写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】ヤン・ベッカー(Yann Becker)「INTIMACY」(人生の深み)@ギャラリー古都

【写真展】ヤン・ベッカー(Yann Becker)「INTMACY」(人生の深み)@ギャラリー古都

「親密さ」を物語る写真は、アウトサイダーと呼ばれる者達に対する「傾聴者」としての眼差しを見せる。 

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【会期】2020.4/9(木)~4/21(火)

 

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タイトルの「INTIMACY」は、日本語訳で「親密さ」となるが、単に「友達」や「仲間」というニュアンスでは語れない奥行きと密度を持つ。字義としては、親友など交友関係の深さや、親近感を持つ間柄を表す場合もあれば、異性間の肉体関係を表す場合も多いとされている。

 

本作は街で出会った人物のポートレイトだ。

街に繰り出しては飲み歩くのが大好きな作者が、偶然に出逢い、「面白い」と感じ入った人物らが主役だ。その中でも、作者にとってディープな魅力を湛えた人物が――結果的に所謂「アウトサイダー」と呼ぶべき特性の人物ら(空き室も含めて)が、8組ほど取り上げられている。話によると、昨年度は個展と本業とが多忙だったため、展示まで1ヵ月ほどの間で集中的に撮り溜められたらしく、中には搬入日の直前に撮影した人物もいる。

 

本作で語られる「親密さ」について、3つの観点から注目してみたい。

  

1.被写体間にある親密さ

一目で分かる「親密さ」として、被写体の間にそれを認めることができる。パートナーや仲間同士の2人で写っている作品では、2人の間に流れる特別な距離感と雰囲気、つまり絆や情愛が写っている。その親密さは、ある同族種として――社会における少数派同士としての、シンパシーと托生の念を伴う。

モデルらは、極道、バーのオーナー、性風俗関係の従事者など、夜の街と共に生きている人達だ。私のような陽の当たる側に所属している人間にとっては、客としての席から接することはあっても、その内側、プライベートな生に回り込むことは容易ではない(連日飲み歩いて積極的に話しかければ良いだけなのかも知れないが)。

 

深い井戸の中、暗闇に揺らめく透明な水の世界で共に呼吸できるのは、同じ種族だけなのだろう。

「親密さ」の深さは、体の特性の差異と同一性によって際立つ。登場人物らの多くが身体にタトゥーを宿していることが顕著な例だ。

全身にタトゥーを入れた二人が抱き合い、腕と足と首を絡め合う姿は、恐竜の面影を留めた爬虫類が抱き合っているように見える。タトゥーの緑色のラインは古代の鱗となる。それは私達、陽の当たる側のマジョリティとは別の進化を遂げたことを物語っていた。

 

タトゥーを入れるから少数派に回るのではない。

マジョリティとしての生には参加しなかった結果として、少数派としての個々のコミュニティに適する体へ寄せた。あるいは、どの多数派にも属さずにいられる体を獲得した。そのように感じた。それは多数派がスーツを着、ネクタイを締め、革靴を履くなどして身体の調律を図るのと同じように、しかし逆方向に、よりダイレクトに身体をカスタマイズして引き寄せる。

その身体同士が共鳴している。一人で撮影されたモデルも、また別のモデルと知り合いだったり、同じような仕事に就いていたりする。被写体らは写真のフレーム内と、フレームの外側で、それぞれ「親密さ」でリンクし、共鳴している。

 

2.作者と被写体との親密さ

興味深いのは、作者は被写体らと一定程度、独立した立ち位置にあることだ。それでいて、優しい写真である。

モデルと写真家とが私的な空間で撮った写真作品によく見られる事例が、アラーキーの文脈あるいは呪縛だ。そこでは、撮影者と被写体とは共犯関係としての前提を取り結んだ形で現れる。モデルは写真家との「写真行為」の駆け引き、恋愛や肉体関係のバイパス的な様相によって写し出される。

本作は私的な空間に立ち入りながら、モデルらと共犯関係としての「写真行為」を取り結ばない。無論、窃視などの「奪う」視線でもない。特異なモデルとしての美をエンハンスする写真でもない。

 

しかし真逆の、社会的・科学的なドキュメンタリー写真と呼ぶには視線が優しすぎる。プライベートな場で、濃密なひと時を共にしながら、モデルらの体や気持ちに素手で触ることをしない、傾聴者としての写真がある。

それは作者が「人の人生を聴くのは面白い」と語っていた通り、夜の闇に生きる人達の、それぞれにオリジナルな物語を、どこまでも「聴く」という写真なのだろう。この付かず離れずの距離感、間柄が、「INTIMACY」の第二のニュアンスとなっている。 

 

3.作者と「日本」との親密さ

一番最後になったが、作者はスイス出身の外国人である。写真家のみならず照明や舞台デザイナーとしての仕事を持ち、日本では外国人観光客のガイドも務める。

もし作者のプロフィールを一切伏せて写真だけを見たなら、日本人写真家の作品として疑いを持たなかったかもしれない。 

 

作者の展示は、2019年12月「FACTORY SKETCHES」で、工場景を集めた展示を観たところだ。 

www.hyperneko.com

この時のレビューとして、工場景を誇張、賛美するのではなく『ヤンの写真からは愛情を感じる。それは受け容れの眼差しだからだ』とし、『フォトグラファーの表現とはまた異なる類の「表現」、受け容れ、包み、何ものかを立たせるために立ちあがる場、という、舞台演劇の表現のフォーマットだったのだろうか。』と締め括っている。この点は概ね今回も共通している。 

 

ヤンの最大の特徴は、日本人と遜色がないぐらい、いや日本人以上に関西に溶け込んでいることだ(関西人にとってもマイナー私の居住地も、即座に理解してくれた)。2011年から大阪に移住したヤンは、実に流暢に日本語で話す。そして積極的に飲みに出歩き、客や店員と話をすることを好む。人の話をたくさん聴き、物語や人生を感じることを愛する。そして撮影の合意を取りつけ、後日、私宅へ撮影に赴く。

 

作者と「日本」との「親密さ」の最大の証左は、「幻想」の有無だ。

個人に踏み込んだプライバシーが写っているため、ここではアップの写真は掲示できないが、作品のどのカットにも、「幻想」がない。アウトサイダーとしてのモデルらに対する幻想や誇張だけでなく、大前提となる「日本」という舞台に対しても、美や独自性(らしきもの)の誇張や強化がないのだ。これは段落2で「傾聴者」としての写真である、と語ったことと同じく、被写体らと同様に、「日本」という土地に対し、あくまで地続きのところに作者は立っている。

 

ヤンは「日本」の幻想、イメージを撮っているのではない。現実の社会的記録、観察でもない。日本の大阪との付き合いの中身を撮っている。

そもそも大阪のミナミなど、関西のあちこちで頻繁に飲み歩き、不特定多数の人たちとの出逢いと会話を繰り返す作者にとって、幻想など抱く暇もないだろう。あえて言うならば、自然光のみで撮られた作品には、どこか宗教画に近い陰影が宿っているときがある、その美的感覚ぐらいだろう。

よってここには、日本人である我々から見たのと大きなズレのない「日本人」が写っている。この距離――類い稀なる親日派、もとい在日派スイス人写真家と「日本」との間柄こそ、本作のタイトル「INTIMACY」が図らずも表したものだろう。

 

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ヤンは2016年から「ギャラリー古都」で、毎年展示を行ってきた。5年目となる今回は、昨年の「Outsiders」展の系譜を引き継ぎつつ、よりディープで愛おしい「アウトサイダー」の素肌感に踏み込んだものと言えよう。本展示はあくまでファーストステップと位置付け、本展示の結果を検証しながら発展されることだろう。

 

今後は1年かけてじっくり撮影したのち、初の東京での展開を予定しているという。それまでに新型コロナ禍が収まっていることを願うばかりだ。

 

( ´ - ` ) 完。