nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】坂東正沙子「月讀」(つきよみ)@gallery 176

【写真展】坂東正沙子「月讀」(つきよみ)@gallery 176 

「夜」の在り様を現したモノクローム作品は、了解の失われた「死」の時間を、月光によって催される「詩」の力で紡いでいるように感じた。

  

 

 

夜という生き物を見ているようだ。

 

 

一見すると作品は心象光景に見えるかも知れないが、作者は個人的な詩情とは別のところにある夜を捉えている。それは生き物としての体を伴う。巨大すぎるがゆえに眼前の風景や事物は闇で、黒で、呑み込まれている。会場入口に吊り下げられた暗幕と、突き当りの壁面全体を覆う巨大な写真は、夜という質感のある何者かがそこに在ることを示している。

 

夜「に」写真を撮ることは容易い。必ず毎日やってくるからだ。夜「で」写真に撮ることも容易い。暗さや静まりを踏まえて長時間露光なりスナップなりで撮ればよいからだ。だが夜そのものを招き入れて「現す」ことは存外難しい。夜は私たちを昂らせ、詩を孕ませる私情溢れた世界であるが、同時に万物を等しく闇と静寂に飲み込む普遍的な場、「私」の尽きた後の世界でもあるからだ。

技術と機材を駆使し、夜を舞台として・題材として撮影することは、万人が試みるところだろう。だが、夜を被写体とするのではなく、体を浸すもの、掌や額に触れるものとして、風や水のようなものとして「現す」ためにはどうすればよいか。作者が挑んでいるのはそういった表現であるように感じる。自身の内に湧き上がる高揚や詩を手放し、温度も時の流れもない場を呼び込むことを試みた結果、写真は鑑賞者の顔を照り返すほどに暗く、黒い。

 

月、木々、墓石、蝋燭、手、点在する石、散り散りになる鳥の骨…   それらの被写体は黒い闇に深く包まれている。照明を落とした会場では更に、それらの像を見ることは難しい。像の境界が不明瞭となった暗さ、黒さの澱みを見ることになる。作者が漆黒のモノクロームで表す光景は「夜」自体の姿だ。

明瞭な被写体を失ったとき、作品を「見る」という行為は、目的地を喪失するがゆえに、「見る」体験そのものとしての純度が高まる。

 

それは連鎖反応を起こす。

私はしばしば酩酊の後寝過ごしては終電を無くし、日付を越えた郊外の中を二時間ほどかけて延々と歩くことがある。それはまさに街を歩くというよりも、夜の中を歩いていると言うべき行程となる。酔いと疲労に加えて、暗さと静けさが体を包む。その中では出会うものが全て夜の一部、夜という生体の一部分となって感じられる。了解の失われた世界、本作は夜の闇の中で体験する歩み、出会いにかなり似ている。白日の下では機械的に了解されている時間と景色が、夜の中では不可分に混ざり合って大きな大きな一つものと化し、距離感も掴みづらく、路面も空も木々も雲も体が切り裂く空気も繰り出される靴も手も――「私」すらもがどこか混在する。その時の歩きの体験と、本作を「見る」という行為は重なり合う。ゆえに私にとっては、本作はとても馴染みのある光景として伝わってきた。

 

作者はそんな夜の生態を「死」になぞらえる。タイトルは古来の神・ツクヨミからとられている。ツクヨミは謎が多い神だという。夜そのものが定型外のものであることと無縁ではないだろう。夜を語ることは、「太陽が出ていない」「明るくない」「昼ではない」「朝ではない」「夕方でもない」と、否定形を繰り返すことでしか射程を定められない。

唯一可能な直接話法は「月」だ。人に詩を催させるのは、闇に咲く月の光の効能だろうか。写真を志す人種においても、夜を撮ろうとしない人間は恐らくいない。饒舌に詩を催させる時間帯に、無限に近い人達がかりそめの作家性を発揮するだろう。写真は時を止める。写真は時の流れと光に対して非常に万能である。だが光の乏しい「夜」は、「時」の流れ(=光の運動、事物の自律性)を失っている状態にある。それは「死」が変化や代謝を失い、自律を失った状態を指すのと合致している。闇や死の中にあっては、写真は空転し、行為が浮き上がる。

本作は暗く黒いとは言え写真として成立している。月光の力だろうか。照らされた事物が辛うじて被写体として浮かび上がる様は、「夜」という生き物の現われであるよりも先に、あるかないかの詩に近いもの――「死」との近縁とその美しさを掴もうとする試みに由来しているのかも知れない。

 

現代の生き方、すなわち夜の在り方は多様化している。午前1時、1時半、午前2時、2時半にあっても、仕事に追われている人もいれば、ゲーム内で戦っている人もいれば、LINEの返信に気を揉んでいる人もいる。作者はあえて多様性の沈み込む闇を、古来から続く「死」の時間である「夜」の在り様を愚直なまでに捉えている。それは懐かしく安心させられる世界観だ。

「死」の隠喩は、ここでは肯定的で、個体を超えたスケールの「生」として捉えられているようだ。それを成立させ紡ぎ出しているのは、「私」を離れたところから語られる「詩」、あるいは詩よりもっと未然の、月光の兆しの力だと感じる。それが心地よい。見覚えのあるような、その実、見たことのない光景の写真が、心地よい。

 

( ´ - ` ) 完。