写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】石場文子「zip_sign and still lifes」@Gallery PARC(京都)

【写真展】石場文子「zip_sign and still lifes」@Gallery PARC(京都)

「あいちトリエンナーレ2019」でお目見えした作家が京都で個展を展開。被写体となるモノに直接、太い輪郭線を書き込んだ上で写真を撮る作品が特徴的だ。

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【会期】2020.4/10(金)~4/26(日) 

 ※新型コロナ感染拡大防止の観点より、4/19(日)を以って展示終了

 

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作者を知ったのは「あいちトリエンナーレ2019」の展示である。極端に誇張された輪郭線のある日常、室内の光景に、ときめくものがあった。

 

技法としては、画像上の処理ではなく、被写体となるモノ自体にあらかじめ輪郭線を黒のポスターカラーで書き込んだ上で撮影を行う。逆算から作る「still life」(静物画)の写真、写真による絵画である。

作者の経歴が芸大の版画分野の出身であることを考えると、絵画の技法に限定した話、あるいは写真に限定した話だけではなく、平面表現への転換を広く射程に含んでいると思われる。

作者は物理的なモノを、存在を「彫り込む」ようにして輪郭線を書き込み、周囲の空間から浮き上がらせる。本作での「写真」とは、平面へ置き換えるための手段であり、本作は写真の文法を内側へと掘り下げて批評するといった試みではない。日常のシーンやモノ(=3次元)を、絵画的静物(=2次元)へと、平面表現に転換する際の「見え方」を問題視していた。

 

「あいちトリエンナーレ2019」出展時のテーマはまさに、2次元と3次元の関係、表現上の往還が主眼にあり、輪郭線の作品だけでなく、実際の衣類に印刷物をまぜて吊り下げたりしていた。だがやはり、生活空間内に実在するモノに直接、輪郭線を黒々と書き足すパワフルさと、それが写真に置き換わった際の視覚効果は、一種の衝撃だった。シンプルにして、ありそうでなかった試みである。

2次元⇔3次元の往還、美術⇔写真の往還という話題だから、「あいち~」のステートメント印象派表現主義の画家の名が引用されていたのは自然なことだろう。観る人のバックグラウンドに応じて、様々な発見があったのではないだろうか。

 

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実在のブツに輪郭線を引くスタイルは、2017年頃から始まったという。手法はシンプルゆえにワンパターンに陥るかと思いきや、逆に本展示では線の効果の不揃いさが目につき、合点のいくもの、そうでないものの差がまちまちだった。作者はどうやら、アート作品としての完成度や洗練を求めるのではなく、様々な条件下での「輪郭線」の効果を検証しているようだ。

 

試行されたパターンの中で興味深かったのは、輪郭線を描き込まれる元のブツ・モノ(ここでは「現実オブジェ」と呼んでおく)のコンディションによって、写真化された際の効果に大きなバラつきが生じる点だ。

 

①「現実オブジェ」に手前と奥行きがあり、全体に一定のフラットな光が当たっている時
 →輪郭線が存在感を顕し、精緻な漫画の絵のように、リアルと虚構の往き来が緊密かつ強力になる(「イメージ」=写真的な現実の複製物 or 漫画的な虚構、の両義性があることを突く)

 

②「現実オブジェ」全体が強い陰影の中にある時
 →輪郭線が影に呑まれて目立たなくなる、見えなくなり、逆転現象が起きる(食器棚の作品では、棚の中に並ぶ湯呑みやグラスに射した影の中から「輪郭線」を探し出そうと目を凝らす、というメタな逆説的作業が発生)

 

③「現象オブジェ」が絵画の再構築を意識した配置であるとき
 →輪郭線は明確に見えるが、絵画の平面性が輪郭線を呑み込む(線の効果はなくなり、絵画界における輪郭線の意味や系譜について想像が及ぶ)

 

写真側の世界に属する私にとっては、言うまでもなく観ていてスリリングなのは圧倒的に①であり、「線」画と現実複製の「像」との二義性の重なりから、どちらが立ち上がってくるのかのせめぎ合い、ルビンの壺の叫びを見ることが楽しかった。

 

核心を言えば、この描画の技法は現在の漫画の描き方にそのまま通じている(手順は逆転しているが)ため、平面情報処理の感性として非常に馴染み深く、それが我々一般人の身体に及ぼしている影響は、アングルやマネの描いた輪郭線よりも遥かに深刻である。

体感的には2010年前後あたりか、漫画の作画作業において、写真をトレースしてリアルに描き込む手法が目につくようになった。紙にインクで描く時代から、ペンタブを用いてphotoshopなどデジタルツールで作画し、データで納品・投稿することが、プロ・アマ問わず普及していったことに起因するのだろう。一般商業誌では浅野いにお花沢健吾らの、写真の「像」そのものを線描画に変換させた、圧倒的に精緻な背景が、時代感覚として刺さるものだった記憶がある。そしてアニメにおいても、例えば新海誠の映画「君の名は」が、まさに写真の「像」の世界、文体を完全にトレースして瑞々しく取り込んでいた。

このように、個人的には(無論、同世代の多くの方々もご同様に)写真をがっちりトレースして、線・色・トーンで再構築した平面のヴィジュアル表現には、身体的なレベルで慣れ親しんでいるため、この逆順を辿っていく本作の技法――「現実オブジェ」側を線でなぞって写真へと取り込む試みは、時代の感性を本質的に突いた作品となったのではないだろうか。写真によって、現在敷衍している平面表現の効果や正体を考察するきっかけがもたらされたと言えるだろう。150年前の印象派表現主義の画家よりもリアルな話題だ。

 

主にここまでが「あいちトリエンナーレ2019」発表までの成果であった。今回の展示ではそれらも踏まえつつ、そこからまた次の展開を模索しているようだった。

会場で配布された解説用紙の作家インタビューでは、これまで言ってきた2次元・3次元の議論に囚われない展開と解釈を求めていることが強調されている。

今まで二次元三次元と言ってきたことは、二次元であるということが前提で成り立っていたけれど、いざ映像になったら二次元であるという前提は狭い世界の話になってしまうと思っています。新しい要素を入れると、もしかすると二次元三次元ということに違和感を覚える(※)ことが払底されるかもという期待もこめてできた作品です。

    (※原文は「覚えて」だが、恐らく誤字のため修正)

 

本展示の特徴は、新たな試みとして、輪郭線を入れた「現実オブジェ」の撮影に当たり、写真だけでなく動画映像でも検証を行ったことだ。

実際これは、作品を生で見比べた時に、はっきりと突き付けられた謎であった。

写真では成立していた「誇張された輪郭線を持つ3次元」から「誇張された2次元表現」への転換とその揺さぶりの力が、ひとたび動画映像にすると、全く分からなくなった。あれほど強力な文体の、メタな力であった輪郭線は、実にふにゃふにゃとした軟体動物のようになり、「2次元」へ同定できなくなったのだ。

つまり動画映像内では、「輪郭線」の存在を気にすることもなくなったし、それを探そうという動機も自分の中には無くなっていた。

これは人によって感想が異なるところだろう。作者は「輪郭線は写真で出すと気づかない人は気づかないが、映像になるだけで途端に立体として認識してしまうみたいなことはあると考えている」と語っており、つまり作者は「映像になると輪郭線がより映えた」と、私とは真逆の実感を書いている。

 

私は何を見たのか。モニター内からの発光ゆえか、モニターへ注がれた日光のせいか、それとも「動画」内に取り込まれていた撮影時の光のせいか、輪郭線の平面表現上の効果を無化させるだけの空気的情報がそこには溢れていたのは確かだ。

つまり、「動画」は「現実オブジェ」以上/以外の情報――流れとしての尺を持つこと、そこに空気があること、光と影の揺らぎがあることなど、全てを取り込んでしまう。よって、「3次元」ですらない「像」がそこに写っており、本来予期されていた「2次元」との比較・往還には収まらない事態に遭遇した。そういうことだろうか。

 

つまり、「写真」と「動画」は、根本的に文体が異なり、全く違う次元の世界に属しているというのだろうか。これらは同じか、相当に近い系に属していると思っていたが、どうもそうではなさそうだ。同じ立体、奥行きのある「3次元」の「空間」を相手にして、それを記録・複製するという構造やプロセスは同じ、その処理を行う機体も同じデジカメ、だというのに。

取り込んだ「世界」の何を棄却し、何を残し・凝縮し、「映像」としてアウトプットしているのか。「写真」と「動画」には、何やらそこに大きな分岐が存在する。それは「絵画」とは相当にかけ離れた世界観であるらしい。

 

そのようなことを感じた。

 

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フロア3階分におよぶ展示は、それぞれに試行の途上にある。

先に挙げた①のような、漫画やアニメなどサブカルチャーにおける線画の平面と写真映像との行き来を徹底的に突き詰めるという路線もあったかもしれない。

だがそれを徹底するには、漫画が日常的にやってのけているだけのスケール――例えば生身の人間、家屋やビル、路地、街など、屋内や家具(=still life)を超えたものを対象にして輪郭線を書き込み、写真に転換するという挑戦が期待されてしまうだろう。

作者の主眼が「still life」である以上は、手元での試行が可能な範囲での「線」と次元の考察、という戦術を採ったのだろうと察する。

 

写真にせよ動画にせよ、ナイーブな日常や感情、感傷を離れて、こうして科学的な試みから作品が生み出されるのを見ると、まだまだやれることは無限にあるという気にさせられる。

勇気付けられた。 

 

( ´ - ` ) 完。