nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.12/4-21「透明な技術――鬼が出るか、蛇が出るか」「尾角典子『生成の庭』」「real SOU #16 さっき見た夢」@茨木市福祉文化会館

「ICAW:IBARAKI CONTEMPORARY ART WEEKS」第2弾。

取り壊し予定茨木市福祉文化会館」、最後の展示イベントとなる。

3つの展示と、「茨木アートブックフェア by THE COPY TRAVELERS」、計4つのイベントが催された。

 

茨木市の再整備がめざましい。

茨木市民会館跡地エリア整備事業⇒文化・子育て公共複合施設「おにクル」開設。阪急茨木市駅西口周辺の再整備(ソシオ茨木建替え)。JR茨木駅リニューアル、JR総持寺駅の新設。そして、ここ「茨木市福祉文化会館」解体工事。 

www.city.ibaraki.osaka.jp

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マジで将来を獲りに来ている。未来は投資によって生まれるのだ。

まあそんなわけで解体を目前にした茨木市福祉文化会館」、カラのままでは勿体ないということなのか、今年に入ってにわかに展示が続けて催された。複数の主催による展示が同時開催され、ややこしいので、一旦まとめておく。

 

◇「茨木市福祉文化会館」展示プロジェクトまとめ

  • 2024年5月 貸館業務終了
     
  • 2025年6/28〜7/13「IBARAKI Contemporary Art Weeks」(ICAW)

【会場構成】

 1F・2F|現代美術展茨木特別展 @ibaraki_genbi 「Transfer」
 3F・B2|realSOU「#15+ 野原の上で」@souartproject
 4F・5F|茨木映像芸術祭 2024-2025 プレゼンテーション @ibaraki_film_arts_festival
 B1|HUB-IBARAKI ART PROJECT 2024/2025招聘作家作品展示 @hubibaraki_art

 

【企画】国立国際美術館・福元崇志

【作家】井澤茉梨絵、稲垣元則、今井祝雄、勝木有香、国谷隆志、田中真吾、中屋敷智生、松井智惠+O JUN

 

  • 2025年12/4〜12/21IBARAKI Contemporary Art Weeks」(ICAW)
    (本レビュー)

【会場構成】

 B1・2F|realSOU「#16 さっき見た夢」@souartproject
 1F|「茨木アートブックフェア by THE COPY TRAVELERS」
 3F|HUB-IBARAKI ART PROJECT 2025/尾角典子「生成の庭」
 4F|「透明な技術――鬼が出るか、蛇が出るか」(THE COPY TRAVELERS)
 5F|読書スペース

 

  • 2026年 解体工事

 (詳細な時期は不明、茨木市の事業計画では2025〜2027年「解体設計・解体工事」)

 

 

短期間で非常に密に企画が催されたことがわかる。すごいべ。茨木市にこうしたアート活動の取組みが複数あったことも初めて知って驚かされた。私、7月の「IBARAKI Contemporary Art Weeks」も鑑賞していたのだが、ボリューム多くて捌けずblog化できず仕舞い、忸怩たる思いがします。ああっ。今回がんばる。

 

◆1F_「茨木アートブックフェア by THE COPY TRAVELERS」

コピトラ(略称)が企画するアートブックフェア。2014年の結成・活動から10年間に出会ってきた人達の中でも、自身が選んだメディアに対し批評的に向き合って独自の方法を開発している人達のブックを集め、その数150組以上。

詳細は割愛するが、やはりコピトラのメンバーが出しているブックが最も印刷物として説得力があり刺激的で面白かった。ほしい。しかし欲しいものの多くは売り切れ。最終日にいくと辛い。

 

「THE COPY TRAVELERS」は加納俊輔、迫鉄平、上田良の3人で構成され、京都を中心に活動している。詳細は以下リンクどうぞ。茨木市でも2023年に展示を行っている。

bijutsutecho.com

paperc.info

 

私がブックフェアで買ったのは以下、計5冊。

  • 迫鉄平『CHILL TOWN #29』『ローリング・サンダー・日和』
  • かんのさゆり『Square backlight』
  • 『αМプロジェクト2019 東京計画2019』
  • 『αМプロジェクト2020-2021 約束の凝集』

私らしいというかガチガチに手堅いセレクトになってしまった。αМプロジェクトの2冊は、図録を超えた、アートやアーティストが現代においてどんな意味を以って、どう関係を取り持っていくのかを作品と考察、批評と共に実践していく展示記録集で、つまり論考ベースの書籍で、普段の私の買い物である。残り3冊も実はそっちに近い。

アートブックフェアで冒険しないとは奇妙な話で、もっとぶっ飛んだビジュアルものを買えばいいものを、しかし、しかしですよ。そうそうないのである。新しく切り裂いてくるブックというのは、少ない。写真集は特に、旧来のものと新しいものとではっきりと差が出る。この難しさは宿題にします。

 

 

◆4F_「透明な技術――鬼が出るか、蛇が出るか」(THE COPY TRAVELERS)

こちらもTHE COPY TRAVELERSが主催し、アートブックフェアと連動している。フェア出展作家から自身ら含め15名が参加。

 

【出展作家】青柳菜摘、藤田紗衣、加納俊輔、ステファン・ケッペル、城戸保、小林椋、丸山のどか、オ・ヨンジン、斎藤玲児、迫竜樹、迫鉄平、髙田安規子・政子、豊嶋康子、鶴本哲太、上田良

 

制作・展示形態が統一化されていて、「オンデマンド印刷、B2サイズ、平面、棒に刺した立て看板式、一点ずつ距離を置いて設置、土台は切り株」と、展示形態によって作家館で差が出ないよう、また作品のニュアンスが変性しないように定められている。これは「アートブックとは異なる側面から印刷と複製について考えることを目的とした」ためだ。


ざっくり大別すると以下のようなジャンル、形態になる。

  1. 写真(ストレート):ステファン・ケッペル、豊嶋康子、小林椋
  2. 写真(オブジェ):丸山のどか、高田安規子・政子、藤田紗衣、オ・ヨンジン
  3. 写真(ベースを残したコラージュ):上田良、迫鉄平
  4. 写真(完全コラージュ):鶴本哲太、加納俊輔
  5. 写真(映像的):斎藤玲児、城戸保
  6. 写真 × 文字:青柳菜摘
  7. 不明(コラージュ):迫竜樹

ほぼ写真である。

 

だが不思議なもので、15人分の作品を見たにも関わらず「写真作品を見た」という気がしない。無自覚的に書き出したがこの分類は「写真」からの距離段階になっていて、1.写真(ストレート)から下に行くほど写真色が少なく、3.写真(ベースを残したコラージュ)の時点でもう写真を見ている気分はなくなっていた。つまり展示の大半は写真とは別の何か(を見たこと)だったといえる。

 

2.写真(オブジェ)は、1とかなり隣接していて、人によって振り分けが分かれるだろう。1は写真単体としての像、2は写真を用いたオブジェ作品だが、小林椋《囲み固み入り》は作者の自作する謎のハンド彫刻:実用性を抜き去ったメリケンサックのような、両手指をどう入れるか模索・対話させられるもの、の写真について、ストレート写真とも、奇妙な絡まり方をした指も含めての「彫刻」とも捉えられる。丸山のどか《packing》シリーズは完全にストレート写真だけれどもやってることは完全な彫刻。

逆にステファン・ケッペル《Sukashi blocks》シリーズは、ブロック塀の透かしブロック・有孔ブロックの透かし形状をクローズアップしており、それを反転されたオブジェと見るなら2に入っても良い。

豊嶋康子《切替/架台》シリーズの、電線作業員をパノラマで捉えた写真が、普通の「写真」であるのに逆に際立って見えた。無論、これは電線・電柱と作業車(者)の妙とか色々と見どころがある。

3.写真(ベースを残したコラージュ)と4.写真(完全コラージュ)の違いは、前者は「写真」の1枚ものとしてのフォーマットがあり、後者はバラバラにカットされ再接合されもはや「写真」というまとまりを有さず、「画像」へと還元されている。

このせめぎあいがスリリングで一番面白いところで、上田良《スロウ・ドローイング》シリーズはかなりコラージュが効かされているものの一枚ずつの絵が「写真」を保ち、ご丁寧にその周囲を別の色でフレーム化していて「写真」を強調する。あたかも日常のスナップのようで、タイトルを見ると『極道の妻たち』や『Stand by Me』などの場面だったりする。迫鉄平の作品群は更に強く1枚の写真としての平板さを有していて、その1枚が土台となっているが、平面の中に別の貼り紙や写真の貼り付けが入れ子構造となっていて、だまし絵のように平面性・真実性が狂わされており、「写真」として機能を失調している。

鶴本啓太《deep milk sea》シリーズと加納俊輔《Paper Patch_01-05》は、パーツと化した画像の集合体だがまたこれも両者で全く異なる。鶴本啓太は切り抜いた写真パーツを画面内で組み合わせ、新種の情報体験へと誘う。中心のない、全体像も不明な。それぞれ元の写真が持っていた像としての情報は埋没していて、パーツに眼を凝らすと辛うじて取り出せるが、その必要はなく、切り貼りされた画像同士が何か文脈や意味を持つことはない(そのように設計されているのではないか)。対して加納俊輔は更に複雑で、二次元を三次元に持ってきて、更にもう一度二次元にパッキングし直している。写真をデジタル画像内で処理するのではなく紙で切り貼りした立体物を作る。晴れた屋外の下で影を生じさせ、更にあえて写真の背後も取り込んで写すことで物理的な立体性・空間性が宿される。しかし一枚の写真として再出力されるとそれらは全て2次元平面として徹底的に情報化され、平面内での疑似立体、疑似空間として悩ましさと困惑をもたらしてくる。

6.写真 × 文字の青柳菜摘《とうめいなカギ》では、用いられる写真はストレート、部分的に色調反転したり上から透明度を浅くして別画像を重ねる程度だが、詩=文字が刻まれることで「写真」から遠のいている。文字を撮ったのではなく文字が載った場合、写真はその下部に潜る。

7.不明(コラージュ)は、もはや元の情報が写真なのか、CGなのかすら分からない。迫竜樹《emulation object》エミュレーターということは物理的なモノを真似ている擬態的なオブジェか、されど構成要素のパーツが謎なのもさることながら、全体像も一体何の形をとっているのか謎であった。

こうした、明らかに写真でないもの、デジタルデータや印刷工程が生み出すテクノなノイズ、ペイントを全面的に押し出した作品がもっと多いかと思ったが、展示全体で「写真」からの距離グラデーションが綺麗にとれていたことが驚きであった。

最高だ。

 

 

◆3F_尾角典子『生成の庭』

【開催主体】HUB-IBARAKI ART PROJECT

hub-ibaraki-art.com

薔薇を渡された。

 

造花ですらない印刷物の薔薇に、リアルの薔薇の種がついている。そして裏に言葉のシールが貼ってある。

「旅行者と地元の方」「なんでこんなに賢いん」

 

占い? 違う。だが後にそうとも言えるかもしれない。薔薇は花壇に植える。薔薇の種は鑑賞者が家に持ち帰る。言葉もまた種となる。これは次の部屋、その次の部屋へと歩き進むことで明らかになる。

エントランスには大伸ばしにされた、色違いの薔薇の絵と、スタンド展示ケースが広がる。ケースには紙資料と薔薇の造花のパーツが収めてある。茨木市のリサーチ、市の概要として市HPや「茨木市統計書 令和6年版」エクセル表のプリントが並ぶ。茨木市なるものを分解すれば、種々の統計データから構成されていて、市民や市のシンボル=薔薇はその一部に含まれることが分かる。

「薔薇」茨木市の「市の花」で、シンボルであるだけでなく、市民に親しまれるよう、若園公園で毎年180品種、約1,750株の薔薇が手入れされている。

薔薇も、造花のパーツに分解されて示されている。「茨木市」が分解され遺伝情報を取り出されたのと同様に、「茨木市」と「市民」を結ぶ象徴物「薔薇」が何から構成されているのかを示すものだ。それはこれから展示会場を回る中で、非生命と生命との境界をデジタルによって跨ぐベクターとなる。

 

ケースには、「差異を生む馬力:情報代謝に関する宣言」が封入されている。

情報とは『差異を生む差異』のことである、哲学者グレゴリー・ベイトソンの言葉を動力源のように組み込み、作者は観客を鼓舞する。

 

「あなたの馬力を、この情報の代謝へ投入してください。」

 

そうして手渡されるのが薔薇(という情報)であり、ついでにそれを植えようとする鑑賞者の動きすら情報として花壇・空間に投入される。それらが総合的にAIによって解釈され、最後の部屋でデジタル化された電子花壇の形になる。全ては情報として一つの次元のもとで同等に扱われる。薔薇そして鑑賞者は情報を運ぶ生きたベクターである。全てはこの疑似的な・仮想的な生態系のために。

 

言葉もまた重要な情報である。

エントランスから次に入る部屋は、言葉でぎっしりと満たされている。市民へのインタビューで語られた言葉のプリントが壁を埋め尽くす。フロア中央を取り巻くスピーカーからその語りの音声が同時多発的に流れている。茨木市に関する個々人の関係、記憶の話であろう。だが壁の紙プリントは言葉の全体を見せることはなく、全てが徐々にズレていき、鱗のように折り重なり、カットされながら幾重にも繰り返されていく。地層である。

時間の堆積、そして市民と市との関係の堆積として、言葉の折り重なる地層は情報と情緒の土となって示された。「薔薇」はこの中へと仮想的に植えられ、咲き、言葉を吸い上げて繁茂し種を残すだろう。薔薇に付されていた言葉は、これら市民の声の一片を受け継いだものだろう。

続く大広間では、薔薇の言葉=情報はDNAとして交雑し、予期せぬ組み合わせの群が、詩の亜種となって壁に掛けられている。過去を想って放たれた言葉の記録が、時制から解かれて情報素子として漂い、新たな結合によって新たな命を得る。それは占いのように人々に訪れ、再結合によって未知の詩のように振舞う。

広いフロアの中央には花壇がある。鑑賞者はようやく、渡されていた薔薇を植えて、手放す。

この花壇と薔薇はスキャンされていて、別室でデジタルの花壇に昇華される。また、鑑賞者の振る舞いによって音やアナウンスが変化する。これらはAIによってなされ、会場内で起きたことを情報の次元に写し、更に空間にもフィードバックする。鑑賞者、薔薇、市民の言葉、そして文化会館もろとも全てが生態系=「作品」として再構築的に生成されているのだ。

 

薔薇を花壇に差すことで、我々は歴史、声の象徴を生きたものにする。このとき鑑賞者はポスト茨木市民として遠縁の当事者となる。

これら一連の構造はステートメント「人類がまだ見ぬ新たな生態系」とされる。作者の「生成の庭」全体の構造図によると、「情報代謝の円環」として地上と地下、身体的軸と言語的軸の組み合わせの4象限が、発酵―開花―枯れ―分解のサイクルを表している。ここではAIの介在/転写と照射によってアナログとデジタルの領域が入り交ざっている。「自然とAIの共存」とは、AIがサイクルに溶け込んで透明化することでもある。私はAIを感じていなかった。そして造花は確かに情報を持った「薔薇」であった。

 

 

◆2F・B1F_「real SOU #16 さっき見た夢」(makomo、松塚イェンセン哲子)

【開催主体】SOU — JR総持寺駅アートプロジェクト

www.sou-art.com

 

SOU(JR総持寺駅アートプロジェクト)の中でも実作品を展示する展覧会である「real SOU」は、2018年から半年おきに開催されてきた。16回目、2名の作家:makomoと松塚イェンセン哲子が紹介される。

makomoのキャラクター絵は絶対に何処かで観たことがある。具体的に思い出せないが忘れようもない。1F入ってすぐにキーホルダーやステッカーなどのショップがあり、明らかに可愛い猫や昔話のキャラや、少しだけいびつなわけのわからないキャラクターに親しみを覚えつつ、どうしても何処で出会ったのかを思い出せずにいた。

どこで出会いましたっけ?

作品というよりもデザイン、しかし明らかに製品ではなかったし、デザインと言い切るにはわずかな歪さが大きく感じられた。歪さとは、目鼻立ちにわずかに残された個体の澱のようなもので、何者かの肖像画としての形質情報をまだ数%保持しているのだ。それは進化の過程でつるんと消しきれずに残った尻尾のように、大きな意味を持っている。

どこかで出会った気がする。他のよく似たタッチの有象無象のキャラクターだったのかもしれない。似ているか似てもいないのかはもはや問題ではないのかもしれない。デザインとして仕上げられたカワイイの系譜上で記号的キャラクターは遺伝と変異と交配を高速で繰り返し分岐しているだろう。造形要素の最小限の足し引きが繰り返される、しかしmakomoのそれはわずかにどこかが過剰ゆえにデザイン、キャラクターの域を脱するのだ。線が、部位が、あるいは欠落が、目鼻立ちのパーツや間隔が、どこか、ミニマルに過剰だ。ゆえに「作品」なのだ。

 

松塚イェンセン哲子の作品はうってかわって立体造形、そして写真と言葉の組み合わせというリアル側にあり、makomoと別枠の作家のように思う。が、ミニマルにそぎ落とされた表現形態、丸みを旨とするフォルム、既存の言葉、名称で分類や把握のできない形態を前面に出している点は大いに共通する。

写真と言葉の《ろぐりみんき》シリーズはまったく手に負えない、エッセイ様の詩、詩というには幻視的な物語か、だが作者は『幼い頃からいつも空想の世界や物語で頭の中が一杯でした』『自然の中に行くと木や石が虫が話しかけて来ました』『それは今でも続いていて何処からか言葉が語り掛けて来ます』と率直に言っている。つまり作者にとってのリアルだ。

何処かからやってくるリアルがあるということで、オブジェ群も、部族の民族衣装のように髪や体の一部を切り出し極端に伸ばしたようでもある。おそろしくありきたりな比喩表現をするなら、精霊との邂逅と交感を作品化している。

もちろん精霊は別の何かの比喩だ。直感、天啓だといっても、私のような人間のとは全く異なるメカニズムと動作をしている。私のような近代化に毒された人間のそれは切断、分類、パターン化そして棄却・省略といったものが主となるが、作者は無制限・無作為に事物を接続している。接続の幅はとてつもなく広く、大きく、脱領域的で、動物と植物と無機物と過去と「私」がいつでも如何様にでも主語になり述語になり、結ばれうるのだ。文法や時系列の規定を穏やかに、しかと超えて、直感のまま繋がり合うに任せている。

これは対話の新たな/最も原初的な形かもしれない。

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はい。

量もあるので、なんとか勢いで書き終えたが、実際のところ、コピトラのポテンシャル、そして尾角典子の得体の知れなさはもっと深掘り、あるいは領域の更なる横断や移相を試みてなんやらかんやらしたかった。

特に尾角典子は、今年7月の展示でもコラージュ映像作品を出展していて、それが「生成の庭」とは全く異なるものだったので、ちゃんと書いて考えたいですね。いつやるねん。はい。

 

( ◜◡゜)っ 完。