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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】Kim Dooha (キム・ドゥハ)「BOTTON SONYEO」(ポトンソニョ;普通少女)@梅田 蔦屋書店

【写真展】Kim Dooha (キム・ドゥハ)「BOTTON SONYEO」(ポトンソニョ;普通少女)@梅田 蔦屋書店

ルクア1100の9階。蔦屋書店のAppleサービスプロバイダ・カウンターの奥、天井にまで達する本棚をバックに写真作品が展示されている。儚げに見えて、決して消えずに佇む女性たちの姿がある。

【会期】2019.10/12(土)~11/11(月)

 

TSUTAYA系列店の中でもルクア1100内の店舗は独特で、中央に位置するエスカレーターを核として同心円状に売場が構成されている。本棚は中央寄りに柱のように立っていて、本屋という感じがしない。外周となる壁側寄りには、眼鏡や雑貨の販売スペース、美容や旅行のカウンター、本を読んだりして寛ぐスペースもある。本屋を備えた巨大なサロンだ。観客は回遊魚のようにぐるぐる回りながら本を選び、時を過ごす。

本棚の回遊から逸れて、壁側をよく見る機会はあまりないだろうが、実は壁沿いには写真作品が展示されている。今回、写真に詳しい方の縁があって教えてもらい、駆け付けた次第である。作品は、普段はApple製品の修理の相談などが行われるカウンター越しに観ることになり、営業時間中は趣味の良い背景として収まってしまっている感がある。Appleのサービスが終了する20時頃にはカウンターがフリーになり、ゆっくり作品を鑑賞できるようになる。

 

以下、店舗の許可を得て撮影。

 

作者のキム・ドゥハは、韓国で活躍してきた1980年生まれの写真家で、2014年にソウルで同名シリーズ《普通少女》を発表した。タイトルが表す通り、プロのモデルでもない一般人を起用し、しかも女性の側から撮影を依頼するという形式でヌード作品を作った点が独特だったため、話題となったようだ。

2017年からは大阪に住まいを移し、フォトスタジオを経営する傍ら、本作を 展示のため奔走していたようだ。今回の展示は、同名の写真集の発売を記念して開催された。写真集の制作に当たっては、クラウドファンディングによって資金調達が成されている。 

 

作品は一見、儚げに見える。

モノクロームの色調が繊細で、「白黒」というより、「白」の濃淡によって女性を描き出している。その体は、気化しそうに薄くて白い。写っているのは女性の裸体だが、被写体の具体的な顔を写さず、誇張された女性らしさや「性」の観点などがなく、佇む姿だけがそこにある。主張を行うことも、視線の欲望を受け止めることもない。その体には役割が与えられていない。いや、「体」と呼ぶには、空気にも似た自然さで、周囲の(画面の)「白」に溶け込んでいる。

これらの写真に写っているのは「裸」なのか?

物理的な、肉体としての裸ではなく、「裸の存在」が写っていると言うべきだろう。被写体となった個人それぞれに与えられてきた役割や意味付け、価値付けを、脱ぎ去った姿のことだ。役割や属性を脱いでいるということは、彼女らが何者であるか、誰であるか、どんな体つきをしていて、どのような性的なとっかかりを有しているか、そういったことは、ここでは一切話題に上らない。よって写真には、命の輪郭として光のような感触が残ることになる。

 

乱暴に例えるなら、著名人らが「本当の私」「私の本当の姿」などと言って脱いでみせる「裸」とは、根本的に意味が異なる。世に出回る多くのヌードは、主に男性が一方的に性的消費するためのエロスであり、その対立軸にある(自他称)アート的なヌードも、結局は性的消費型ヌードへの意趣返し、カウンターとしての自己主張的エロスである。多くの「裸」は概ねこの対立の構図の内にある。それらはいずれも商売である。「商品」として流通させるために産み出されるコンテンツである。もう一つ、商圏の外側で、あくまで自己表現の一環として撮られるヌードも多数存在するが、それも多くの場合は資本主義によく似た報酬系(言うまでもなく「いいね」やRTの数、そこから生じる名声、社会的評価)の経済圏の内に閉ざされており、広い目で見ればやはり「商品」としての「裸」:見られるため、見てほしいための「裸」として数えられるだろう。

 

本作の「裸」は、いずれの商品としての流通に参加しない。ただ佇むだけである。一般人の参加を募って撮られたそれらは、特権的な美を謳わず、主張をしない。被写体を務める女性らが、これまで浴びせられてきた誰かからの/社会からの主張と、被写体自身が有する種々の主張、どちらもを沈黙のうちに脱いだ姿が写っている。ゆえに「裸」と言うより、これらは「裸の存在」と呼ぶべきだと感じた。

 

無名の女性らが脱ぎ、佇むこと。「女性らしさ」、「私らしさ」をも脱いで、裸で佇むこと。

作者が祖国で支持を得たのは、まさにそのスタンスが今、多くの若者にとってのリアルだったからに他ならない。「普通」であること、その無力さと困難さに、二重、三重に苦しめられているのが、現代を生きる若者世代と言えよう。特権的階級や、特別な才能を持つ存在に比すれば「普通」な者はあまりに小さく、就職にさえ苦労する。一方で、「普通」な者たちは物心ついた時から周囲より「普通」であるよう要請を受け続け、本来の自分は見失われ、抑圧されてゆく。

 

本作は繊細で、儚げに見える。だが見れば見るほど、知れば知るほど、彼女らの佇む姿は、どこにも去らず、しっかりとそこに居る。それゆえにやはり、もっと真っ当なギャラリーで、正面切って鑑賞したいと思った。 

美しく、若い女性だけでなく、おっさん・おばちゃんにも、このような眼差しと手法で、何か「脱がせる」ことが出来たら、本当にすごいことになるのでは、などと感じた。今後が面白くなりそうだ。 

 

 

( ´ - ` ) 完。