、負の歴史といかに人類は生きるか、それに沈黙するのか否かを問うてきたアーティストである。ここにはゴッホの風景へのリスペクトと、原爆への怒りの叫びとが同居した、相克する太陽の光景がある。巨大な絵画における叫びは勿論、ピカソの《ゲルニカ》に通ずる。ひいては、絵画が黄金色とともに不滅の世界へと達するかにも見える。
…と書いてはいるが、原爆のくだりは後に解説を読んで知ったことだ。各作品に込められた意味や歴史性はそれぞれにあるが、解説が貼り出されているわけではなく、必要に応じてQRコードからスマホで見てねという温度感だった。要は空間丸ごと感じてくださいねという展示だった。必然的に、太陽と絵画の二つの重ね合わせとして受け取ってゆく。
《オーロラ》(2019-22)も似た構造を持つ。大画面の絵画全体に黄金の空が広がる。線が複雑に連続した枠組みが刻まれている。星座ではない、もっと建築物、鯨のワイヤーフレームのような線だ。そして手前には古い乳母車があり、中に黄金のパレットが積んである。
この回答は、ロシアの巡洋艦オーロラ、そして映画『戦艦ポチョムキン』の階段と乳母車である。やはり戦争の歴史と記憶が主題なのだが、観ている時には気付いていない。ただやはり、黄金がもたらすものとして太陽の永遠の光を感じた。絵画が不滅であるという福音。これは神話への扉を開いたのだとも言える。そして本来の作者の意図を汲めば、戦争、略奪、軍事的な歴史的出来事をそのまま、キャンセル不可の、不動の神話へと昇華させるものとも考えられる。
ケースの中に種の落ち切ったひまわりの彫刻《ダナエ》(2018-24)などの作品もまた、太陽を連想させる。本来の意味では農業神話、豊穣、脱工業化政策などをテーマとしているがステートメントを読んでいない私には難しいことは分からない。確かに途中のケース入りの電気の線や電球、ハンマー、溶接用手持ち面などの作品については、「太陽」や「絵画」からだけでは把握しきれない。これらは錆びていたり、砂に埋もれ、近代的工業文明・工業社会の終末の光景に感じられる。
そうして順路を進んだ先、広い御清所をフロアを埋め尽くす一面の麦畑《モーゲンソー計画》(2025)に至って、黄金と太陽と絵画の関係性はMAXに達する。
モノとしてぎらぎらと光っていたり「麦」として完結したものではない。一本一本作られていて、まさに絵で描いたように細部はいびつで、色を塗り重ねたように乾いてくすんだ色をしている。中には黒い穂もある。こうした無数の、リアルだがいびつな穂が表すのは、まさにゴッホの描く、太陽の光を帯びた、絵画の中の麦畑である。塗られ、描かれ、陽光を地上で体現するメディウムとしての麦だ。
同時に、二次大戦終結前の1944年にアメリカ財務長官ヘンリー・モーゲンソーが立案したドイツ占領プランの一部:ドイツ弱体化のためにその重工業を解体するという政治・戦争・支配の歴史が、ここには重ねられている。20世紀の世界の行く末を左右し、世界の歴史に深すぎる傷を遺したドイツ、そこに生まれた作家ならではの深い洞察が込められている。――鑑賞時には一切気付いていないのだが。
太陽と絵画。本展示で私はとてつもなく「絵画」というものを肯定された気分がした。私は絵描きでも絵画研究家でも何でもないのだが、まるで自分の感覚が正しかったと前面肯定された気分になったのだ。
何故だろうか?
非デジタルの、太陽によって光を帯びる世界。彫刻でもコラージュでもインスタレーションでもなく、記号や経済や電子的デバイスや関係性や異議申し立てや多様性などではなく「絵画」。塗りと盛りとが全てを表す/現わすという世界。全世界からの同時接続がなく双方向通信がなく、太陽がある世界。そして絵画原理主義的に、神話へと直結される世界。
要は、アナログで、複雑な主権・主格を想定せず、大きな歴史と神話に身を委ねることの許される空間だったのだ。
それは1980~90年代に生まれ育った私という人間の身体感覚として、シンプルに直結できるものだった。デジタルデバイスや相互コミュニケーション、通信と関係性、多様性という正義、資本主義とグローバリゼーション、etc…は、その後に追加されたものだ。本展示は私個人にとって原初的な感覚を総ざらいして、訴えかけてくるものだったらしい。
そしてここまで「絵画」を力強く、絵の域を超えて迫ってくるような作品・展示もまた、稀有な体験だった。絵画のプライドと安心感。それに包まれたのだった。
シンプルによかったです。
※図録がむちゃくちゃ高くて買うのを諦めた(7,800円)
( ◜◡゜)っ 完。