3人のアーティスト(石場文子、田中秀介、葭村太一)が「尼崎」の街をリサーチし、それぞれ別のジャンルからアウトプットするグループ展。「街」の中で出会う何気ない風景やアイコン、人の流れなどを題材に、ユニークな作品を展開する。
題材となっているのは主に「尼崎」の「風景」だが、3人の着眼点と切り出し方、出力方法はそれぞれ異なる。当然ながら鑑賞者である私達とも異なっているし、共通して当てはまる部分も見いだせる。
「尼崎」という街自体が一言では捉えられないためでもある。
ごく簡単に尼崎市の概要を言おう。
面積は50.7㎢、沖縄市より少し大きく福島県双葉市より少し小さい。兵庫県の南側・大阪湾沿いの東端に位置し、大阪府との県境にある。人口45万人。かつて「阪神工業地帯」の中核を担う工場都市として栄え、沿岸部は今も工場が立ち並び、工場夜景の撮影地としても知られている。
しかし現在ではJR尼崎駅、塚口駅、立花駅、阪急塚口駅など、主要な駅の周りで大規模な再開発が進み、工場からショッピングモールやマンションに転じ、大阪・神戸のベッドタウンとして栄えている。かつてアマの土地柄というと、ダウンタウンの生い立ちよろしく、老いも若きもヤンキー、労務者が多くてガラの悪い・荒っぽい街という印象もあったが、今ではそこそこ稼いでいるけれども西宮や芦屋、大阪キタに住むのは高すぎるといった至って普通の層が多く住んでいる。
Google Mapで眺め回すと住宅と工場と川ばかりが目立つ。一方で、「尼崎城」という約400年前の城が残っていたりもする。
ちなみに阪神球団と阪神電鉄でお馴染みの「甲子園球場」は、いかにも尼崎市っぽいイメージが強いが、西隣の西宮市に位置している。「阪神競馬場」は宝塚市だ。尼崎にあるのは競艇場である。
特徴があるのかないのか分からないような街だが、元々の分かりやすいキャラクター(工場 × ヤンキー、ヤカラ風、虎キチなどの大阪的な地元感)から急激な再開発で洗練されたベッドタウン優等生に様変わりしているためだろう。同じ関西人でもこの10~20年間での変化は戸惑うものがある。
そんな「尼崎」にアーティスト3名は何を見い出して作品を制作したのだろうか。
展示は5室(展示室1~3、和室、倉庫)で構成される。
◆石場文子(写真)
まず写真家の石場文子。「あいちトリエンナーレ2019」や近年の「KG+」(KYOTOGRAPHIEサテライト展示イベント)などでも展示されていて、目にする機会が多い。代表的な作品は、被写体に直接、太い輪郭線を書き加えて撮影したシリーズで、輪郭線はマンガ絵のような平面的記号として過剰に2次元を訴え、3次元の空間を揺さぶる。
本展示では輪郭強調作品は封印され、街の中で見出された「白」がテーマとなっている。
塗装、壁、道路標識などで多用される「白」色は、物理的に白い塗料をモノの上から塗って色情報を上書きしており、基本的には足し算と言えるだろう。だが、それをデジタル写真化する・インクジェットプリントで出力するとなると、色情報の減算によって表される。色データで「白」は「白トビ」のように色情報が無い部分に当たり、特にプリントでは「白」色を出すためのインク機構はないためプリント用紙表面をそのまま塗り残すことで「白」を表現している。
こうした、街の中の「白」がデジタル写真の「白」に転換される際に起きている転換・翻訳の飛躍について本作は言及し、デジタル写真の「無いことで存在を現わす」特性について考察している。
作品は3種類ほど見られた。まず1種類目は、大伸ばしのプリントで「白」を含んだ平面的な光景を切り出したものだ。壁や道路の塗装である。それらは極めて平面的で厚さがなく印刷物のように見える。
街の白い壁や標識は、実際に街の中にあっては、よく見れば厚みやざらつきなど質感があり、天候や時間帯の変化でモノとしてしっかり見えるのだが、デジタル写真になると――より良い出来映えとしての明度やコントラストを求めると、「白」はどんどんデータの「無」として際立ち、純度を高め、起伏や凹凸や厚みの乏しい空白、純粋な平面となる。メタ的な平面、と呼ぶのかも知れない。
2種類目は、白い部分を物理的に切り抜いて空白化させた写真である。写真はボックスに収められ、裏側から白いライトが当てられることで、切り抜いた部分は内側から白く発光し光を通す。これはまさにデジタル写真の白い部分を液晶画面で見たり、インクジェットプリントした際の状態をうまくなぞっている。
最初は仕組みに気付かず、パキッと明確に出力されたデジタル写真プリントに見えていた。かなり近付いたり斜めから見た際に、厚みがおかしい、紙が切り抜かれている、プリント面と異なる質感の地が見えていることに気付いたのだ。つまりデジタル写真の「白」とはデータの無、支持体の光そのものであることが示されている。
これを直ちに裏返して、街の中にある「白」には何もない、無であると言うことはできない。それらは様々な手法や素材で、何らかの意図や目的を持って白で塗られている。しかしデジタル写真が街を記録する時、意味や質量のあるそれらの「白」はデータの「無」として認識・記述される・・・その反転式が目に見えて、深い謎解きに感じられた。
3種類目は、最後の和室に置かれた作品群で、○△□の記号の形で写真の上に敷いた半透明の色紙が切り抜かれたり、写真自体が切り抜かれている。
作者の解説コメントの中で「過去作で壁に白い紙を切って貼って撮影しただけのものがある」というのが、この作品の着想ポイントだと思われる。白い紙を○や△や□の形に切り抜いてモノや風景に当てると、錯覚で遠近感が狂い、無いはずの手前と奥が発生したり、周囲の風景がより具体的に意識されたりする。
映像作品では、バスか何か車の車窓に○で切り抜いた紙を貼り付け、流れる景色を動画で録っている。
これによって眼は、取り留めのない車窓全体から、○の枠に切り取られた個別具体的な視界に着目し集中するようになる。フレーミングによって景色が変化し、一方的に流れてくるものから、こちらから能動的に選んで探し出すものとなる。
色紙にしても、○△□がデザイン的な意味合いを付与して見え方が変わるというのは、その効果に「覗く」というフレーミング性が付与されるためでもあるだろう。一度、車窓や写真として提示されたフレーミング済みの視界について、更に再フレーミングを掛けていると言えるだろう。写真行為の入れ子構造だ。尼崎の街がより一層、写真化する。
◆霞村太一(映像、木彫り)
地元でよく目にする、ゆるいアイコンを木彫りにしたものである。
「よく」と言うもののAppleやマクドナルドのロゴマークとも、くまモンやいらすとやのキャラクター絵とも異なり、これらは全国に画一的に普及した量産品ではなく、どこの誰が描いたか分からないローカルでアマチュアなキャラクターである。
初見のはずが親しみと懐かしさ、既視感を覚えるのは、同様のセンスとノリで生まれた、無数の同胞が全国各地におり、どこかしらで出会っているからだろう。
これらは尼崎を探索する中で、街や公園の看板、壁の落書きなどから見出されたもので、後に動画作品によってどういった場所に描かれているのか、環境や実際の姿が明らかになるが、実物はもっとチープでカオスである。プロの作家の手を介し、更に木彫りにされたことで、抽象化され、表現としての純度が上がっているので、実物よりも公的なキャラクターとしてのニュアンスが高まっている。実物はもっとチープで、アナーキーとでもいうのか、デザインの教育・技術の外側から生まれた、地元の自己生成的な存在である。
また言うまでもなく、極端にしっかりした厚みを持って立体化を遂げたことで、表情は2Dのまま身体だけ3Dを与えられたぎこちなさがあって面白い。体感的には、ファミコンゲーム「ロックマン」シリーズを2D画のまま立体感だけ付加した「Mega Man 2.5D」に近い。レトロがレトロのままリアル化している点はまさに同じだ。
「実物はもっとチープでアナーキー」と言ったが、特にこれらのキャラが当てはまる。木彫だと「そういうもの」として完成されて見えるのだが、映像作品では現物(の写真スライド)を見せられた人達がそれをどう感じたか、何がどう変なのか、どこが意味不明なのか、感想や気付きや戸惑いを述べていく様子が映される。
出るわ出るわ、造形上の疑問点、謎のパーツ、意味不明なポイント。90年代末に宝島社から出ていた『VOW』本シリーズのB級採取・ツッコミを髣髴とさせるが、それらサブカルノリが上から目線(都市、出版・編集のカルチャー界隈→地方、拙さ、レトロ、カルチャー外)のいじり・笑いだったのと違って、回答者はイラストと同じ目線で意味を読み解こうとしている。
地元民(人間)と地元民(慣れ親しんだイラスト存在)の交流会と言うべきか。
おもしろいですね。「自転車を漕いでいる少年がなぜ運動着の赤白帽を被っているのか」「口元から出ているモヤッとしたものは、汗なのか、呼吸が荒いのか、疲れているのか」「犬が手に持っているのはスコップなのか、どんぐりなのか」「アイスクリームを子供に食わせようとしているのか」「某有名アニメのキャラだと思うが、髭がすごく平行に描いてあり、狂気を感じる」など、一人一人のコメントが的確かつ自分とはまた異なる見方をしていて、何気ないイラスト・落書きへの解釈が立体化されるというか、厚みをもって彫り込まれていく実感があった。
最後に登場するのは芋版、消しゴムハンコを巨大化させたような作品。赤塚不二夫の「ニャロメ」のような、でべその猫がゴミを円筒状のごみ入れに投げ込んでいるらしい。著作権とかキャラの出どころが分かるような分からないような有耶無耶なアレだが、尼崎市のロゴ、「おねがい」と読める題字などが何となくニュアンスを伝える。
括り付けられた木は、ある神社の敷地で転がっていた楠木で、宮司が譲ってくれたのだという。作者の尼崎散策における不意の出会いがばらばらと集まって、作品化を通じてまた鑑賞者と出会う、連続性から生まれながら非直線的な作品であった。
◆田中秀介(絵画)
3人目の田中秀介は絵画(油彩)だ。ステートメントで「私は尼崎を知らない。朧げな尼崎に対してのイメージはあるが、それが事実かもわからない。地図を広げれば尼崎は堂々と示されてはいるが、何をもって尼崎なのかもわからない。」とあるのは、まさに本企画の率直な前提であり、鑑賞する私の大前提でもあり認識としても共通している。
そう、尼崎はどういう街なのか、分かるようで分からない街なのだ。
ROOM1に掲げられた縦横2m前後の大きな2枚の絵は、その掴み所のない感覚と尼崎の特徴とをうまく表していると感じた。《極の辻》は古い商店街(三和?)でシャッターの無人の並びが交差するところを、《駅前風来群》は阪神尼崎駅・北出口の中央公園に地元の人達が交差するところを現わしている。静かで落ち着いた中にある無人の空気と、尼な人たちが四方八方へ向かう往来は、コントラストというより調和していた。
特に駅前広場の様子は、実際に何度か降り立ったときに出会う人たちの感じに合っていた。記号的な群集として括れない、生活民としての姿と顔がある。
ROOM3は個展会場のように大小の絵が並ぶ。いずれも捉えどころのない「尼崎」を、とりとめのなさによってうまく浮き上がらせていた。
中央の絵《先見売りの面子》が何度見ても、魚市場の卸売り業者に見えてならないのだが(青い帽子、青い四角、シルバーの台とフロアが鮮魚をイメージさせる)、これは競艇場の「予想屋」である。全くギャンブルをしないのでイメージがなかった。極端な広角レンズ(+魚眼?)で遠近を歪めたような画角で、独特な看板が主役となっている。
作品の話から外れて、「予想屋」さんの仕事を分かりやすく紹介している動画を見て学びを深めましょう。
イメージと違ったな。もっとタンカバイみたいな、ばんばん喋って巻き込んでいくイメージがあったが。
こっちの動画は予想屋のリアルな口上が収められている。
いいなあ。ギャンブル全然やらないので全くわからん。「マイケルにまくられたらこれぁはずかしぃぞお山田はぁ」はあ難しいすね。「マイケルのモーターが一番良いわけだ」 はあ。たいへんや。
というような(動画は多摩川、平和島と、どちらもTOKYOだが)、土地の香りや空気といった「雰囲気」が、本作を観る上では大切だと思う。マイルドながら、尼崎の空気をうまく掴んでいる。特に、地元民ではなく外から来た人間の、短期間の関わりの中で得られる関係性の雰囲気だ。
個別具体的な人物や店、エリアと関係を結んでいないため、絵の題材=意識の焦点、すなわち被写体は静物が主となり、特に特徴的な生活感をまとった建物や看板が抽出される。この感覚はまさに街歩きのスナップ写真である。楽しい。
これらの中に尼崎城が1枚あるのが、とても正しかった。
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はい。面白かったですね。
私も尼崎は住んだことがなく、展示を観に来るなど用事がある時だけしか訪れておらず、その道中で見て触れるものが大体の印象となっており、3名の作者と似たような関係性にあるため、作品にシンクロしやすかった。
昔は本当に「強いヤンキーの集まっている街」みたいな風評、というか大阪人の共通認識があったが、今はだいぶ街の構造自体が変わってきている。
( ´ - ` ) 完。