今年のKYOTOGRAPHIEの中で、最も「これ、ほんまにどうなるんやろう…」と勝手に危惧していたのが、この展示。
CHANELとマンガのコラボ、しかも『約束のネバーランド』作者(白井カイウ×出水ぽすか)という、それたけで完結しそうな組み合わせ。企画としてはいいけど「写真」はどこに行ったん??? と。
しかし、空間構成のテンションの高さと、そこにスポット的に投入される写真、これが予想外にいい塩梅でした。
◆ぬぐわれた懸念
毎年多くの世界的企業から文化事業としての協力・支援を受け、コラボ企画を繰り出しているKYOTOGRAPHIEにとって、CHANELは重要な協働パートナーである。特にCHANEL(CHANEL NEXUS HALL)の絡む企画はこれまでも、ファッション写真史、クラシックな著名作家のコレクション展から、春画とのコラボ企画など、「歴史」と「文化」の背骨を鷲掴みにして提示してきた。その王道の姿勢が今回も貫かれている。
・・・というのは、時間をかけて展示を観たから言えることであって、この外観・キービジュアルだけを見て「うむ、これはJapanese Bunkaだ」と分かるはずもなく、開催前はHPを見ながら「いやこれ、滑ってるんじゃ…」と不安になっていた。そういうチャレンジがあるのがKGの良いところ。
この会場自体:誉田屋源兵衛がしばしばチャレンジングで、昨年はウィン・シャ《一光諸影》で、映画のフィルムのように直線で展示台を貫き、またそれ以前には春画との空間コラボレーションを行っていた。かと思えばメイプルソープや深瀬昌久といった「古典的な」ガチンコの写真を堂々と扱う。不思議な空間である。
今回の空間では、情報量と編集力の密度とテンションが振り切れていた。そのため、漫画のストーリーに描かれた「お約束」の安定感、ともすれば予定調和に対して、眼が漫画のコマの外——会場自体へと向かされて、CHANELというブランドと、それを立ち上げたガブリエル・シャネル(いわゆるココ・シャネル)という傑物に目を向けさせるバランスが成り立っていた。
結論から言うと安心して楽しめる。では何が魅力だったのか?
◆漫画の立ち位置、効果
まず本作の主役である「漫画」について考えたい。本展示は、ミニマムな写真と、マキシマムな漫画絵とで成立している。
これは多くの人が想定する「マンガ展」「マンガ原作展」の形態とはやや異なっている。
最大のポイントは、展示の主役が移り変わることだろう。
展示は全3章の物語から成るが、完成品の漫画(リアルの漫画)、ラフ絵や細切れ(抽象化、流動化された漫画)、CHANEL関連の写真と資料(リアルの史実)という3つの要素が空間上で交錯し、組み合わされている。
この組み合わせの主従関係が、章の進行によって組み変わる。最初はCHANELのリアル史実が、リアルの漫画を食うように主役として引用され、この漫画世界がCHANELの歴史や哲学に強くリンクしていることを打ち出している。だが1章ラスト~2章でマンガのコマの主張が逆転し、今度は漫画世界の「絵」、登場人物へ観客を引き込んでいく。
更に最後の第3章では、完成品のリアル漫画は間引かれ、その周囲に断片的にコラージュで配されたラフ絵の密度と情報量が上回る。観客はいつしか完成品のコマではなく、抽象化された漫画の空間の方を読んでいる。
全体の主旋律としては、完成品であるリアルな漫画の各ページが物語を進めてゆく。あくまで漫画で主体ある以上、展示には右から左へと流れる時間系としての「物語」がある。会場の動線はその流れで作られていて、観客は基本的には額装された1ページずつの漫画を読み進め、展示を摂取し消化してゆくことになる。
だが完成ページの掲げられる壁面には、それと近接あるいは該当するコマのラフな下絵が断片的に大きくプリントされていて、各場面がエコーし、エコーがオーバードライブし、情報と情緒の増幅が起きている。これが最終盤に向かって加速していく。
今回の漫画をまとめたKG特製コミックがあるのだが、これを読んで比較してみると、通常の完成品としての漫画であるため非常に安定しており、描線と色遣いが丁寧な漫画、という感想に留まる。すると会場にあった異様な引き込み力=物語を牽引する原動力は、実は完成されたリアル漫画ではなく、その周囲を埋め尽くしていたラフ画の描線:抽象化した漫画の方にあったのではないか、ということに気付かされる。
完成された原稿は美しい。スミが入り、コマの枠線が揺るぎなく固定され、1コマごとの主役の絵と背景とセリフと記号とが分業と統御の美を見せる。
しかし壁面にプリントされているラフ絵ではそれらの構成要素が混然一体となり、コマの統治が破られた、漫画の力、線の流動性そのものの勢いが解放されている。その効果は同じ筆圧で書かれたセリフの文字にまで等しく及んでおり、原作者・白井カイウと作画者・出水ぽすかの生み出す「生」の力が最も生きていたのが、この隠れた主役である壁面:ラフ絵の氾濫だったと感じるところだ。
◆ストーリー前半:CHANEL「No.5」で真の女性へ
会場および漫画は全3章から成る。第1章『Sorciēres ―魔女―』、第2章『Menteuse ―嘘つき―』、第3章『Corneille noir ―カラス―』である。
第1章と第2章は同じ「竹院の間」で続けて展開されるが、それぞれ女児と女子大生=女性が主人公である。キャラとしては別人ながら、性別上も時間軸上でも連続性があり、ひと続きの成長譚として読み進めることができる。
また、どちらの章も、主人公の成長や自我を支え、ガブリエル・シャネルのハートを伝えるのが、CHANELの代名詞である香水「No.5」で共通している。そのオーラは香水のボトルと黄金の液体から、最終的には主人公に付き従って歩く二頭の黄金の獅子の姿で描かれ、大人の都市生活に必要な全て――美、自立心、尊厳、力、エゴイズム…をもたらしている。
1章と2章の連続性の間には、実は少女の夢・憧れから大人への成長の飛躍があり、それは秘められた宝石箱のように憧れに満ちている。それを象徴するのが2章へと続く開廊の、鍵穴の形をした通路だ。この演出、子供の目線から観た時にどのように映るのか聞いてみたいところだ。
この鍵穴の向こうへと歩を進めるのを後押しする勇気や力=鍵をもたらすのが、大人への階段「No.5」である。女児や女子を、真に一人前の、大人の「女性」へと導く力を持っていること、その役目をリアル世界で100年間も、世界中で引き受けてきたことを、各種の資料が物語っている。CHANELのNo.5は女性の歴史そのものである、とすら言えるだろう。
そうした印象を深めさせるのが、「No.5」とは何かを語り尽くす動画のエンドレス再生である。これはもはや広告・宣伝ではない。深い陶酔感と高揚感を与える詩であり、マニフェストである。
これはYouTubeの自動翻訳ではなく、会場の画面で翻訳を読んでほしい。日本語が美しい。
◆ストーリー後半:解き放たれる男子
第3章は会場を「黒蔵」に移し、設定の多くが反転される。主人公は男子生徒(高校3年)に、壁面=背景は黒ベースとなり、前章までのテンプレート的な、言わば古典的な成長ドラマではなく、日常・周囲のクラスメートにマッチできない普通の男子の生きづらさという、今日的な話題へフォーカスされる。
そして先述のとおり展示上の主客も反転し、完成品の漫画は一部しか提示されず、逆に壁面の断片的なラフ絵の方が、飛び地になったストーリーのコマを埋め合わせているため、ラフ絵=壁面=空間全体を眼で読むようになる。
「自分らしさ」の気付き自体が困難な社会において、それを解放することは実はとても難しく、むしろ逆に常識という「檻」の内で、同質性に適応するよう自分を強迫的に追い立てている・・・多くの平凡な男子にとって身に覚えがあるかどうか分からないが、そんな内情を打ち破ることが物語の肝だ。男性は筋肉質で体形に恵まれていなければならない、学生は仲間とノリを合わせなければならない、若者は個性と将来への可能性に満ちていなければならない・・・
ここではCHANELの個別のアイテムではなく、主人公とクラスメートが「スカートを履く」という行動によって、ガブリエル・シャネルの生き様を継承し、体現している。既に古典である「CHANEL」の精神が、現代人の悩みを解決するのに大きな後押しをしているのが面白い。ここまでくれば、個人の解放、自分らしい生き方というテーマ自体が「CHANEL」の精神であると、作品によって自然と重ね合わせられる。まさに「ブランド」の語義そのものだ。
重要なのは、スカートを買いに行ってその勢いで履いて街を闊歩する男子学生2人:主人公とクラスメートが、性的マイノリティではない点だ。主人公はどこまでも「その他大勢」にしか分類され得ない。凡庸なヘテロセクシャルであり、性自認その他属性の揺らぎを持たざる者で、ただただ模範的な「男性らしさ」に欠いていることにコンプレックスを抱いている。
「贅沢を言うな」と言われそうな立ち位置だが、これぞ「自分」を語るものを持たない、多くのマジョリティ構成員の実情ではないか。全てが肯定されている立場であるがゆえに何も持てないし、自分からでは埋もれているので客観視できない、という矛盾の苦しみである。大人になればじきに解消されるのだが、10代~20代半ばには地味にキツい。懐かしく共感した。
たかが香水、たかがスカート、しかしその変身の効力は侮ることができない。そのことはKYOTOGRAPHIE・プログラム【⑨-a】ンガディ・スマート《多様な世界》でも更に明らかになる。
◆「写真」の立ち位置
以上の通り、漫画とストーリー構成を手放しで絶賛してしまった感があるが、「写真」の話題はどうしても後退する。実際、会場でも存在感は薄い。では「写真」は何処にあるのか?というと、完成品の漫画、ラフ絵の描線とセリフ、色とりどりの壁面、宮殿めいた額装・・・そうして作られた「フィクション」の合間に挿入される。
それは「史実」としてのフィクションである。
写真は、ガブリエル・シャネルという傑物を、世界的にも写真史的にも著名なファッション・フォトグラファーが感性と技術の粋を凝らして撮ったものだ。マン・レイ、セシル・ビートン、ダグラス・カークランド、フランク・ホーヴァット・・・ シャッターが切られるたびに、一人の人間は洗練されたファッションの「伝説」へと格上げされていったことが伝わってくる。
ロベール・ドアノー撮影(1953)
ベレニス・アボット撮影(1927)
フランク・ホーヴァット撮影(1958)
漫画パートが語る自己実現の力、夢を手にする力を、この人物は自ら編み出して実際に道を切り拓いていったのだという思いがする。ファッションというフィクションを体現する人物像である。それを写す写真もまたリアルを元にしたフィクションという合わせ鏡だ。
写真は他にも、本人のファッショナブルな姿だけではなく、幼少期の姿や、CHANELの広告・宣伝に関するものもあり、史実の証言によって展示・物語全体を支えている。この史実がなければ、漫画家が描いた色とりどりの輝きはここまでの奥行きを持たなかったのは間違いない。
家族が撮った?ガブリエル・シャネルの写真。入口から入ってスタート地点は彼女の生い立ちがベースになっている。
第1章中盤~2章はCHANELというブランドの史実を紹介している。
カール・ラガーフェルドの撮った《1930年代のドレスを着るモデル、1989》
ファッションという壮絶なフィクションの「現実」。
という感じで「写真」は機能していた。
だが液晶画面で、漫画の絵がデジタルな光と色を帯びたり、紙にインクではなく液晶画面内で作画ソフトによって描いたり消されたりしながら、少しずつ作られていく早回しの動画を観ていると、「写真」と「絵」の境界線がとてつもなく薄くなったことに思い当たる。両者はデジタルコンテンツ(あるいは仕事の質)として非常に近接しているのだ。
Lightroomやphotoshopで現像・レタッチ処理される写真と、ペンタブで作画・着色されてゆく漫画・イラストとは、同じ土地に立った建物内で、少し別の部屋に居るに過ぎないのではないか。そんな思いがした。
( ´ - ` )完。