幻想的な物語でした。という一言を、確信をもって言えるまでの、あれこれについて。
断片的に、象徴めいた1枚ずつの写真には、直線的な繋がりがなく、しかし並びの順に連なっていく道があって、じぐざぐに、回ったり潜ったり、時に戻ってみたりしながら、その続きを目で追っていった。
ここはリアルの世界ではない。だがリアリティのある世界。
「幻想の世界」「物語の世界」「夢のような」・・・そういった形容ばかりが胸に湧いてくることに、違和感と罪悪感を覚えた。 ・・・こんなにも分かりやすく、分かりやす過ぎる言葉は、分かりやすいがゆえに何も形容していない。何も触れていない、表面ばかりだ・・・。
いつもこの手の言葉を使うのは心底避けたいと思ってきた。しかし時に、堂々と認めなくてはならないと気付いた。ここは幻想で物語なのだと。「Star Boy―洪水の夜―」は、身体全体で見る夢のように厚みのある幻想譚だ。
表現物に対して、特に写真に対して「幻想」や「物語」という言葉を使うことには本能的なためらいが生じる。フィルムしかなかった時代を経てきた世代のせいなのか、「写真には客観的真実、物理的外界が写されるべき」ことを絶対零度の基底として、そこから写真がスタートしている自分がいる。幻想や物語は写真の本質からの逃避であり、ひいては写真を語る際の態度として逃避的であるという価値観が、実は内在している。
だがそれもまた写真の真理の片理でしかなく、モダニズムの構造体を縦横に貫く回廊を、もし堂々と全力で逆さに歩けば、いずれはその領地の外に出ることになる。周囲に広がる深い森には、夥しい闇と霧と夜が木霊する――物語の源泉としての不可知な夢や記憶の揺らぎがある。
理を危うくする森へと降りず、闇に呑まれずにそれらを構造の内から知覚し観察すること/あるいは構造を意図的に脱して生のままの体で森へ闇へと自身を投げ込むこと、それがモダニズムという世界観であり態度であったとすると、垣本の今作は、モダニズムの構造体の内部に不可知の森を疑似的に呼び込もうという試みに見える。モダニズム写真の真と偽、現と幻は地続きで併存しているが、その領域の分布を混線させるところに 演出の力点が置かれ、それゆえに幻想の物語が強く表れる。
今作は3部作構想の第1章であるという。ステートメント、実際の作品、ともに完璧な「物語」であり、夢語りそのものだ。
古いアルバムの中で見つけた1枚の写真、学生服の父がレンズを凝視している。一度だけ見たその写真のイメージが頭から離れない。
イメージは作者一人の空想に止まらない。父親が生前に語ったこと、身近な人々によって語られたこと、父親とその母親にまつわるエピソードも交えて本作は再構築されているという。
過去作「Little World」(2001年発表)では、ピンク色の風船がタイル張りの部屋に無数に浮いている光景に象徴されるように、大人でも子供でもない少女の微細な感性、夢のように浮遊感のあるファンタジーが演出・構築されていたが、基本的な制作手法や姿勢は共通していると言える。しかし作品の対象となる事柄の射程が遥かに広く、深くなった。
今作は自身の感覚というより、複数の他者の、しかも異なる時代や世代、性別の言葉、イメージから構成されている。物凄く安直な言葉で言えば、微睡むように夢見る少女から、懐胎や死をその身に孕んだ大人になった。前者は自己の感傷の内に生き、後者は自身でもままならぬ外部との兼ね合いに生きる。それが「物語」という他律を生んでいるとも言える。
ここでは言葉とイメージは直線的にではなく、地面に散らばった星の欠片を数えるように拾い上げられたのだろうと想像する。更にその起点は、遥か過去の父親の写った「写真」の「記憶」という、イメージのそのまたイメージから始まっている。語りの道筋も誰かから伝え聞いた物事の繋ぎ合わせ、断片から伝承を引き受ける形となっていて、確かなもの、形としては何もない。
だが一方で、本作の写真を構成する像とその元手となる被写体はこれ以上なく確かな輪郭と描画を伴ったものとなっている。
言わばそれは実在である。手を加えた演出であろうがなかろうが、逆算から狙い澄まして選ばれた光景であろうが偶然の瞬間の断片であろうがなかろうが、写真に写っているのは物理的にも確実な現実である。それらは作者の個人的な心象や情動とはまた別のところで撮られている。
この物語をどう解釈/構成し、中身をどう肉付けしていくかは、シリーズの道筋と結末がまるで見えない中では、鑑賞する側にかなりの部分が委ねられていると言える。だが、記憶の、言葉の、イメージの断片は、散乱せずまとまった律で情景を奏でる。不確かなはずの言葉と記憶の欠片は、並べて配置されてなお、その空隙を埋めて繋ぐような強い力を有している。直線的な読みが成立しないようでいて、しかし物語として時系列の流れが生まれている。
その力の正体こそが、外界をしかと写しとった写真の像なのではないか。ビジュアルの率直な強さが、垣本作品を単なる耽美や私的に閉じた思い出、感傷にはさせず、外部へと明確に接続してゆく。物語、幻想の形をとってはいるが、実は現実・外界をありのままに写そうとするモダニズム的なドキュメンタリー写真と、対極的と言えども構造上は地続きなのかもしれない。
写真の像、被写体が、作者の外に位置する事物そのものである。一般に/私達に前提として共有されていない世界観であっても、それを描き出す一つ一つの言葉や語り口調は現実のそれであるから、強い浮遊感を伴い、不思議さ、幻惑へと、私達は歩いてゆき、いつの間にかその中に入り込んでいる。
これを以ってして「物語」と呼ばず、何と呼ぶのか。
学生姿の父親は森の中で流星を見たか。あるいは彷徨う中で流星となったのか。
母親と呼ぶべき人が何者かを懐胎したのを見たか。
あるいは自身がもう一度受胎へと還ったのか。
深い森の中で臨月の体は川となって、あちらの世界で「彼」は生まれ直したのか。
言葉と共に「彼」の生と物語が、「私」へと憑依するように移り変わるのか。
物語は続く。
( ´ - ` )完。(つづく)