nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.9/24-10/28 横山大介「言葉に触れる身体のエチュード」@VISUAL ARTS GALLERY

実際には写真展ではなく、映像展示が主で、もっと言えば、「言葉」を再取り込みする身体的レッスンである。私達の。えっ?

 

 

「10代・20代のころは吃音に大いに悩まされていましたが、今になってようやく自分自身の吃音を個性のひとつだと受け止められるようになってきました。」

そうステートメントにあるように、横山は吃音を主題とした作品を発表している。私が作者のことを知ったのは「KYOTOGRAPHIE 2021」のサテライト展示企画「KG+SQUARE」の場だった。

 

喋りかけられる手前のような大きなポートレイトに見つめられて、不思議な気持ちになったことを覚えている。だが説明文を読まず写真を見ただけであれば、吃音という主題には気付かなかっただろう。

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今作でも雰囲気は似ていて、ステートメント等の説明言葉では明確に触れられている、ものの、作品・会場の外観では全く吃音というテーマを気付かせない。当事者性を押しつけないというスタンスの他に、吃音という症状が見た目には気付かれ難く、理解され難い状況をそのまま転写しているのかもしれない。

 

作品(動画内)では、作者がドラム演奏レッスンを受けている。が、実際にレッスンを施されるのは作者だけではない。むしろ私達の方がレッスンされていくのだ。えっ。

 

今ある身体をいつもと異なる動きで解きほぐして、新たな律を学び、体へ導入してゆくのがレッスンの基本的な形で、まさしく本作で施されるものだが、体育や音楽の授業、部活から遠ざかって久しい社会人にとっては新鮮でさえある。つまりそれだけの年数、体と感覚は一度身に付けたものを抱えたまま固定されて硬直している。

言語も同じだ。

 

本作ではレッスンの構造が二つの方向に反転している。

まず一点目は「正しさ」について。演奏のレッスンで二人が常に参照する譜面は、吃音を持つ作者が、日常生活の中で発した言葉を録音して書き起こしたものなのだ。

つまりこのレッスンにおいて「学ぶ」のは、社会で一般的に「正しい」とされている言葉・発語ではなく、エラーである自分自身の発した吃音の言葉を正確になぞることなのである。

 

世間的に「正しい」言葉・発語をそっちのけで、逆に矯正されるべき扱いを受けている言葉・発語の方が、このレッスンの場においては「正解」として、対話とレッスンの柱となり目的地となって繰り返し参照、実演されている。この逆転は、穏やかながら非常にスリリングである。個人間での物々交換に適した通貨を逆開発するようなものだ。それは、聴いている私達の心身を徐々に解していく。

映像のみならず、手書きの譜面もフレンドリーで穏やかなので油断してしまうが、実際にレッスンされ、見直されてゆくのは、私達鑑賞者側の身体が培ってきて、無意識に抱え持っている「正しい言葉」である。

それはまるで財布の中の紙幣がただの紙切れになり、代わりに差し出される未知の図柄や素材の札を正しい通貨として受け入れていくようなラディカルさすらある。身体の中に備わった私達の「正しい」言葉の書き換えが、本作で繰り返されているレッスンなのだ。

 

 

二点目は、転換である。言葉や発語動作そのものをレッスンするのではなく、発語を書き起こした楽譜のドラム演奏をレッスンするという、質の異なる情報へ転換する点が特徴的だ。

 

本作は作者自身の吃音という幼少期からの悩ましき身体のエラーを主題としているが、その矯正に向けたレッスンが試みられたり、あるいは生きづらさの追体験が鑑賞者に施されるのかと思いきや、ストレートに「正しさ」を求める作品ではない。

そして当然ながら、ドラム演奏の習熟は目的とされていない。

ドラム演奏は、一度身体の外に出された吃音の言葉を、意味・ニュアンス、音韻、音質その他を体に再構築するためにレッスンされる。「言葉」というものを360度立体的に、フィジカルに捉え直す。すなわち「音楽」へ転化させるのだ。

 

一度、作者の身体から発出され、録音→譜面へ転換された「吃音」は、「音楽」である。そもそも幼い頃から、全身を使って言葉を絞り出そうとする身体感覚を抱いていた作者にとって、吃音とは音楽的リズムを伴うものであった。10代の頃から吃音を客観視したいという欲望を持ち、作品を作る以前から吃音を録音したりそれを聞いたりもしていたという。それは自分の身体の一部でありながら体が意のままならぬ「バグ」や「フリーズ」の状態であると表現される。

 

また、全体を見ると、本作は情報の転写から構成されてされている。自身の発語を録音する、譜面に書き起こす、それをドラムでなぞる。音楽家の翻訳を経て複写するように反復していく。譜面も、音楽家の菊池有里子が手書きしたものを作者が更にトレースし手書きし直している。こうした「写す」作品であることを踏まえると、本作は写真的であるとも言えるだろう。

 

二人の男性がドラムに向き合って、交互に、ああでもないこうでもない、と試行錯誤、正しい譜面のニュアンスを音として出せるようレッスンしている。平和で穏やかに見える二人のやりとりこそ、前述の通り、「正しさ」として受け入れてきた言語的秩序をひっくり返す身体的レッスンなのである。

( ´ - ` )完。