大阪のキタは梅田「グランフロント大阪」、中央は本町「船場エクセルビル」、ミナミは釜ヶ崎(西成)の3拠点でアートイベントが展開された。
2025年の大阪万博に合わせて、世界最大級のアートフェスティバル「大阪関西国際芸術祭(仮)」が開催を模索されている(今、調べてて初めて知った)、その実現可能性をスタディするという趣旨の展示だ。
私が回ったのは本町の「船場エクセルビル」で、その様子をレポしていきたい。
【会期】R4.1/28~2/13
展示期間がやや短くて2週間ちょっとで、その気になれば全部回れたのだが、行けてないです。諦めました(あきらめんなや)。というのも「グランフロント大阪」の会期は一足早く2/6に終了となっており、あきらめました(あきらめんなや)。
また、グランフロントでは2/4~6の3日間、東京と関西のギャラリーが20組ほど参加してアートフェア(作品嗚展示販売会)も行われていたらしい。規模は小さいながら、「study」の名の通りプレイベントで実験的に行ったのだなと実感した。多角的にやっている。諦めましたけど(あきらめんなや)。。
ただこのイベント、『大阪関西国際芸術祭』という、名前が…。。。「大阪」と「関西」なのが重複的で分かりにくいし、すごく関空っぽいし、頭文字をとって略しようがないので、使い勝手が悪すぎる。「あいトリ」とか「花博」ぐらい何とかならんのかなあ。「おおげい」とか「大アー」(ダイアー)(大阪関西国際アートなんちゃら略)とかね。Twitter投稿しやすく、せっかちな関西人が口頭で伝達しやすいような。
さて以下は、私の訪れた「船場エクセルビル」のレポです。何回かに分けてやるよ。
0.入口周辺など
「船場エクセルビル」はオフィスビルだったのが空になって、今回のように全体を展示会場として使われることに。昨年7~9月にもアートイベントがありました。
この時には1Fにまだコンビニが残っていたのが、今回はそれすら撤退していて、「無」でした。近所の韓国領事館を守る警官、老いた機械のように徘徊する駐車監視員、そしてアート。なんちゅうゾーンや。チアン・サツバツ。まあ治安良かったら良いか、
「ヒトはなぜアートが見たいのか。」
ヒトであろうとするとアートが必要なんでしょうね。牛やサルが絵を描いたのってヒトが描かせたからであって、あれは動物のヒト化。
私がヒトなのか社会システムなのかは意見が分かれるところですが、まあアートを好むという一点においてはヒトなんでしょうね。社会システムって何だ。私か。まあいい。
別の場所では別のフレーズがあったんで、複数バージョンを探すのも面白いかもしれませんね。(注:全14種類あるとのこと)
これは「The Third Gallery Aya」の入っている若狭ビル。
「アートは、流行に消費されるか。」
それに抗うためにアートはこれまでもNFTだのVR・ARだのバイオだのアニメだのとやってきた、つまり大衆やマスコミが消費するよりもっと早く先回りで着手して翻訳・解釈して送り出している、一方であの宇宙に行ったゾゾな人が象徴するようにアートは究極的には「買った」「買われた」の中にしかないだろう、そういうもんかなと腹をくくり続けるしかないのだろう。金くれ。
はいじゃあエクセルビルの1階から見ていくよ。年収上がらへんねんな。下がるんやけど。くそっ。
1.【1F】野田幸江「採集<船場の植物や自然物を集めてみる試み>」
ビル入って1Fの通路折れ曲がり角~エレベーター前までの床と壁に展示。
床には作者がビルのある船場周辺を歩き回って採集した「自然」物が、ゆるく分類されて並んでいる。石、土を丸めたもの、落ち葉や枝、根、生きた植物などだ。こうした「自然」物の採集では動植物にスポットが当たることが多いと思うが、石が多く集められていたところがユニークな気がした。
そういえば石はどこから来たんだろうなー。遠い山を削った土砂が回り回ってきたのか、元々の都市の地層として持っていたものか。
落ち葉は紐で縛られて丸まっている。石などと同じ「かたまり」として提示されている。オブジェと生体の間という感じ。この、葉っぱ類を個別標本ではなく丸く「かたまり」としたあたりは意図を感じる。個別の分類ではなく地質的な見方をしているのだろうか。
この採集の様子が、写真で並行して提示されている。展示としては鉄板の構成だが、都市空間のどこに「自然」があるのか、こうやって見つけるんだなと追体験できて面白い。
かご背負って一杯にしてますがな。採取の状況を見ると、本当に昔話の「しばかり」に近い。ビジュアルだけでも面白い。写真がかなり小さかったのだが、むしろ主役級になるべきではないか。
ここでいう「自然」とは、都市インフラの一部としての植え込み、街路樹や公園と、インフラの継ぎ目・ほころび(溝や敷地の隅など管理の届かないところ)とに大別されるようだ。人為的に植えられ管理下に置かれたもの(=公共物)と、管理をすり抜けたもの(=侵略者)とが並列に並ぶのが面白い。
「久宝公園」、こんな公園あったの!? ギャラリー巡りで毎月のようにこのへん通っていたのに、存在を知らなかった。人間は無意識で選択肢を絞り込んでしまうらしい。人生も・・・ いや。。
こういう、「夏休みの宿題」的なリサーチは、街の再発見――外注に出していた都市空間を利用者・生活者が改めて身体化する機会になる。だいたい植わってる植物の名前も知らないですからね。こうしたリサーチで「本来この場所にこの動植物がいる・あるのはおかしい」というのも気付くかもしれない。
ただ残念だったのが、展示場所。
良い取り組みなのだが、会場入口スペースの「空き」に置かれ、暗いし狭いし、廊下に同化している。というか廊下が勝っていて作品が見づらい。特に写真は、ディテールが確認できない。写真はもっと大きくして、採集物と同等かそれ以上に情報量を見せてほしかった。また、採集物も小さくて細かいものが多いので、もっとアイレベルに近い形で鑑賞したかった。
都会の自然って犬の糞尿やハトやカラスの糞が凄そうだから、衛生的・ミクロレベルでは見た目以上の発見がありそうな気がする。探求のしがいのある切り口だと思った。
2.【2F】落合陽一「Re-Digitalization of Waves」
宙に浮いて回転する彫刻、デジタル画面で動く映像作品、それを元にした半立体的な平面作品、そしてQRコードから飛んだ先のWeb画面上で流通するNFTの動画作品、以上4点から構成される。
4種類の作品は玉突きのように関連し合っているのが特徴的だ。まず計算式の世界から3Dプリンターで物質化した回転体の彫刻、その鏡面に反射した像をデジカメで撮影して動画映像の作品が作成されている。更にその動画は静止した平面作品へと描画・再現され、また同時に動画はNFTアート作品へと派生し流通していく。
落合はこれらが属する体系を総じて「デジタルネイチャー」と呼び表している。著作物を読んだわけではないが、近代以前からポストモダンすなわち現在に至るまで全てはソースコードで記述でき、それらは「人工」対「自然」のように分かたれていた領域を融合させ、従来とは全く異なる世界になるとしている。BLAME(弐瓶勉)の世界みたいなあれだ。違うか。
まず宙に浮いた彫刻だが、中央に突起物の付いた太鼓のような金属体が、浮いたまま結構な速度で回っている。ステートメントによれば、マニ車(チベット仏教やボン教で用いられる仏具、マントラが刻まれていて、回すと回転数の分だけ経文を唱えたことになる)から着想を得ているそうだ。
この回転体は過去の作品《借景、波の物象化》(2018)をベースとしている。
回転体の表面で反射して生まれる像を落合は「風景」と呼んでいる。ここには変化があり光と闇があり奥行きがある。また像は目で見るだけでなく撮影して情報化し、レイヤー的に重ね合わせれば更に異なる動態へ変化させることが可能である。それらが物質の平面を越えて、数式・コードの組み合わせから成るLED内やスマホ内で都度見せる表情の動き――「揺らぎ」を総じて「風景」と呼ぶのだろう。つまり反復的になるが、作者はここに「自然」を見ている。
デジタル映像作品群はとにかくうねり続けていて、写真では伝わらないので動画でどうぞ。
実際に観るとこれはまさに「揺らぎ」で、3次元的な「波」だった。普通の映像というのはあくまで平面的で写真のようなもので、浴びた光によって照らされた表面を映したに過ぎないが、これらは厚さのないはずの液晶画面の「内側」から湧き上がってはまた沈み込んだり、光の線同士がうねり、前後を持ち、奥行きの中で揺らいでいた。動植物の動きともまた異なる。情報、数式が生み出す波だ。内側から起こり、また内側へと沈み込んでゆく。それが繰り返される。
それはこちら側:人間の物理的な身体では知覚できないが、デジタルと呼んでいる数式上の世界では普通に起きている(起こり得る)現象を、向こうの作法とこちらの肉眼との接点となりうるインターフェイス上に現わして見せたように見える。もし私達の眼をコード内にも持つことが出来れば、確かにWebの中身や4G、5Gでの情報流通・流動はこれらの作品のように流動的な電気の動き、「風景」であるだろうし、逆に天候も気温も風も全て記述して取り込めばこのような「自然」景として見ることが出来るだろう。知覚の往還がテーマだと思えばシンプルな作品だ。
デジタル、演算と言うと文系の人間にとっては相当にややこしい話となってしまうが、水族館でアクリル越しに水中の魚の生活を見るようなものだと解釈した。肉眼でそれらを真横から断面的に観測することは至難だが、切り口=インターフェイスを差し挟めば、そこに「自然」があることを「見る」ことが可能になる。落合が取り組んできたことは常にそうした仕事だったように思う。近代化以降に切断・分化された世界の大前提を結合する、特に光や視覚、眼に注目する、その新しい見え方を想像ではなく実装する・・・
ただ、暗い空間でギラギラと光る映像は、かなり眼にとって強い光らしく、さほど明るいわけでもないのに途中から直視するのが難しくなってきた。情報の出力に対して人体が付いていけていないというか、まあ私が老人なんでしょうけども、人体における情報入力の負担が眼に偏りすぎているせいだ。これも全身の皮膚や筋肉、あるいは脳へ直接に振動で伝えて視覚変換するなど、幾らでも展開されていくことだろう。実際に落合は「耳で聴かない音楽会」なども企画している。
面白いのは映像作品を従来の光学的な記録手法、つまり写真で記録しようとすると、全く正確性も美的な価値も損なわれることだ。これらの写真はひどいことになっている。EOS 5D Mark Ⅳで撮影したのに、死んで時間が経ち過ぎたサバのようにひどい有様だ。
「写真」は瞬間を切り取ることで時間軸をゼロに棄却し、3次元的な奥行きのある視覚情報を2次元に落とし込むことに多大な貢献をしてきたが、ここではそれが通用していない。つまりデジタル界の「自然」は3次元より上の性質を持つか、次元の構成要件がこちら側の世界とは違うため、「写真」は情報の大部分を取り落としてしまう。今しがたこれらを「波」と表現したところだが、ものそのものが膨らんで動く海の波などとは別物だ。本作はモノそのもの、場自体の膨らみの形状を持たない。膨らんで見えたのは、経時的な変化を連続して経験したという感触の束なりのことであって、場=液晶自体に「波」は起きていない。波は液晶という光学的に捉えられるモノの向こう側で起きた「自然現象」を、脳がダイレクトに経験したことを卑近な言葉に喩えたにすぎず、像の手前⇔奥と上下左右の同時揺籃を1枚の平面に落とし込むには、平面の中に立体性を伴っているか、あるいは立体上に平面を投影するといった、関数の底上げが必要なのだ。従来の「写真」の記録性にそれを担わせるのは荷が重い。
落合はこのことに自覚的なため、RICOHの「StareReap」という技術によって、平面上での立体的な描画を行い、うまく再現し、また別の体験として派生作品としている。
RICOH「StareReap」はこれです。
従来の「写真」に慣れ親しんだ私としては、電子・演算による世界とか、メタバースによる次世代の世界体験などよりも、今まで流通してきた「2次元」と「3次元」の分類=暗黙の了解・常識が、こうした境界を突く・混ぜ合わせる技術によって揺るがされる方が、インパクトが大きい気がする。これがリーズナブルに普及すると、「写真」体験の大前提が大きく書き換わることになる。楽しみですね。
真正面から離れて見れば平面だが、斜めで至近距離から見れば確かに重なり・積み上がりのある立体だ。
こうしたことは絵画、特に油絵の領域では至極普通のことで、何をいまさら、という感じだろう(『ミケル・バルセロ展』がまさにそうだった。)が、絶対零度の平面に生きてきた写真側の人間としては、平面性を保ちながら立体的な次元、3次元以上の情報を持つ像を表現可能であるというのは、わりと真剣に凄いと再評価せざるを得ないところがある。あります。
さて、こうして割と真剣に堪能して、「落合陽一はアートの歴史を変えた」とか「写真にも革命が来た」となるか、というと、特にそうはならないようにも思う。
一つには、「写真」とは現前性の次元が異なること。つまりどこまでも「写真界」と「デジタル界(デジタルメディア、サイエンス界)」との棲み分けが強固で、それぞれの界隈の構成員はそれぞれ別個の世界の記述の内に生きており、「デジタルネイチャー」はまだ一方向からの提出に留まっている。この越境、領域融解を可能にするには、「写真」のインフラとしての技術的な定義が大きく変革・更新されるか、作家側が横田大輔ぐらい分かりやすくメタレベルで「写真」の問い直しをやり、なおかつデジタルデータ側へ引き込むしかない。(だが「写真」はしたたかで、そうなればなるほど物質界に留まろうとし、想像以上の粘りを見せることだろう。人類を置き去りにする勢いで。)
もう一つには、まさに落合自身が呼んでいるようにこれは「風景」であって、それ以上のものにはなっていないこと。
本作、これまでの作品も含めて、新しい世界記述の知覚の一端を紹介してはいるが、その純粋性ゆえに、耳の痛い話がない。落合作品は、既存の世界――経済、国、業界、人間の知覚や暮らし、美術の歴史や文法など、あらゆるものへの批判や破壊を伴わない。失礼な言い方をすればビジネスライクというか、自身の研究室のイントロダクションであり、安全の保障された技術的な成果発表、企業案件に留まっている印象がある。(あえてそうしているとしか思えない)
国際的に優れた・強烈なアートは、必ず人間世界、特に権力や無知、暴力性に対する批判・指摘と課題解決の提案がセットになっている。あるいはアート、美術、歴史の構造に対するメタな批評や破壊運動を試みる。嫌な言い方をすれば左翼的主張、社会改良を訴えつつ資本主義ゲームの的のど真ん中に矢を当てるという超絶な離れ業をやっている。無茶苦茶だ。(勿論どっかの都知事のように、わけも分からずネズミの壁絵に喜んでツーショットを撮るような文盲もいるから、何とも言えないのだが。)
落合作品は徹底して前者の主張を行わず後者の作法には綺麗に沿っている。チームラボはもっと娯楽寄りだが、いずれもデジタル技術や演算の生み出す世界そのものの可能性の拡張、それが切り拓く革新の美に対して(のみ)「表現」を行っているように見える。そのため深い衝撃や傷のような印象には至らず、観たものに何も残さず何も与えない。本当にアートで勝ちに行くなら、技術による課題解決がなかった場合、もしくは技術が過剰となったり権力性を帯びた場合に訪れうるディストピアの影を忍ばせるところ、逆に「わびさび」や日本的美学に言及していたのは、極めて自覚的だと思う。
人類は、いや、金と時間と余裕があり神をも信じている人間たちは、意識的にか無意識的にか、原罪の罪深さを美しく指摘されたいと思っていて、同時にそれを美しく癒してほしいと思っていて、そうした極端に矛盾した本質ゆえに、説教と美と理屈と経済的価値を兼ね備えたアートを愛しているのだろうとも思う。ソースはないが、そうとでも思わないと、資産価値だけで富豪がアートを買うか?美しいだけで買うか? 説教を? 理屈が合わない。
落合陽一の作品が界隈でどう評価されているのか私は知らないが、耳の痛い話を一切含まないがゆえに、光学的なうねりの「風景」以上のものがあるか、というと、よくわからない。日本的な美を演算と光学や振動による新たな知覚領域において「風景」化するのだ、それが身体的ハンデやその他の不整合に対して、連続面を成立させられ、新たな社会が拓けるのだから、と言われれば、なるほど、分かりました、お願いします(私には出来ませんので)、と言わざるを得ない。まじよろしくお願いします。ッス。
実用の美と風景の美を共に備えた何かに、技術で具体的に取り組んでいることは、よく分かった。後半はほとんど個人的な整理のために書いたもので、本展示の評を逸していることを了承されたい。に"う~。
( ´ ¬`) はいじゃあ次回は3階以降レポるよ。
つづく。