nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&トーク】R4.11/18~30 青木大祐「vanitasism」@新宿眼科画廊

自分の口にモノを詰め込んだセルフポートレイトにカビを生やす、3部作の完結編。第1部「Absorber」は食べ物、第2部「JANUS(ヤヌス)」は花、そして今作「vanitasism(ヴァニタシズム)」「文明」がテーマ、様々な人工物を模した小物が登場する。万物を受け容れる口――青木大祐は聖杯なのか??

 

【会期】R4.11/18~30

 

口、口、口・・・ 全て作者自身の「口」である。字で書くとゲシュタルト崩壊を容易に催すところだが、口は器となり盛られた具体物が主役となっているので崩壊は起きない。むしろ器としての安定ぶりを見せつける。

私は関西在住で写真展を見に行くことが出来なかったため、会場写真とフォトブックを参考にしながらYouTubeライブ/作家トークに参加した。本稿ではトークで交わされた内容も踏まえながら、今作「vanitasism」をはじめ、3シリーズ全体について自由読解を行ってみる。

 

◆「vanitasism」展示概要

青木大祐は写真作家であるが、器でもある。自らの口に様々な物を入れて(容れて)セルフ撮影し、撮った写真にカビを培養したものを再撮影して作品に仕上げる。ほぼ統一された制作手順の下で口に容れる内容物を変えながら、下記の通りこれまで年1作のペースで3シリーズが制作された。

  • 1作目「Absorber(アブソーバー)」2020年11月_食べ物
  • 2作目「JANUS(ヤヌス)」2021年10月_花
  • 3作目「vanitasism(ヴァニタシズム)」2022年11月_人工物、文明

 

今回の「vanitasism」展示では、これら3シリーズを同時展開していることが特徴的で、前2作はやや混在されているが、全体を見渡した時にはシリーズごとにゾーニングがなされている。そのためフォトブックで「vanitasism」単体として見るのと異なり、もっと広い領域について言及した作品であることが伝わる。単なるベスト版としての展示ではなく、これまで大口を開けてきたことが、実は人間の営みの全方位に及んでいると知れたのだ。そのことを決定的にしたのが、近・現代文明を容れた「vanitasism」である。

 

 

◆展示トークYouTubeライブ:R4.11/19)

R4.11/19(土)21~22時、YouTubeチャンネル「いわなびとん」にてオンライン作家トークライブが催された。参加者は、作者・青木大祐、写真評論家・打林俊、チャンネル運営者/カメラマン・尾藤能暢、そして私の4名である。

 


www.youtube.com

 

トークの主線律としては、展示の構成や3部作を通してのテーマ性・作家性について、主に「vanitasism」フォトブック巻末に掲載された寄稿文:打林俊「カビの墓碑銘―青木大祐の3部作に寄せて」から語るものになった。

テキストの主旨は以下の通りだ。作品名「vanitasism」の由来である「ヴァニタス」とは17世紀頃のバロック期に流行した静物画のジャンルであること。生の虚しさや儚さを表し、花やドクロがモチーフに多用されること。作品を見てすぐに、17世紀・フランスの画家ニコラ・プッサンの作品《アルカディアの牧人たち》に描かれた墓石の墓碑銘「Et in Arcadia Ego(我もまた、アルカディアにあり)メメント・モリ的な警句を想起したこと。カビに侵された作品群は、これら過去の美術を系譜としつつ、現代における新型コロナ禍など不穏な情勢とも結び付き、大いなる「文明の死」を物語っていることなどだ。

 

詳細はこちら。なお全2作のブックは既に売り切れ、再販の予定もないとのこと。

crevasse.buyshop.jp

 

トークでは上述のように絵画「ヴァニタス」の系譜、「文明」と「死」というテーマを話題にしつつ、あくまで本作は作者自身が自分を撮った「セルフポートレイト」作品/行為であることが確認された。これは身体パフォーマンス表現のように見えて、パフォーマンスはフィニッシュではなく写真を撮るための準備・土台であって、前後関係が異なる。

トークで印象的だったのはカメラマン尾藤氏が最初から最後まで悔しがっていたことで、自身が青木と似た組み立てから創作的セルフポートレイトを撮っている(日常の何気ない場面を使い、自分自身を演技的に・素材として投入する)ため、してやられた感が強かったのだろう。3部作がガチンコの同業者にとってどういうものだったか、反応が伺えたのが面白かった。

 

 

◆今作「vanitasism」作品について

論考「カビの墓碑銘」だけでなく、作者ステートメントでも「文明」と書かれているためテーマを疑う余地はないが、フォトブックで今作のみをクローズアップして見た際には、「文明」という言葉はあまりに大きく、戯画化されたモチーフに比して大袈裟すぎやしないかとの懸念も抱いた。カメラや地球儀の現物を咥えるわけにはいかないため、オブジェの多くは当然ながらミニチュア玩具なのだが、とりとめのなさから日常性がテーマなのかとも思案した。

だが全3シリーズが詰め込まれた展示会場の写真を見て、それらが一貫して人間の営み全般を扱ってきたことが分かり、その中で「vanitasism」が近・現代の「文明」を引き受け、肉体・生や死と拮抗する大三角形を描いていることに気付かされた。

視野が開けると「vanitasism」で登場するそれぞれのオブジェが、実は人間文明を象徴する言葉となっていることにも気付いた。歯車は産業革命以降の産業、機構、動力。米国のコインは富、貨幣、通貨制度。テープやカメラは記憶媒体、通信、メディア。クリスタルのドクロは死と不死。一つ一つが「文明」を網羅するための象徴語として列挙されていた。

中でも最も印象深いのはやはり、フォトブックの表・裏表紙に掲載されたモチーフ:黒い歯車の機構(恐らく時計の中身)と半透明のクリスタルドクロ。前者は近・現代とは産業化・工業化し続ける世界であったことを端的に示し、後者は遥か昔から人類が死の宿命を帯びつつ、不死・永遠への憧れとともにあったことを象徴している。だが最も注目すべきだったのはミニ聖書だったかもしれない。この点は後述する。

 

有象無象のオブジェ群を支えるのが作者自身の口・歯なのだが、今作はこれまでになく制作がこなれているため、何度見ても「口」であることを忘れてしまう。肌をシルバーに塗られて「口」はオブジェと同化し、その周囲のカビの生やし方が巧みであるため口の輪郭そのものが画面内で溶け合い、額・カンバスと化して後退している。肉体の力、身体性が1st「Absorber」との大きな差である。今後、同じような趣旨・手法から作品制作を行う際には、身体性の取り扱いが大きな分岐点となるであろう。

 

 

◆前2作「Absorber」「JANUS」について

再び展示会場を見ると、前2作は肉感と色彩が豊かで、食材コーナーのようでもある。「口」の肌色が強い、中央の花の色が強いことで、食品に近いイメージを醸している。

 

私は1作目「Absorber」発表時、インスタライブでの作家トークにて作者の聞き役を務めた。作品の概要などは当時のblogを参照されたい。口一杯に野菜や果物を詰め込んだ力技のセルフポートレイトは、誠実な異様さがあり、食べ物を口に入れているのか・食べた物が孔から排泄されようとしているのか、有無を言わせず混乱させてくる身体表現であった。そもそもこれは「表現」なのか?何を以って「表現」と言えるのか? そんな直球の問いをも催させる。

www.hyperneko.com

 

「Absorber」では口元・唇の肉色をそのまま出し、髭が写っている上に、カビを育てる寒天培地の透明なゼリー質が口元に掛かって、濡れ × 肉体という身体性の相乗効果が効いていた。更に、カビの勢いも強い。回を重ねるごとにカビの扱いに慣れて制御できるようになったというが、この時点ではとにかく御しきれない勢いが1枚1枚に詰まっていた。つまり作家コントロール不全の衝動が写っていて、「写真」的な「良さ」があった。

2作目「JANUS」は一転して、口元を白く塗り、カビを全体的に白く厚くモヤのように配し、抽象度を高めている。つまり「死」のトーンが演出されている。フォトブックのどのページを開いても均質でフラットなトーンが保たれていて、棺が並んでいるような感じがする。実際、顔をグレー寄りの白で塗り、花を咥えているのだから、それはもう弔われた死者そのものだろう。

展示会場の写真を見る限り、抑制とコントロールが効いている。「Absorber」が肉々しくて苦手だった人(私でさえ生理的には心地良いものではない)には逆に受け容れやすかったかもしれない。だがカビの支配が増したイメージ群はやはり「モック人間」ならぬ疑似死体・アンデッドもどきであり、漲る「生」が気味悪くて「死」が美しく心地良いという逆転を催させるのはまた興味深い点である。

 

 

 

◆青木大祐は聖杯であるか

そんなわけで1作目は人間の「生」が溢れ、2作目は「死」をストレートに模したシリーズとなっていた。そこに3作目として「文明」が加わり、「口」という直径5~6㎝の穴に「人間」の多面的な要素を丸々放り込める三角地帯が確保されることとなった。

人間の生と死を繋ぐもの、あるいは対立するもの――生を救い、補助し、増幅させる力であり、逆に無数の人命を奪い、打ち負かし、汚染し支配するもの、文明。いや、人類の身に起きたこと、人類がやってきたことを並べて表記するならばそれが「文明」である。

産業革命、いやもっと遡って、人間が自然科学に目覚めて以降の営みの表記を「文明」と呼ぶなら、もっと昔、有史のあたりにあったものは何と呼ぶのか。

 

きっとそれが「聖書」である。

「vanitasism」に登場するミニ聖書が鍵となって効いてくる。 

なぜ聖書だったのか? 人間の文明・歴史を語るには不可欠のものだが、しかし菩薩や大仏、地蔵、数珠、位牌など日本人にとって身近なものはここに登場しない。過去作「モック人間」で作者は大仏に変装して東京の街で自撮りをしており、関心がないはずがない。

実は3シリーズのフォトブック・表表紙の裏には、聖書から各テーマに呼応する一節が引用されている。それぞれ以下の通りだ。

  • 「Absorber」:人の苦労はすべて口のためだが それでも食欲は満たされない。(コヘレトの言葉:6章:7節)
  • 「JANUS」:そのほおは、かんばしい花の床のように、かおりを放ち そのくちびるは、ゆりの花のようで、没薬の液をしたたらす。(旧約聖書:雅歌:5章:13節)
  • 「vanitasism」:主は言われた。「わたしは人を想像したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記:第6章:7節)

 

本シリーズはかなり周到に「聖書」を受け皿として配置している。

しかしこれまでのステートメントや発言では、聖書やキリスト教世界については特に言及がなかった。実は作者はクリスチャンだったとか、留学生活経験からリアリティがそっち寄りだったというなら話はそこまでだ。

しかし作品・ステートメントにおいては西欧絵画や現代美術、写真史、科学、文学、哲学など、幅広い「世界」の諸分野にまたがって引用がなされており、聖書やキリスト教が特に強く意識されているわけではない。シリーズを通して見ればむしろ、言いたいこと・接続したいものが多くて多くてたまらない――「聖書」はその中の一つである、という印象の方が勝る。諸要素を受け容れる大きな舞台装置であるとともに、あくまで他と入れ替え可能な、オルタナティブなものではないか?

その効果は大きく、「聖書」はまだ評価の定まらぬ・得体の知れない「青木大祐」なる存在と作品を、その外側にある膨大な世界へと紐付け、奥行きや重みを持たせることが叶う。言わば、「口に物を入れる」幼児的な戯れを、人類史や西欧世界へ超高速接続するための転送スイッチとなる。

 

YouTubeトークで訊こうとして止めたのは、「青木大祐は聖杯であるか」という問いであった。

もし額面通りに、作者・本作が「聖書」や西欧文明・歴史に深く貫かれたものであった場合、作者の「口」は万物を受け容れる器であり、器の中でカビによって熟成されたモノたちは、訪れる鑑賞者らの目へと振舞われる作品=赤き血肉たるワインとして喩えられよう。すなわち「青木大祐は聖杯である」との見立ても成り立つ。

 

だが本当にそうなのか。私はそのような安易な神話を警戒する。青木大祐という作者が聖書・神に対して近・現代美術や諸科学とオルタナティヴに接している――手段の一つとして用いているならば、その作家的態度において、「聖杯」とはどこまでいっても「喩え」に過ぎない。本質ではない。

なぜなら青木大祐という作家は、得体の知れない行動によって得体の知れない作品を作り続けてきた作家であり、どの作品も「聖書」や「聖杯」といった崇高なものへと回収されるような代物ではないからだ。むしろその作品/身体は、聖なる正しさの類に囚われず、逆に聞き分けのない子供のように脱線しまくることで、作家性を打ち立ててきた。

daokis.com

「モック」や「自画曼荼羅」を見ればなおのこと、渾身の遊戯によって「聖杯」はある瞬間の喩えに過ぎないとの実感がある。次のシリーズ、次のシリーズと作成される度に、青木の身体はまた次の形態へと姿形を変えてしまい、「聖杯」という設定をも呑み込んでしまうだろう。常温で次々に変形する柔軟性と、変形先で器としての塑性を保持するために求められる大いなる設定。青木大祐が聖杯なのではない。聖杯は設定の一つとして、呑まれていつしか見えなくなる。

全ては、設定。それが「青木大祐」の本質ではないか。つまり。

 

 

サブカルチャーの国からやってきた児

変身変装・演出のセルフポートレイトと言えば森村泰昌だが、青木のそれとは性質が違いすぎてまるで比較にならない。森村泰昌は学術的二次創作というか、美術史や映画史、歴史全般におけるメディア化されたビジュアルに対する自己検証のような形で、一対一の照応において自身を用いる。

だが青木大祐の変装・演出的セルフポートレイト行為はオリジナルが自分以外に存在せず、無数に散らばった設定を繋ぎ合わせてバロックでコミカルな異物を呼び出す。それでいてふざけた仮装ではなく引用元を問い合わせると先述のように様々な分野へ糸が伸びていてそれっぽく確からしい要素が次々に出てくる。「vanitasism」のオブジェ群はまさに暗喩だらけで設定の宝庫だ。

この構造は、エヴァにおける死海文書やアダムや槍のごとき、聖書的「設定」の物量と重なる気がしている。どこまでも真相・核に辿り着かない幻惑的な要素の乱反射と意味深な層と構造。青木大祐とは世界や文明の「死」をどこまでも虚構的に語るサブカルチャーの体現者ではないか。ただし感傷や自意識や成長譚を交えない(むしろそれらに目覚めるよりも以前の幼少的感性に理知的設定を接続しているのか?)。

サブカルチャー由来の身体であるがゆえに、神も仏もなく、そのどちらをも掌をくるくる返しながらチープな神や仏へと即座に変形でき、引用元を散りばめては組み換えながら「世界」を語れるのではないか。

身体性で言うなら、基本的なところでは、作者は健康な壮年期の男性であり、体力気力ともに充実しておりすこぶる健全、「死」からは程遠い存在であり、特定の思想や信仰、政治的主張も有していない。無垢な子供のように。ゆえに「Absorber」と「JANUS」のごとき、溢れ出す肉としての「生」と、モック的な「死」とを矛盾なく語ることが可能である。気を遣う神がいないために。いたとしてもオルタナティブである。仏をぶつければよいのだ。何なら自分が仏となって。

 

そうまでして表そうとしたのは何だったのか。

「生」「死」「文明」というテーマの根底に流れるものは。聖書/神の世界ではないことは確かだ。自身の身体そのものによって、神から世界の調律をもぎとろうとしているのか? 万物を受け容れ熟成させる「聖杯」に擬態したこの「口」は、オブジェクトを飲み込むことは決してないが、存外、聖書や神のごとき恐るべき権威のことは、舌で転がし、飲み込み、遊びながら「設定」として自身の表現へと発揮・体現しているのかも知れない。異物を飲み込んでしまう子供のように。よもやこれぞ「クール・ジャパン」と喧伝され安売りされたジャパニーズ・サブカルチャーの恐るべき本懐なのだろうか。

 

終盤はかなり確証のない直感的推論である。だが検証を繋げていくとそうなってしまい、当初考えていた読みから、自分でも予想もしていなかった話になってしまった。これは、途中で出てきたカメラマン尾藤氏のセルフポートレイト作品と比較したことで着想を得た部分も大きい。結論はまだ出ない。今後の皆さんの活躍に随伴しながらまた読みを重ねていきたいと思う。

 

( ´ - ` ) (未)完。