nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.12/13~18 ヒガシジユウイチロウ「A=A A≠A The Proxy for what have seen.」@KOBE 819 GALLERY

1枚の写真に2000回のコピーを繰り返すことで、オリジナル(コピー元)とコピー先は「A=A」の関係からどんどん離れていき、どこかの時点で「A≠A」に至る。

前回までの3部作では複製のプロセスを示し、その前後を比較・対比させて提示したが、今作では次のプロセス「みたことの代理」を加え、「作られるべきだったもの(我々が知っておくべきだったもの)」という3点目を加えている。

 

【会期】R4.12/13~18

 

2020年12月に発表された<A=A A≠A(Ring)>と同様、モチーフは「富士山」の写真プリント(印刷物的な白黒イメージ)が用いられている。会場には最小限の展示物が配されている。壁に掛けられたモノクロの富士山の写真。その反対側に置かれた細長い台に、オブジェのように並ぶ3つの分厚いアクリル。コピー元となる富士山の写真、コピーの繰り返しによって情報の失われた富士山の残骸、そして何もない透明な小さなアクリル。その上の壁には英語のフロー図。

ヒガシジ作品ではこれまで、説明的要素を最小限に抑えて展開されてきた。

写真を扱っており、写真というジャンルで扱われているが、テーマを写真で語るのではなく、オブジェ的な配置と接続(あるいは切断)によって語り(あるいは語らず)、そして作者らの口頭説明によって作品の意図・意味が語られ、観客はそれらを観ながら聴きながらその場の空間と頭の中で「作品」を理解、つまり作品を成り立たせ、完成させるという構造をとってきた。まさにコンセプチュアルアートである。

当初はコピーによって画像が変形/劣化するプロセスのヴィジュアルを作品として見せていたが、よりコンセプト自体へダイレクトに接続するための展示形態をとるようになっていった。作者の本業がエンジニアであることが、展示物の配置と連動によって何かを出力しようと試行する動機へ結び付いているのかも知れない。

 

2020年12月の前作《A=A A≠A(Ring)》の展示についてはこちら。

www.hyperneko.com

 

今作は、前作までの「オリジナル対コピー」という構造に対し、新たな視座を生み出そうという試みである。

作者が繰り返したのが脱構築という言葉だ。平たく言えば、多くの物事の考え方の前提となっている二項対立を疑い、それを成立させている構造を問う考え方である。

前作までは、「A(コピー元の画像)とA´(コピー後の画像)」という二者について、「イコールとなるか、ノットイコールになるか」という問いを行っていた。等号・不等号の両端にある二者の関係を扱う考え方である。

これを本作において「脱構築」し、三角形のような構造へ展開しようとしたのが、壁のフロー図である。前作まではコピー元・コピー後の画像とも「A」という共通の呼び名を用いていたが、今作ではコピー元を「A」、コピー後を「B」と分けて記述している。そして、「A→B」の変換を繰り返した結果と反省から導かれる、「本来あるべきだったA」という第3の像を「A´」と記述している。

 

「A´」のために置かれたのが、何もないアクリルである。

作者の説明を聴き、「A´」は「A→B」の工程を経て、それぞれの試行(思考)者が各自で気付いたり思い描く「あるべき」像であると理解した。

「A→B」は作者から一方向で提供できるが、「A´」は受け手に委ねられており、それだけ無数の「A´」が存在しうる。

そのため、実在として示すことはできず、アクリルは透明である。問いと回答欄だけが与えられているような状態である。「何もない」と言われてなお、そこに「何か」が仕込まれていることを期待してアクリルを何度も覗き込んでしまう。

いや、作品を観る上で「A´」という解を自分で導いて描き出すに当たって、「A´という何か」を思い描くためにはやはり漠然としていて、空手では無理なので、何もないアクリルを覗くという挙動が必要になるのだ。展示に訪れた段階では、我々は思考のフレームを自分の内側に持っていない。何もないと分かっているアクリルを覗いて、見えない像を見ようとするのは、何もない所に何かを浮かび上がらせるのに無意識的に不可欠だったからだ。そのことに今気付いた。

つまりアクリルという(作者側の)思考のフレームを覗き込むことで、そのフレームの出力機能を借りて「A´」を出力しようとしているらしい。

 

これは本タイトルにある「Proxy」(プロキシ:代理)の意図するところに繋がっているかも知れない。

何より我々鑑賞者がproxyを必要とするのは、当然ながら我々は作者が行った2000回コピーという身体的な試行を実践していないためだ。それに加えて、展示では2000回コピーを身体的に追体験するための材料がかなり限られている。

「ほとんどない」というのは、無いわけではない、「A」と「B」を表す写真/オブジェには、紙を2000枚分積み重ねた厚さのアクリルが置かれている。このクリアな厚みが「A→B」に至るコピー行為の積み重ねと、成果物の物量を想起させる。アクリルはとても厚い。proxyの利用によって「2000回コピー」身体性の先へと進めるのは不可避の流れだろう。

コピー後の紙をそのまま積まず透明なアクリルで表したのは、作者が前作までの試行をそのまま本展示へ持ってくることを「二項対立」あるいは「直線的」であると見なし、その解消に向けて、着眼点を「A´」へ移行させようとしたためだ。

 

本展示は興味深い経緯を辿っている。

展示構成を巡って、作者が指示書(フロー図)に込めた展示意図と、ギャラリスト野元氏側の解釈・想いとが噛み合わなかったという。だがオンラインでも展示会場での対話でもそのズレが解消されることがなく、私の訪れた前日・12/17(金)の晩の時点でもなお双方の意見は平行線を辿っていて、「何なら夜の間に展示を直してもらってもいい」と野元氏が譲歩を示すも、「展示はギャラリスト側に権限がある」との作者の認識により、結局変更は行わなかったという。

争点となったのは、作者が意図した脱構築、二項対立を脱する構造にはなっていなかった点だ。むしろ前作までの流れをそのまま継承した直線的な配置になっていることが作者にとって疑問点となった。

一方でギャラリストの野元氏側も、作品が難解であるためにどう解釈すればいいのか掴みかねること、来場者に理解できる流れや関連付けをする必要があること、そもそも指示書(フロー図)では意図を読み取り切れなかった、などの事情があった。

また更に、対話においても作者はある種かなり客観的なスタンスをとり、野元氏の求める(というよりおよそ一般的な人が求める)「対話」のキャッチボールの土台には乗ってこず、「展示を直してくれ」と求めるわけでもなく、しかしTwitterでも問題点を断片的に指摘し続けるという、奇妙な状況が続いていた。

 

このあたりのズレと奇妙なもどかしさの継続している様子が、「KOBE 819 GALLERY」インスタライブでも公開されている。

www.instagram.com

噛み合わない対話を通じて、ヒガシジ作品=「不親切な作品」という認識について改めてぶち当たっているのがよく分かる。

 

Twitterとインスタライブを見たことで、「この展示は観に行かないといけない」と思った。

アーティストと企画者や美術館側とが、展示の在り方についてしばしばTwitter等で不信感や理解不足、誤読を巡って論争になったり、時に告発になったりすることがあるが、ここでのやりとりはもっとシンプルで素朴なもので、当事者の二人が誠実にやろうとしているだけだった。それゆえに実際に見ないといけないと思った。

 

唐突に結論というか観た感想を放り込むと、作者から説明を受けながら鑑賞して、作者の意図に沿って納得することが出来た。誰もいなくて展示だけを観た場合にどうなったかは分からないが、作者と野元氏の衝突したポイントを踏まえると「脱構築」、「A´」へ向かおうとする作者の意図へ注目しようという動機が強く働くので、そのバイアスも今作には有利に働いた。

 

作者の構想で言えば、3つのアクリル作品は直線的に配置せず、フロー図のように3点を離して(例えば三角形のようにして)脱構築の構造を表したかったとのことだ。構想としては、会場で「A」として置かれた富士山のコピー元イメージは「A´」として扱うつもりだったという。

代わりに「A´」としては、冒頭で紹介した、壁に掛けられた1枚の富士山の写真が担っている。

「A´」、あるべき像としての富士山は、あえて写真そのものではなくシルクスクリーンで出力されている。ドットで描画された富士山はまさに「べき」の層として存在するイメージにふさわしい。

ここに、個々人の個別解釈・理念「A´」であることから更に昇華した、具体的・具象的なコピー原版「A」に対する理論値(「A´コア」とでも呼んでおく。)として現れる。「A´」群を統合・象徴しうる上位概念と呼ぶべきか、それとも万人が心象のレイヤーとして共有している潜在イメージと呼ぶべきか悩み所だが、ともかく本質的な、核となるイメージとして現れる。

「A´」の提示によって更に作者が言及したかったのは、これまで作品(本体であり制作フロー)の出発点としてコピーの原版である「A」を「オリジナル」と呼んでいたが、「A´」の出現によって、それらを象徴化させた「A´コア」へ辿り着いた時には、それこそが個別具体的な「A」に対する「オリジナル」と言えるのではないか? ということだった。

 

すると本作は、物事が抽象化・概念化されるプロセス、そして抽象化により結晶したイメージが更に/再び、個別具体的に持っていたイメージを純度化しうる、循環的なプロセスを作品化したとも言える。脱構築」というワードが必要だったのは、前作までの経緯を知っていて前提となっている人間に対しては、既存の認識にかなり強い力のスイッチを掛ける必要があったためだろう。

経緯は色々とあったが、個々人の中に「A´」を浮かび上がらせるための展示上の工夫は、幾らでも出来そうに思った。

 

だが真に恐るべきは、ここまでして損なわれたり失われることのない――むしろ抽象化の霧の中から、意識の集合体のようなものとなって再び姿を現す「富士山」だ。

本展示では、作品制作・展示・理解のフローに関する動作確認の方に意識を向ける必要があったため、「富士山」というモチーフは議論の外側にあった。

だが展示・鑑賞上のフローが整い、不問となった時、「富士山」というシンボルと我々に溶け込んだ心象、メディアによる流通と公共化との関連、ひいては戦争、通貨、国家、国民・・・といったものなどが、必ず話題となるはずである。

吉田志穂《測量|山》とは異なる切り口と移相で、メディアとイメージについて対峙しなければならないような――とてつもなく大きな山が控えている気がする。

 

※アクリル、めっちゃお高い上に、発注しても制作に何カ月もかかる上、微細な扱いで傷が付いたり、更に怖いことに、ごく僅かな厚みの差などが原因で、積んだアクリルが「ツルンッ」て回ったりしたとのことで、作家(志望)の皆さんは憧れても安易に手を出さない方が吉です。話を聴いてて怖すぎました。ツルンッて。おお(怖)。

 

 

( ´ - ` ) 完。