【映画】「パラサイト 半地下の家族」
最近話題だった韓国映画「パラサイト」を遅ればせながら鑑賞。
( ´ - ` ) 半地下。
( ´ - ` ) 面白かったですね。
私は日頃、ミニシアターで鬱々と籠っているので、エンタメ成分が綺麗に織り交ぜられた商業映画を観る機会は貴重です。あらすじ等は置いておいてメモ残しておきます。
1.色々と概要です
前半はフルスロットルで駆け上がる、テンションの上がるアニメ的な疾走感。中盤以降はタイトル「パラサイト」の意味、真実の明かしと、圧倒的な「格差」を強調する描写で突き落とし。最後の〆は前半の昂ぶり、これまでさんざん広げてきた風呂敷を受け止める(畳む)ための明快な悲劇。
2時間超観ていて飽きませんでした。
いわゆる格差社会の「底辺」にいる一家4人が、ごちゃごちゃした路地に面した「半地下」という独特な物件に住み、定職にも就けずピザの梱包ケース組み立ての内職をしながら、上の階から漏れるWi-Fiにスマホを接続しようとバタバタする、そんな冒頭のリアルな生活臭にグッと持って行かれます。生活は厳しそうですが、バイタリティがすごいので、生活「苦」がありません。コミカルとシリアスが両方立たせてあるのが特徴的です。まさに漫画的。
この社会の下層の「半地下」一家が、本来なら縁遠いはずの金持ち社長一家の家に、口八丁手八丁で次々に乗り込み、うまいこと浸食していく――文字通り「パラサイト」、寄生をキメてゆく痛快さはたまりません。いいぞいいぞもっとやれ。ただしハッタリの連打で成り上がり・成功譚を描くにはあまりにテンポが速すぎるので、早々に「この先どうする気だ、」「これはまた転落するか、あるいは別の話が来るか、」と、右肩上がりの後の転落が予想できます。
後半は、ストーリーの展開の妙でオチへと回収してみせるのではなく、「地下」なるものの構造と正体について描写を深めて下り坂を進ませてゆきます。レビューで少なからずホラー要素ありとも言われるのは、ストーリーの妙ではなくその「地下」なるものの、理解を超えた正体、掴みどころのない狂気がラストの展開に関わってくるためだと思います。
ここで何度も繰り返しているように、重要だったのが「地下」でした。「地下」や「半地下」は、現代の韓国に独特な建築様式であり、生活様式、ひいては経済格差の象徴・メタファーとして、作中で強力なフレームとして効いています。フレームこそがこの作品と言ってもよいでしょう。
上記サイトで分かりやすくレビューされている通り、本作はフレーミングの作品で、画面構成・キャラの立ち位置に強力なフレームが働いています。画面のみならず、キャラの役割、職業の構成、身分・経済の構成、都市のゾーニングにおける構成など、全てが誇張された対立的フレームの連続によって成立しています。その意味で曖昧さがなく、良く出来た漫画のように記号的です。ドラゴンボールZなど著名な漫画作品では、キャラの位置関係を敵・味方の役割に応じてコマの左右に割り振っていることは有名ですが、そのようなフレームの力が随所にあります。
2.建築としての地下
主人公ら一家は「半地下」、地下と地上の間にあり、非常に独特な建築様式の物件に住んでいます。韓国において「半地下」が出来た経緯は以下のサイトに分かりやすくまとめられています。
要は北の国と休戦状態(1953年、朝鮮戦争休戦協定)ではあるが、終戦はしておらず、南北戦争の恐怖から1970年に住宅に防空壕を備えるよう法律で義務付けられたのが「半地下」であるとのこと。
「半地下」は、窓が本当に路面すれすれにあるのが特徴的です。おかげで酔っ払いの立小便が丸見えで、映画のスクリーンのように迫ってきて、彼らの暮らしを象徴する鮮烈なイメージとして効きます。内装は普通の団地と同じですが、この視座の低さは、感覚的には、京阪電車の2階建て特急の1階席から、駅ホームを見た時のアイレベルに似ています。わかりますかね。KYOTOにおこしやす。
そんな高さ(低さ)の居住空間なので、当然ですが、立小便どころか大雨・冠水には滅茶苦茶弱いです。危険です。社長宅の本物の「地下」と、主人公家族の住む「半地下」との最大の違いは、立地条件です。
前者は恐らく高台にあり、大雨で街が冠水しても、誰も影響を被っておらず、思い付きの誕生日パーティーに多くの人が高級車で駆け付けることができますが、後者は都市の中でも低地にあり、冠水すれば雨水も下水も混ざり合って襲い掛かってきます。低所得でも手軽に住める反面、天災によっていつ生活基盤を失うか分からない、極めてリスクに満ちた建築です。
この、リアルに韓国の制度や危機を孕んだ建築としての「半地下」ですが、更に深く強固な「地下」が登場することで、比較・対照、あるいは類似の構図が描かれます。
「半地下」一家が転がり込んだ社長の邸宅には、北との有事に備えた本物のシェルター、堅牢な「地下」室があり、そこではこの邸宅に昔から――社長一家が来るよりも依然、家を建てた建築家が住んでいた代から仕えていた家政婦が、実は夫婦して「パラサイト」していた事実を発見します。つまり自分達の先輩にあたり、そしてもっと深い闇に生きる同族、「底辺」の発見です。重い棚の後ろの隠し扉、コンクリートの長い下り階段は、まさに本物の「地下」であり、完全な密室であり、何より社長一家もこの地下室の存在には気付いていないため、富裕層の堅牢な備えとしての建築であること以上に、後述のとおり経済格差、底辺の袋小路としてのメタファーの意味合いの方が強いです。
3.経済格差としての地下
繰り返しになりますが、本作で「半地下」と「地下」は、経済格差のどストレートなメタファーとして機能しています。
私は韓国の生活事情は全く知らないのでアレですが、それでもしばしば伝えられるのが、経済格差や若者の就職難です。名門大学を卒業しても就職に苦しむというレポートはビジネス紙などでしばしば目にします。大学生の志望先と雇用ニーズの規模とがミスマッチを起こしている:中小企業では不安定かつ労働条件が良くないため、多くの学生が大企業や公務員など安定した職に集中することが原因として挙げられています。そうした状況を主題とした映画(若者のひなた)もあるようです。
本作では名門大学どころか、大卒や企業勤めにすらカウントできない、もっと下の層が、主人公一家として活劇を繰り広げるので、よりリアルな生活臭を放っています。父親は元ドライバー、事業に失敗していて無職状態。長男は浪人生で、兵役の前後で4回、大学入試に失敗しています。
こうした層の生活や貧困状況は、カテゴライズが難しいのか、国外(日本)で話題として関心を呼ばないためなのか、ビジネス紙などの「若者の失業」「就職難」といったレポートには描かれておらず、全く知らなかった生の情景が描かれているのが新鮮でした。
されど経済格差の「上」の方は、天地が引っ繰り返っても太刀打ちできないぐらい強くて盤石です。このことは、薄々は感じていたものの、2014年の大韓航空機ナッツ・リターンの一件で国内外の誰もがはっきりと知ったところでしょう。勝てない。参入できない。既成勢力が強すぎる。日本の富裕層とも意味が違う。
本作に登場する社長一家の家庭もまた、日本のタワマン金持ち、往年のヒルズ族(古い、)程度のものではありません。芦屋の富豪の方がイメージに近いでしょうか? ただし金はあるが、生活の実態がない。生活の希薄さがそのまま「家族」の枠組みの希薄として描かれています。当人らも家庭の枠組みは辛うじて維持しているものの、屋敷の建築フレームの方が強すぎて、遥かに霞んでいます。
生活そのものにあまり関心がないのか、それとも生活能力自体が無いのか、家庭というフレームを維持するために、料理や掃除や犬の世話といった実働の部分は、家政婦や家庭教師に全面的に委託しており、それは「依存」の言い換えです。つまり経済格差の「上」の側も「下」に対し、生活を「パラサイト」している、よって「上」「下」で相互に「パラサイト」している状況が描かれています。
「半地下」一家は、口八丁手八丁で、前任の運転手や家政婦らを追い落とし、社長一家のもとにがっちり食い込み、よい稼ぎ先を得たことになりますが、その生活は「ビジネス」と呼ぶにはあまりに格差がありすぎ、とてもではないが同じ人間としてのステージにはいない。絶対に埋められない差が、厳然としてあり続けます。
その格差が真に露呈するのが、両者の住まいの立地に伴う、大雨冠水での被災です。「半地下」エリアは居住空間丸ごと冠水し、体育館に避難を余儀なくされますが、社長一家は息子の誕生日祝いのサプライズ企画を思い付き、パーティーへの出席や買い物の車出しを要請してきます。身に迫る危機や非常事態が全く共有されない世界。永遠に埋められない格差を身に染みて知った状態からの、悲劇のクライマックスへと一気に向かうことになります。
更にその前段で、社長宅の「地下」シェルターで前の家政婦ら・先代の「パラサイト」と揉み合いになり、どちらが「地下」に押し込められる側になるかの泥仕合を繰り広げます。手荒な格闘で前「パラサイト」夫妻を再び幽閉することに成功しますが、結構きわどいぎりぎりの足の引きずり合いでした。真の「地下」、すなわち、社会に二度と浮かび上がれない、真の「底辺」を巡る「地下」vs「半地下」の格闘は接戦であり、冠水の被災と相まって、「半地下」一家に決定的な格差の事実=「底辺」の確定を突きつける一幕として効いてきます。
「半地下」という空間と属性は、韓国の経済格差の社会において、「上」の層との繋がりが辛うじて存在し、浮上できそうな希望を見ることができる立ち位置にある、ように見えるものの、その世界の差は絶対に埋められないということが描かれています。また、闇の中にある真の「地下」へも、ともすれば容易に転落しうる危険も孕んでいる。ラストで衝動的に殺人を犯してしまった「半地下」の父親が、咄嗟に逃げ込んだ先がまさに社長宅の「地下」室であり、そのまま身を隠し続けることから、転落の可能性は立証されるわけです。
加えて、「地下」・「半地下」の存在と、格差の「上」の存在とを分かつのが、「匂い」です。社長が素晴らしく絶妙な語彙で、専属運転手となった「半地下」の父親が車中で放つ「匂い」について描写します。また社長の息子も、バラバラの他人を装って邸宅に雇われて身を寄せた「半地下」一家4人が、全員同じ「匂い」を有していることを指摘します。生活環境に固有の(どことなく貧乏くさい)「匂い」を、一家が共有していること、この描写は、「格差」の根深さを浮き彫りにします。極めて身体的なもので、衣服や髪型を変装しても、偽装できないものです。
それは大雨冠水の描写で際立ちます。「半地下」の便器から何度も噴き上げる真っ黒な汚水、その上にしゃがんで自棄気味にタバコを吸う娘の姿は、この一家に染み付いてきた「匂い」が「上」の世界にはさぞ交わらないだろうなという確信に繋がります。避難所の体育館でどうやって衣服や風呂を工面したのかは分かりませんが、翌日の華やかりし誕生日パーティーの場では、さぞ溝を生んだことでしょう。
「匂い」はもう一つの重要なトリガーとなります。底辺バトル後、「地下」で幽閉されていた前「パラサイト」夫が、狂気を纏わせて地下から上がり、パーティーの場で凶行に及びますが、その際に社長が彼の「臭い」に顔をしかめます。このシーンで、上流社会との接点の可能性を模索してきた「半地下」は、真に非人間的なクラスである「地下」と、同質の「匂い」を有する存在であると結び付けられます。その表情を目撃した「半地下」の父親は、凶行を受け継ぐことになります。
4.流体・「恨」としての「地下」
ラストで、前「パラサイト」夫が包丁を振り回し、自分達を幽閉した現「パラサイト」である「半地下」家族への復讐を強行します。その凶行中、正当防衛から社長は前「パラサイト」夫をバーベキューの串で刺します。恐らく死んだと思いますが、娘を彼に刺されたはずの「半地下」の父親は、なぜか自然と凶行を受け継ぎ、無言で社長を刺殺します。
これは社長が「臭い」と顔をしかめたことと深く関連しています。それまでの一家の「匂い」を巡る描写(=身体化された格差の表出)の伏線に導かれる形で、「半地下」=「地下」<<<<(越えられない壁)<<<<格差の「上」部、という図式が確定されたためでしょうか。越えられない壁の事実に父親は絶望したのでしょうか。自分の運命への憤りでしょうか。しかし父親の感情の描写は、何かを押し殺したように黙って座った眼をしているだけで、衝動的な殺人の気配はあれど、説明は一切ありません。
それは、呪い、「恨」のような、社会の底に流れるものの凝集が、父親に移ったように見えました。
前「パラサイト」夫妻と現「パラサイト」一家との、どちらが「地下」に埋没して生きるかを巡る接戦、そして先代「パラサイト」を「地下」へ幽閉して以降、「半地下」一家は「地下」に押し込めた夫妻の安否、処理について神経を尖らせます。それは思いもよらぬ事故によって、ようやく手に入れた安定、今よりも「上」に留まる安定を失うことへの恐れでもあるでしょう。が、もっと説明のつかない深い闇に感染し、理性を引き込まれているようでもありました。私はそれを「地下」に取り憑かれたようだと感じました。
真の「地下」の存在、そしてそこに何年も巣食っていた前「パラサイト」の存在を知り、揉み合い、「地下」に閉じ込められそうになったことで、ファンキーでアクティブ、コミカルだったはずの「半地下」の一家は、これまでと全く異なる表情を帯びます。
「地下」の闇が、感染し、刻まれる。
何か呪いのようなものが、「底辺」の者達の間で渦巻き、伝播してゆくこの現象、「地下」という存在そのものが、建築としての空間や、経済格差のメタファーを超えた、流体と化した怨恨のようなものとなって生きている様子を見ていたのでしょうか。
これを喩えるなら、民衆の間に流動し息衝いている、得体の知れない負の感情に似ています。
前「パラサイト」は屋敷の「地下」に何年も潜んでいますが、社長への賛辞を欠かさず、唱え、絶叫し、狂信とも呼ぶべき日々を送っていました。しかしラストには一転して、そのすべてを覆す暴力の化身となり、包丁片手に息子の誕生日パーティーのクライマックスに乗り込み、凶行に及びます。それが死の直後、「半地下」父に即座に流れ込み、一連の人格であったかのように、社長の殺害へスムーズに繋がります。
この急激な転身と感染は、歴代の大統領が支持・崇拝された後に、突如として犯罪者として追われたり、同じく崇拝・尊敬の対象である芸能人らが、醜聞や侮蔑の書き込みの嵐の中で社会的に殺され、実際に死に追い込まれたりする。そんな民衆の激しくおぞましい陰・陽の念を連想させます。恨みなのか、恨みだとすれば何に対する憤りや不満なのか、その説明も付かない、けれど確かにある、色濃く、暗く流れるもの。それらが凝縮したものが、「地下」という移ろいゆく流体だったのだろうか。そのように感じました。
( ´ - ` ) 完。