葛飾北斎「冨嶽三十六景」の描かれた場所を辿り、それぞれの図を成立させている画面内の「コンポジション」(構成)に注目して、再構築を試みた写真である。デザインと写実の差異が示される。
【会期】R4.12/6~11
まずざっとステートメントを読んで写真を見たところでは、葛飾北斎「冨嶽三十六景」の描かれた場所に赴き、現在形のランドスケープを撮ったものと解した。が、説明を受けて、これらが場所のトレースとランドスケープの歴史の検証ではなく、「コンポジション」を辿る試みであったことが分かった。
展示会場には写真のみが10点ほど掲げられているが、写真集では北斎「冨嶽三十六景」全46点の図とともに対応する写真作品を掲載していて、本作の意図が明確に掴める。ランドスケープ写真を見せたいのではなく、北斎作品が何から成立しているのか、それに似せた写真を比較した時に何が見い出されるのかといったことを考察している。
「冨嶽三十六景」については、日本文化、美術芸術文化の象徴にして最高峰の一つとして、版画技法をはじめ様々な視点から研究がなされており、紹介記事も多い。ここでは深入りせず、アート系Webメディア「This is media」記事より図像を一望しておこう。
私が写真を見て最初ピンと来なかったのは、ひとえに「神奈川冲浪裏」以外の北斎作品をろくに知らなかったためである。浮世絵は今後の宿題とします。
本作が試みるのは、「冨嶽三十六景」・浮世絵が「コンポジション」、画面内要素の配置の組み合わせから作られた「デザイン画」であることを踏まえ、同じく描写と配置によって事物を表す写真の「写実的な画面」とどのような関係性/差異があるかを示すことだ。
撮影時には場所だけでなく、一枚ずつ似たような画面「構成」となるよう、何かしら現地で使えそうな場面、人やモノ、図形を探し出して似せて撮っている。北斎トレースを、色や歴史性、景色の雰囲気ではなく画面構成から、手元のphotoshop操作ではなく、レンズ1本と現地の事物で試みているのだ。
ただ、構成自体を見せたいため、原作では最も重要な要素・中心である「富士山」を写真からは排除している。また、江戸時代と令和とではあらゆる前提が異なり、特に建物やインフラ、人々の仕事については同じものを写すことは出来ないため、全く異なる事物から「似た構成」を再構築している。
計算されたデザインに偶然性の写実をぶつけた結果、非常によく似た構成を再現した写真もあれば、照応が分かりにくい写真もある。上掲の2枚の作品は前者の代表作で、写真だけを見ると本当に「単なる」写真だが、並べて比較すると作者の狙い、そして北斎画と写真との違いがよく分かる。
その差異は想像以上に大きく、北斎の絵は一見写実的な「風景」に見えて、写真と比べるとまさに四則演算の操作によって高度に整えられた「デザイン画」であると実感できる。実際の風景とは全く別のビジュアルで、「冨嶽三十六景」が視線誘導の導線作り、誇張、抽象化、遠近法の応用や組み合わせなど幾つもの技術と意図の組み合わせで作られている。
そもそも眼が違う。
「冨嶽三十六景」は手前の人物や街並みと、奥にある風景、一番奥にそびえる富士山との関係は、異なる複数種のレンズを1枚の絵の中で使い分けながら貼り合わせたような、異様な画角がシームレスに繋がっている感がある。言うならば脳内で取捨選択・デフォルメされたイメージに近いだろうか。
レンズ1本でストレートに撮った写真はそうはいかない。船なら船、住居なら住居、建設現場なら建設現場が一対一で照合される。意図していないモノや色が写る。だが見えていないものは写らない。画面内のそれぞれの事物の大きさは基本的に遠近法に従う。結果、北斎画より平板でドラマに欠け、しかし細部の情報量は多く、とりとめがない。
この写真の色数と形状を手彫りの版画で再現しても、もはや「浮世絵」とは呼べない何かだろう。しかしこのカットは、首都圏の付加価値の高い景色・環境として、目的を持って「作られた」場所であろうので、他の写真よりも逆に浮世絵に近い構造をしているかも知れない。
もう一つ、浮世絵との比較・照応のために本作に施されたのが「天ぼかし」である。
北斎の浮世絵の上部に走る1本のブルーが、どの写真にも再現されている。和紙に写真をインクジェットでプリントした後、実際に手作業で刷ったものだ。グラデーションをうまく出すのには熟練を要し、専門家に手法を教わって何度も練習したという。
この技法を手掛けているのは京都では「竹笹堂」だけとのこと。
大きな弧を描く海の波を描いた「神奈川冲浪裏」には上端にブルーが入っていないため、それを模した海の写真も上部には入れず、代わりに波の部分にブルーの刷り込みを入れている。また、本来は海の向こうに大きく聳える富士山をあえて消すため、より濃い曇天の日に再撮影を行ったという。
原作の描かれた場所を巡るだけでもかなりの手間だが、木版画の技術を会得するためにかけられた手間を合算すると、大変な手間である。
こうして「コンポジション」という着眼点で浮世絵(デザイン画)と写真(写実画)との比較・照応がなされたが、本来は意図通りに操作できないはずの写真を、偶然の遭遇から逆算で視覚的に寄せていくところは面白かった。
全く異なる事物から再構成された写真を北斎の作品と並べて提示された際に、全く異なるはずの両者を「似たもの」「共通するもの」として受け容れてしまうところに、作者のいう「コンポジション」が効いていると言えるだろう。
一方で、浮世絵と写真の違いに目を向けさせられたことで、両者の差異が逆に拡大し、北斎=浮世絵が想像以上に手強いことも分かった。例えば西野壮平のように無数の写真を貼り合わせたり、北斎のデザインを写真の合成で再現したり、写真を版画の色でデザイン的に出力するなど、異なるアプローチ/手法から多角的に挑む必要があるだろう。
( ´ - ` ) 完。